第2話 Sの細い銀縁メガネ
「こんなものは僕は認めないから」とSは、細い銀縁眼鏡の細い眼に怒りと軽蔑を溢れさせながら言った。
僕は30代前半のペーペーで、Sは上司だった。
僕とSが会社から命じられていた仕事は、かなり厄介なもので、そもそも僕はその仕事自体無茶な話で上手くいく訳がないと思っていた。思ってしまうと言動に出さずにはすまないたちなので、Sは僕を目の敵にしていた。Sにすれば、会社の命令に粛々と従って会社の覚えめでたくやりたいのに、僕は本当に邪魔者だった。
随分苛められた。周りの社員に僕と口をきくなと言っていたと後で知った。村八分。
「こんなもの」というのは、僕が徹夜で仕上げた企画書だった。Sは僕が差し出した瞬間にそう言った。僕のやることは一から十まですべて嫌なのだ。
一晩、飲まず食わずでPCを叩いた。朝7時にようやく形になった。突然空腹を覚えた。同じ課の社員の出張土産の煎餅の箱が机の上にあった。僕は一枚の煎餅を夢中で噛み砕いて呑み込んだ。途端に吐き気が込み上げてきた。トイレに走って吐いた。胃ごと上にあがるような痛みで、白い陶器が滲んだ。
Sは認めないとは言っても突き返すことはしない。ミーティングで僕に説明させて、くそみそに批判して潰そうと考えているのだ。
Sは舌足らずというか、飴玉が口の中にあるような、一語一語が絡みつくようにしゃべる。「徹夜したからなんて、関係ないからね」
「あたりまえだ、馬鹿にするな」僕は無表情に胸の内で罵る。大体、根本が間違っている仕事なのだ。僕の企画は一時凌ぎの小賢しいものにすぎない。最後には失敗しか待っていない。でも一時凌ぎの間に変化しないだろうか、ほんとに幽かな幽かな期待だ。
僕は自分の考えが正しいと信じている。Sやその一派からすれば、馬鹿な厄介者以外の何者でもない。人事評価もひどいもんだ。不祥事でも起こした奴並の評価だ。
しげしげとSの顔を見る。嫌な目付きだ。口が歪んでいる。歪めているのではない。そういう顔なのだ。しょうがない。
ミーティングが始まった。担当役員も出席している。Sは嬉しそうだ。
僕は、もう感情も動かない。淡々と企画書を説明する。
説明が終わった。Sが身を乗り出した。
その瞬間、役員が言った「これでいいんじゃないか。ご苦労様」。
Sは唖然としていた。口だけではなく顔全体が歪んでいた。「ムンクの叫び」
僕も唖然とした。嬉しくはなかった。役員もこの程度の理解か。
役員はさっさとミーティング室から出ていった。
Sは、上目遣いに僕をめねつけるように見ながら「君の企画だから、後は君一人でやるように。」
それだけ言うと、がたっと椅子から立ち上がって部屋から出ていった。Sは普段からがに股だが、急ぐとがに股が酷くなる。これまで見たなかで一番のがに股だった。
その後一年程で会社は僕たちに指示していた仕事を取り止めた。当たり前だ。こんなことを思い付いた奴はどこの誰だ。何か分かったような気になっているお偉いさんの思い付きだったんだろう。そのために酷い目に遇う人間がいるんだよ。「試練だ、チャレンジだ」とでも言うんだろうな。
僕は支店に飛ばされ、Sは本店の課長になった。清清した。あの歪んだ顔も、あの絡みつくような声も聞かなくてすむのだから。
三年後僕は本店に戻された。
三年前、あの仕事に関わり、僕を無視していた奴の一人から連絡があった。あの仕事に関わった役員以下で集まって酒を飲もうという。
正気か?僕は欠席すると即答した。
その翌日、晴れた穏やかな昼休み、僕はオフィス街の通りを歩いていた。
Sが歩いてきた。眼鏡を光らせて。
「やあ、久しぶり。会には来ないの?」と屈託の無い笑顔で言った。
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