眠る二〇〇万円

示紫元陽

眠る二〇〇万円

 東雲しののめミナミは自分の家で小鳥遊たかなしマユと放課後をだらだら過ごしていた。学年末試験も終わり、部活に入っていない二人は最近、こうしてお菓子片手にゆったりとした空気に身を浸している。

 本日は三月十五日。以前より気温は幾分上昇して春の陽気を感じられる時節となっている。ティーバッグで淹れた紅茶が緩やかに湯気をくゆらせている横で、ミナミは大きな欠伸を一つした。

「眠そうね」

「そりゃあね。テスト終わったのになんで授業あるの。体育の後の世界史とか子守唄でしかないじゃん」

「それはテスト後とか関係ないじゃない。まぁどうせ夜中までアニメでも見てたんでしょうけど」

 マユにズバリと言い当てられ、ミナミはバツの悪そうな顔をした。誤魔化すようにクッキーを一つ口に放り込む。サクッという触感と共に、バターの香りが口に広がった。

「今期は楽しみにしてたアニメがいっぱいあったの。テスト期間は我慢してたんだから許して」

「それで朝起きれないんじゃ本末転倒よ」

「学校には間に合ってるから問題なし」

 やれやれと嘆息を漏らし、マユはティーカップを口に運ぶ。だが淹れたての紅茶だったため、少しだけ口に含んですぐにソーサーに戻した。ちろりと舌を出した姿が可愛らしい。

「でも朝の目覚めは大事だと思うわよ。『早起きは三文の徳』って言うし」

「いやでも三文って少ないんじゃないの? 具体的に何円くらいかは知らないけど、絶対安いじゃん」

「ケチつけるわねぇ。うーん、ちょっと待って」

 マユは携帯でブラウザを立ち上げてささっと検索をかけた。

「時代によって変わるみたいだけど……。まぁだいたい一文三〇円くらいと考えると、三文で九〇円くらいかしら」

「ほら、九〇円ごときで早起きなんかやってられないね」

「何言ってるのよ。むしろ思ったよりあるじゃない」

「え、嘘」

 自信満々に主張したミナミだったが、即座に否定されて目を丸くした。九〇円なんて駄菓子くらいしか買えないではないか。

「『塵も積もれば山となる』ってことわざ知らないの?」

「それも知ってるけど、さっきからことわざ披露会でも始まったのかな」

 マユは毎日積み重ねるとそれ相応の額になると言いたいのだろう。しかし、そうは言っても九〇円である。別に九〇円を馬鹿にするわけではないが、積もったところでたかが知れていると考えるのはミナミだけではなかろう。それくらいなら惰眠を貪りたいと思うのは不思議ではない。

 そんな勘繰りを悟ったのか、マユは持参していたノートパソコンを立ち上げた。趣味の小説を書くために、スペックはそれほど高くないが親が買ってくれたらしい。彼女はデスクトップから表計算ソフトウェアを開いた。

「一年を三六五日として、一年で三万二千八五〇円。三年で十万弱ね」

「三万!? え、そんなに? 何買えるっけ」

「掌返すの速すぎるわよ、って危ない」

 ミナミはテーブルに手をついて身を乗り出すと、カチャリとティーカップが揺れたためマユは慌てて手で押さえた。紅茶がパソコンにかかっては目も当てられない。そんな抗議の眼を向けると、ミナミはごめんごめんと言いながら元の位置に坐した。ついでにクッキーをまた一つ食す。それを見とどけたマユは少し冷めて飲みやすくなった紅茶を口に注いだ。カップを置くと、唇についた水滴が夕陽に煌めいた。

「ミナミ、誕生日いつだっけ?」

「え? 一月三日だけど」

 突然の質問だったが、マユの思い付きはいつものことだからと思ってとりあえず答えた。マユはそれを聞いてカタカタとキーボードを叩き始める。

「何するの?」

「ちょっとね」

 ミナミは「そう」とだけ答えて紅茶に口を付けてしばらく待つことにした。こうなるとマユは没頭して話などろくに聴きはしない。たとえ返事があっても赤べこと同じである。気になって画面を覗いたりもしたが、暗号みたいな文字列が並んでいて、ミナミにはマユが何をしているのかさっぱりわからない。しばらく終わりそうにないため、手洗いに立つついでにお菓子の追加でも持ってこようと思い、ミナミは部屋を出た。

 ミナミが部屋に戻ると、マユは正座をしてパソコンの前で優雅に紅茶を飲んでいるところだった。どうやら作業は終わったらしい。

「満足いった?」

「えぇ、ありがとう。『命のお金』を計算してたの」

「何それ?」

 きょとんとした顔をミナミが向けると、マユはパソコンを回して画面をミナミの方に向けた。見ると、表計算ソフトのシートになにやらいくつか数字が入力されている。

「早起きすると九〇円ってことで、毎日続ければどれくらいの金額になるのか計算してみたの」

「ふぅん、なるほど。でもそれがなんで『命のお金』なの?」

「一日って、意外と蔑ろにしてしまいがちじゃない? 今日くらい別にいいかとか、また明日があるとか言い訳してしまう。でも、その一日が変えられないお金だと考えればちょっと認識が変わるかなって。まぁ九〇円じゃなくてもいんだけど、今回はせっかくだし」

「ほぉ……」

 この前の推し活が持続可能などという発言に比べれば言っていることは十分理解できるのだが、いかんせん行動が理解できないミナミは、持ってきたコアラのマーチを無言で開いて皿にばらまいた。マユは成果物に満足したのか、用意されたチョコをひとつまみする。

「それで、どれくらいになるの?」

「えっとね、二〇〇万円にはなるかな」

「二〇〇万!?」

 ミナミは口に入れようとしたコアラのマーチを取りこぼした。高校生には信じられない額であるから致し方ないだろう。今度は机に肘をついて顔を前に突き出す。マユはミナミの行動を見越して既にティーカップを手に収めていた。

「毎日九〇円の換算だけどね」

「それでも、けっこう蓄積されるもんだね」

 想像以上の金額に度肝を抜かれ、日々の積み重ねの凄さにミナミは感嘆の声を漏らした。早起きが大事と言われてもこれまで聞く耳を持っていなかったが、手放しで納得してしまうほどである。これからは私も早起きしてみようかなと、頭によぎりさえした。

「ほんとにねぇ。でも死ぬまで溜めても自分は使えないんだけど」

「え、死ぬまで?」

 マユの言葉にミナミはうっすらと嫌な予感が芽生えた。そういえばどれくらいの期間で二〇〇万という大金が溜まるのかを度外視していた。それが死ぬまでという期間ならば、溜めても本当に仕方がないし、果てしなくて考えたくもない。

「そう。さっき調べたら、日本人女性の平均寿命がだいたい八八歳らしいの。で、ミナミの誕生日で計算すると、今日から毎日早起きして九〇円得た場合、八八歳で二〇〇万を越すって結果だったのよ。すごくない? 米寿まで生きたことへの相応しい対価だと思わない?」

「一瞬でも早起き凄いと思った私が馬鹿だったよ」

 ミナミは身体を後ろに倒して大の字になった。やっぱり九〇円くらいで早起きなんてしてられない。別に八八歳で零円でもいいや、と思った。


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