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 懐空かいあのバイト先、トラットリア『フェリイチェ』は気軽にイタリア料理が食べられると評判の店だった。ファミレスよりも二段階上をイメージしている、とシェフの奥さんが言った。


「普段はファミレスとか、ファストフードでも、何かのお祝いや記念日とか、週に一度、月に一度はあの店にしよう、と、思うのに、二段階上って丁度ちょうど良くない?」

と、笑う。


「目いっぱいの贅沢ぜいたくが欲しい人はもっと上の店に行けばいい。うちはね、ちょっとした幸せを感じられる店でありたい」


 奥さんから、自分の事を『マンマ』と呼ぶように言われる。ママと同じだよ、と言うので懐空が

「それじゃあ、シェフの事は『パンパ』と呼べばいいんですか?」

と、言ったものだから、数人のバイトが吹きだしてシェフにたしなめられた。


 従業員は、ホールに懐空を入れて4人、厨房ちゅうぼうはシェフと助手が二人、洗い場に一人。マンマは常にドアの前で来た客の案内をし、帰る客の会計を済ませ見送る。そうしながらホールを見渡して細かい指示を出していた。


 初日はテーブル番号を覚えるだけで手一杯だった。早くメニューを覚えるよう言われたけれど、聞きれない言葉が多く、果たして勤まるだろうか、と懐空を不安にさせた。今日は配膳だけだが、いずれオーダーを取る仕事もする。


 テーブルに料理を出す時、料理名を言わなくてはならないのに、キッチンで覚えたつもりの料理名を時々、間違えて言ってしまったようで、クスクス笑う客が何人かいた。

「新人さん、頑張ってね」

常連客の多い店で良かった、と懐空は思った。


 店の夜の開店は19時だったが、バイトは18時からで、23時の閉店まで。アパートまで歩いて12分くらい。バイトを自宅に近い場所にして正解だった、と疲れた足を引きずって駅に向かう懐空を呼び止めたのは、同じホール係で、やはり今日からバイトに入った中川なかがわ麗奈れなだった。懐空と麗奈の二人が、今年の新人だとマンマが言っていた。


「大野くん、一緒に帰ろー」

 少し遅れて店を出た麗奈は小走りで懐空に追いつくと、懐空の腕に自分の腕をからめてくる。


「いや……ちょっと……」

女の子と腕を組んだ経験のない懐空が戸惑とまどう。こんな時、どうしたらいいんだ?


 振り払おうにも、気を悪くしないか心配だし、かと言って、このまま腕を組んでいたら緊張で押しつぶされそうだ。


「なに? どうかした?」

「いや、僕の家、駅を過ぎた向こうだから」

「そっかぁ、それじゃ一緒は駅までだね」

麗奈は屈託がない。


「わたしは創恵大の1年。大学の近くに住んでるよ」

「あ、そうなんだ? 僕も同じ大学、学部は?」

「本当に? わたしは文学部、懐空は?」

 いきなり懐空と呼び捨てにされて驚くが、気が付いていないふりをする懐空だ。


「まじ? 僕も文学部」

「やった! 大学でも懐空の顔が見れそう。嬉しいな」

「え?」

「じゃあ、また明日!」


 駅の改札に辿り着いていた。懐空の混乱を気にすることなく、麗奈は改札を通り抜けて行く。


(どういう意味?)

 呆然ぼうぜんとしていると、ホームに出た麗奈がフェンス越しに見えた。向こうもこちらを見ている。懐空の場所は最初から分かっているのだから、いるかもしれないと思って、こちらを見たのだろう。


 手を振っている。仕方ないので懐空も振り返す。するとそこに電車が走り込んで来て、麗奈の姿を見えなくした ――


 炊飯器に朝炊いた飯が残っている。おかずは何にしよう。今日はもう疲れたから、そうだ、納豆でいいや。冷蔵庫にある……そんな事を考えながら懐空は坂道を登った。何か考えていないと、麗奈のさっきの行動の意味をあれこれ推量してしまいそうだった。他人ひとの気持なんか、どんなに考えたって他人たにんに判るはずがない。無駄なことをするな、自分に言い聞かせる。


 それなのに、もし大学で麗奈にあったらどうしよう、とつい考えてしまう。こっちが先に見つければ隠れる事もできるけど、先に見つけられたら隠れたりできない、不自然だ。あれ? どうして僕は隠れなきゃならない? 意識しすぎていないか?


 ―― 麗奈は可愛い。きっと男にチヤホヤされる。さっき僕に言ったのは、ちょっと僕を揶揄からかってみただけ。面白がっただけだ。


 マンマは、ホール係は見た目で決めると言っていた。極端に太っていたりせていたりしなければいい、そして猫背でなければいい、と言った。


「顔はね、できれば美男美女、そこそこでいいけどね。絶対条件は、ちゃんとした身嗜みだしなみができていて表情が明るいこと」


 せっかくお金を出して、少しの贅沢を味わいにきているんだから、料理を出してくれる人がどんより暗くちゃ申し訳ない。


 マンマも明るく、そして美人だった。年齢は40歳くらいだろうか。うっすらとほどこされた化粧は濃いめだが、上品で厭味いやみがない。常連客らしき人が帰り際に、今度デートしようと誘うのを『わたしはシェフ一筋よ』となしていた。先輩のホール係が、いつも同じこと言うお客さんで、マンマもいつも同じ返事をするんだよ、と教えてくれた。


 マンマはそこそこでいいと言ったけど、麗奈はそこそこどころじゃないと思った。出来上がった料理を厨房に取りに行ったとき、シェフの二人の助手がこっそり『今度の子はめっちゃ可愛いな』と話しているのが耳に入った。


 ぱっちりとした目元、白い肌……髪はショートカットで、快活な性格にあっていると思った。『お待たせしましたぁ』とテーブルに料理を運ぶ声も心地よく響いて、ただ、『語尾を伸ばさない』とマンマに注意されていた。


 ふと懐空は立ち止まる。どっちにしろ僕には関係ない。いくら麗奈が可愛くても、僕の恋人になるわけじゃない。それに、今の僕に恋をしているひまなんかない。


「早く帰って納豆食うぞ」

つい口にして、懐空はすれ違う人を驚かせてしまった。


 サクラ猫のサクラちゃん、今日もいるかな、と思ってアパートの敷地に入ると、階段を降りてくる愛実あいみがいた。木の下に猫の気配はない。


「こんばんは」

 懐空を見て愛実がニッコリ笑う。その笑顔に懐空がつい見惚みとれる。マンマより、麗奈より、愛実が一番綺麗だ ――


「こんばんは……こんな時間にお出かけですか?」

「……うん」

愛実がクスリと笑う。


「着替えに一度帰ったの。前日と同じ服だと、仕事に行きづらいから」

「あ……」


 恋人のところに行くんだ……愛実がそう言ったわけじゃないのに懐空はそう思った。


「それじゃ、おやすみなさい」

「いってらっしゃい……」

駅に向かう愛実を懐空はただ見送った ―― 失恋した気分だった。

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