5

 ねぇねぇ、と声をひそ忠司ただし懐空かいあに問う。

「それで? 麗奈れなちゃんとは付き合ってるのか?」

ブッと食べていたカレーを吹きそうになった懐空を忠司が笑う。むせ咳込せきこむ懐空が、

「そんなんじゃないって」

やっとそう答え、紙ナプキンを使って口元をぬぐう。


「ただのバイト仲間。麗奈は人懐ひとなつっこいって言うか、図々すうすうしいっていうか……」

「あらあら、彼女でもないのに懐空、麗奈って呼び捨てで? いいなぁ……」

「バイト先じゃ、みんな麗奈って呼んでる。僕は懐空って呼ばれてる」


 バイトを始めて3週間が過ぎた。あれから麗奈は大学で懐空を見つけると、話しかけてきたり、ときには少し離れた場所から、大声で懐空の名を呼び、手を振ってきたりする。恥ずかしいからやめてと言っても、

「気にしない、気にしない」

と言って一向にやめてくれない。


 それを忠司に見咎みとがめられ、学食で関係を追及されているところだ。


 学食のカレーは安くて美味いと尚弥なおやが言っていたが、その通りだった。懐空は三日にあげずカレーを食べていた。そんな懐空を忠司は

「そのうちカレー臭がしてくるぞ」

揶揄からかったが、加齢臭の間違いだ、カレーは関係ない、と懐空は思っていた。


 それがある日、シャワーを浴びているとき、自分からカレーの匂いがしている事に気が付く。

(まじか……)

それからカレーは週に一度と決めた。


「麗奈ちゃん、可愛いよなぁ……ねらってるヤツ、結構いると思うよ」

 忠司の言葉に、そうだね、バイト先にもいるよ、と懐空は思ったが黙ってた。

「なぁ、今度3人で、どこか遊びに行かないか?」

「3人って?」

「おまえと俺と麗奈ちゃんに決まってるやん」

「彼女がいるんだろ? バレたらまずいんじゃないのか?」


 食べ終わったカレー皿にスプーンを置きながら懐空が言う。

「バレる? どうして? 敵は遠く離れた宮崎にいるんだぞ?」


 忠司、おまえの彼女はおまえの敵なのか? 懐空は呆れたけれど、やっぱり黙っていた。


 親元を離れ、恋人とも離れ、きっと忠司は寂しいんだろう、と懐空は思った。母親と離れただけなのに、一抹いちまつの寂しさを懐空も感じている。気晴らしが欲しくなるのも判らないでもない。でも、その気晴らしに誰かを利用するのはだめだと思った。だいたい、僕に麗奈を誘うなんて無理だ。


「それに、女の子と遊びに行くだけだ。浮気ってわけじゃない」

 忠司はあきらめが悪い。


「じゃあさ、忠司は彼女が男友達と遊びに行っても気にならないんだ?」

「いや、それは……」

忠司はニヤリと笑う。

「気になるが、知らなきゃ気にもならない」

「おぉーーい」

つい、懐空も笑ってしまった。


 ところが二人して食器を下げに行くと、下げ口の手前でバッタリ麗奈と遭遇してしまった。

「懐空、カレー食べたんだ? 一緒だね」

見ると麗奈のトレイにも一目でカレーを食べた後とわかる皿が乗っている。


「あ、ちわっす。俺、懐空の友達の篠崎しのざき忠司。よろしくね、麗奈ちゃん」

ちゃっかり忠司が麗奈に話しかける。

「懐空の友達なんだ? よろしくね」

麗奈が可愛い笑顔を忠司に向ける。

「ねぇ、良かったら今度、懐空と3人で、どこか遊びに行こうよ」


 下げ口に食器を突っ込みながら忠司が麗奈を誘う。僕の気持ちは無視かよ、と懐空は思うが、どうせ麗奈はことわるだろうと成り行きを見守る。


 ところが、

「いいね、行こう、行こう。たい映画があるの」

と、懐空の思惑おもわくはずれる。しかも麗奈は誘われたのが嬉しそうだ。懐空の心が大きく揺れた ―― 誘われたら簡単にOKするのかよ。そんなに嬉しそうな顔をするのかよ。


「映画か、いいね、行こう。な、懐空」

「僕は行かない。平日はバイトだし、土日は勉強したい。行きたければ二人で行くといいよ」

食器をさっさと返却し、懐空は忠司が引き止めるのを無視して学食をあとにした。


 その日の最後の授業は忠司と一緒で、当然のことながら、懐空は忠司に捕まる。

「さっきの、あれはないだろう?」

「うん……本当にバイトで忙しいし、遊んでいる余裕なんかないんだ」


 忠司が探るように懐空を見る。

「そうだとしてもさ、懐空、何か怒っていただろ?」

あれは怒りだったんだろうか?

「ごめん、忠司をしつこいな、と思った」

「そっか、確かにそうだな、しつこかった。俺も悪かったよ」


 忠司はそう言ったが、まだ何かうたがっていると懐空は感じていた。それに、気になる事もある。

「それで、麗奈ちゃんと映画に行くことにしたんだ?」


 なんでそんなこと聞くんだ? と言われないか、気になるのか? と言われないか、恐る恐る懐空は聞いた。

「いや、行かないよ」

忠司が懐空に向き直る。


「麗奈ちゃんね、懐空の事が好きなんだって」

「あ?」

「だから、俺に誘われて嬉しかったって。俺と一緒だろうが、懐空と映画を見に行けるって」

「か、揶揄からかうなよ。だまされないぞ」

「揶揄ってもいないし、冗談でもない」

 忠司の顔はいたって真面目だ。

「ちゃんと麗奈ちゃんと向き合った方がいいよ。いくらアピールしても懐空は振り向いてくれないって麗奈ちゃんが言ってた ―― 懐空、本当は麗奈ちゃんの気持ちに気が付いているんだろう?」


 そこで講師が教室に現れ、話しは中断された――


 授業が終わると速攻で、バイトがあるから、と教室を出た。忠司は『またな』と言っただけで懐空を引き留める事はなかった。


 バイト先で麗奈と顔を合わせるのは気が重かったが、休むわけにはいかない。麗奈が何か言いだしはしないかとビクビクしていたが、麗奈の態度が変わる事もなかった。


 それが、閉店時間が迫り、片付けが始まるころ、こっそり麗奈が『話があるから駅前で待ってて』と書いたメモを手渡してくる。無視しようと一度は思った懐空だったが、このままじゃ、毎日同じことが繰り返されるかもしれないと思い直し、改札を少し過ぎたところで待つことにした。だいたい、なんの話かは聞いてみないと判らない。バイトでの悩みとかだったら、相談に乗ってあげたい。忠司に惑わされちゃいけないと思った。


 しばらくすると麗奈がこちらに向かってくるのが見えた。調理助手の庄司しょうじさん、ホール係の遠藤えんどうさんと三人で談笑している。


「あ、忘れ物しちゃった」

 麗奈の声が聞こえる。先に行って、と二人をうながし、来た道を引き返していく。二人は懐空に気付かないまま改札へと消え、引き返したはずの麗奈が、改札の手前で懐空を手招きした。


「ごめんねぇ、店を出る時、捕まっちゃって」

 麗奈はそう言いながら、改札から真っ直ぐに伸びる道を進んだ。

「この先に公園があるから。駅前で話してて、誰かに見られたくない」


 人に見られて困ることなんかない、と懐空は思ったが。麗奈の希望に添わない理由もない。


 駅前の賑わいから少し離れた公園は街灯が一つあるだけで薄暗かった。なるべく明るい、歩道近くのベンチに座って話を聞いた。

「懐空、わたし、懐空が好きなの」


 頑張っていろいろ気を引こうとするのに、懐空は気が付かないふりばっかしてる。判っているんでしょう?

「わたしの事、嫌い?」

「いや……」


 なんて答えればいいんだろう? 懐空は言葉を見つけられない。

「いや、その……嫌いじゃないけど、バイトや勉強が……」

忙しいから、そう言おうとした懐空に麗奈の腕が巻き付いて、唇を唇で塞がれる。


「そんな言い訳聞きたくない」

こんな近くで他人の顔を見るのは初めてだ、と懐空は思った。いや、その前に、キスしたのが初めてだ。そっちを先に思うんじゃないのか普通は? 僕は普通じゃないのかな?


 心臓がバクバクしているのは、告白されたから? キスされたから? それにびっくりしたから? それともその全部? ―― 座っているのにこんなに心臓が脈打つのも初めてだ。一キロは全力疾走したみたいだ……


「わたし、懐空と付き合いたいって思ってる。考えてみて」

 そう言うと麗奈は懐空を残して帰ってしまった。


 アパートに向かう坂道を登りながら、治まらない動悸を懐空は感じていた。


 僕は麗奈の事をどう思っているんだろう?


 忠司に嬉しそうな顔を見せた麗奈を見た時に感じたのはきっと嫉妬しっとだ、判っていた。麗奈が自分に好意を寄せているのにも気が付いていた。その麗奈が忠司にいい顔をしたから嫉妬した……それだけか? 自問自答に答えが出ない。


 アパートに辿り着くと、桜の木の下に人影がある。愛実あいみだ。しゃがみ込んでいるところを見るとサクラも来ているのだろう。


「こんばんは」

 懐空の声に愛実が振り向いて、見上げる。あたりに魚臭い空気が立ち込めている。

「こんばんは。サクラちゃんに猫缶をあげているの」


 あぁ……猫缶の匂いか。こんなに強烈なのが猫は好きなのか。 


 愛実と並んでしゃがみ込み、猫を眺め始めた懐空を愛実が笑う。

「少年、何か悩み事があるな?」

「え?」

「顔にそう書いてあるよ。よかったらおネエさんに話してみる?」

「僕が少年で、樋口さんはおネエさん?」

「オバさんだろうって?」

「いや、そうじゃなくって」

慌てて懐空が否定する。そんなつもりはなかった。


「少年は今年大学生、つまり十九か、そこら。浪人した?」

「いいえ、浪人する余裕がなかったから必死でした」

「じゃあ十九だね。わたしより十二も下じゃ、私はオバさんに見えても仕方ないね」

「え?」

「で、悩み事は?」

「あ、いや、その……」

猫缶を食べ終わったサクラがニャーと鳴いた。

「無理に聞くなってサクラちゃんに言われた」

愛実が笑いだす。


「ご馳走さま、って言ったんじゃ?」

 懐空の言葉に

「いいこと言うね」

と言うと、空になった猫缶を拾って愛実は立ち上がった。


「お食事直後だから、あんまり撫で回さないでいてあげてね」

 さっさと階段を昇っていく愛実を懐空は見送った。今度チャンスがあったら、と懐空は思った ―― 愛実になら相談できる気がしていた。

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