6
桜の実が赤く色付いていた。緑色の頃には気が付かなかったけれど、小さいながらも、ちゃんとサクランボウの形になっている。でも食べられるようには見えないな、と思いながら
「こんにちは。今日はデート?」
後ろから
土曜の午後の事だった。懐空は
恋愛感情があるかどうか判らない、と答えた懐空を、付き合っているうちに好きになるかも知れない、と麗奈は説得した。バイトや勉強の邪魔はしない、デートもしなくていい、そう言われて断る理由を見つけられなくなった懐空だ。
「買い物に行くだけですよ。
懐空の知る限り、土日に帰って来ないこともある愛実だったが、自宅にいれば出かける事はなかった。今日も愛実はきっちりしたスーツを着ている。デートではなさそうだ。
「ううん……うちは、土日は完全にお休み」
愛実の顔が
「これから弁護士さんのとこ」
「弁護士?」
「うん、不倫の代償。奥さんに慰謝料請求されちゃったの」
「あ……」
「そんな顔しない。ごめんね、キミに言うべきことじゃなかったね」
「……駅に出るんですよね? 一緒に歩きませんか?」
自分の口から飛び出した言葉に懐空は驚いたが、今さら引っ込める事もできない。愛実は少し
「そうよね、キミも駅に行くのでしょう? いやでも一緒になるよね」
と、微笑んだ。
彼ね、高校の時、わたしの担任だった先生なの、と、愛実は言った。
「去年の暮、偶然出くわして……わたし、嬉しくってね。高校生の時、憧れていたから」
久しぶりに会えたんだから、何かご
「でも、たった二か月、二か月で彼には逃げられちゃった。彼、良心の
それで、わたしとは別れる、ってことで奥さんは彼を許し、わたしには慰謝料を請求してきたってわけ ――
自分から言い出したくせに、懐空は愛実の話になんと答えればよいのか判らなかった。ただ間抜けな
反対方向の電車という事で、愛実とは改札を抜けたところで別れた。別れ際、愛実は
「はい、そんな顔しない、彼女が心配するよ」
と笑い、
「話、聞いてくれてありがとう。それじゃあね」
と、ホームへの階段に向かって去った。
麗奈とは大学のある駅、麗奈が住んでいるマンションの最寄り駅で待ち合わせていた。
「懐空!」
この辺りにいるはずだ、と麗奈を探す懐空の後ろから麗奈が抱き付いてくる。
「おい、危ないって」
そう言いながら、つい懐空も笑顔になる。愛実から聞いた暗い話を麗奈が吹き飛ばしてくれたと感じた。
「こっちのほうがいいんじゃない?」
麗奈が、手にしたリュックを
高校の時から使っていた懐空のリュックは流石にボロボロで、土曜にでも買いに行こうかな、と懐空が漏らしたのを麗奈は聞き逃さず、一緒に行くことになった。お願いしたいこともある、と麗奈は言っていた。
「ねぇ、これにしない?」
麗奈はそのリュックにして欲しそうだ。麗奈が示したリュックはしっかりした作りで、重いテキストや参考書を入れても充分対応できそうだ。懐空は黙って値札を確かめた。
(うーーん……少し予算オーバーだな)
それを見ていた麗奈が、
「ねぇ、それ、わたしが懐空にプレゼントしちゃだめ?」
と、とんでもない事を言い出す。
「駄目に決まってる。そんな事するなら、もう付き合わない」
「もう! そんな冷たいこと言わないでよ」
「……うん。でも、買ってもらう理由なんかないだろ。おかしいよ、そんなの」
すると麗奈がクスッと笑い、
「懐空の真面目なところ、わたし、好き」
と、腕に
「よせよ、
「いいじゃん、見られたって」
僕は嫌なんだよ、恥ずかしいんだ、と思いながら、懐空は黙る。他人の目を気にしない麗奈の自由さを
「ね、付き合い始めた記念のプレゼントってことでどう?」
「だめだって。それじゃ、僕も麗奈に何かあげなきゃならなくなる」
「じゃあ、ちょうだい」
「……自分で買う事にした。プレゼント交換なんかしない」
「えーーー、懐空のイジワル」
そう言いながら麗奈はどことなく嬉しそうだ。
プレゼント交換も悪くないな、懐空は一瞬、そう思っている。だけど、もし麗奈に何かプレゼントするなら、貰ったリュックと同等以上の物じゃなきゃならない。やっぱり予算をオーバーすることになる。そう思って、だったら自分で買えばいいと判断した。
会計を済ますのをニコニコして見ていた麗奈が
「これで懐空とお
と、嬉しそうに言う。
「わたしのリュックと色違いだって、気付いてなかったでしょ?」
「そうなんだ?」
「うん、そうなの。ねぇ、月曜から使うでしょ? みんなに冷やかされちゃうね」
「そうかな? 誰も気が付きゃしないよ」
「ブブーーー。気が付かないのはきっと懐空だけだよ」
麗奈が嬉しそうに笑う。女の子は冷やかされるのが好きなんだな、と懐空は思った。
「それで、麗奈のお願いって?」
「あぁ……
「なんだ、それくらい
麗奈は自炊していて、時には弁当持参で、懐空にも作ってくれていた。二キロの米ではすぐになくなる。五キロの米を女の子が運ぶのは大変だろう。
「いっそ、十キロ買って行こうか?」
十キロは流石に重かった。自分で言いだした手前、何でもないふりはしていたけれど、初めて行った麗奈のマンションは五階建てで、麗奈の部屋が最上階と聞いた時は少し後悔した。
「エレベーター、こっち」
と、ロック機能付きのエントランスで麗奈が言うのを聞いて、ほっとした懐空だ。
麗奈の部屋はなんだかいい匂いがしていた。玄関を入ると短い廊下があり、その先のドアを入るとダイニングキッチンだった。その奥はガラスの引き戸が開け放されていて、綺麗に片づけられた部屋が見えた。テレビの横に置かれたチェストには花が飾られている。
「お米、どこに置く?」
「ありがとう、そこに置いて……夕飯、食べたいもの、何かある?」
夕飯をご馳走になる予定はなかった。
「いや、もう帰るよ」
「遠慮しないで食べて行ってよ。お米運んでもらったお礼だし」
「お礼なんかいい。いつも弁当ご馳走になってる」
もう、と麗奈が
「懐空の鈍感! 泊まって、って言ってるの!」
麗奈の頬が赤く染まり、懐空は顔が熱くなるのを感じた。
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