猫のような君と
谷風 雛香
ミルクティー
ブラインドが閉じ掛けたオフィスの窓際で、大量の仕事を僕は消費していた。いつもと違うのは今日が日曜日だということと、自分ともう一人、休日に出勤をしている人間がいることだけだ。
僕の目の前に座っている彼女は、所謂ブラック企業と呼ばれるこの会社に、1週間前に中途入社で入ってきた。仕事はできる方だが人と群れない性分の持ち主らしく、働いて2日目に部長と喧嘩して嫌がらせで仕事の量を増やされている。
不意に視界に入った窓の外に見える青空と現実との差に首を横に振り、ふと彼女の方を見ると目があった。
「ねぇ、なんでこんな会社さっさと辞めちゃわないの?」
彼女は不機嫌そうにため息をつきながらそう言った。僕は少し驚きながらも、改めて自分でもなんでこんな会社にいるのか不思議に思った。
「さぁ…生活費を稼ぐためとか?」
「なんで疑問系なのよ」
ますます彼女は不機嫌そうになる。真面目に答えなければ面倒なことになりそうだ。
「働く以外の選択肢がもう無くなっているから……かな」
「自分のことなのにハッキリしないのね」
胸に鈍い痛みが走る。僕は彼女のこういうところが苦手だった。
「まぁ、いいわ。所詮あなたの人生はあなたのものなんだし。ただの同僚に言うことではないわよね」
彼女は小さくため息をつくと、窓の外に目を向ける。
「人生いろいろなんて歌詞があったような気がするけど、神様は人に差をつけ過ぎなのよ」
彼女は窓の外を睨みながらそう言った。目線の先が、空を飛んでいる飛行機なのかそれともここからは見えない誰かなのか、僕には分からなかった。
「人生なんてテトリスみたいなもんだよ」
「テトリス?」
こちらに振り向いた彼女と視線が合う。訝しむようにイスが軋んだ音を立てた。
「そう、幸せな時間は綺麗にはまって気づいたら全部なくなってる。そのくせ嫌なことは複雑に積み重なって消えることはないんだ」
「ひねくれてるわね」
「まともな人間が日曜の昼間にこんなところにいると思う?」
「たしかに」
彼女はそう言って笑うと、背伸びをした。
「ねぇ、桜を見にいかない?」
いきなりだなと僕は思った。だけど、ここで仕事をするよりはずっといい提案だった。
僕の会社の近くには、10分も歩いたところに大きな川がある。そこはちょっとした花見のスポットだった。
先に会社を出た僕は、近くの自販機で彼女用のミルクティーと、自分用の缶コーヒーを買った。そして、それを飲みながら川辺で彼女が来るのを待った。
それから少しして、飲み終えた缶コーヒーを近くの公園に捨てに行き、もとの場所に戻ると彼女が川辺に座っていた。
「どこにもいないから探したじゃない」
彼女は、僕に気づくと避難がましくそう言った。
「ゴミを捨てに公園に行ってたんだ。君だって遅いからもう来ないんじゃないかと思ったよ」
僕は彼女に正直にそう言った。彼女に嘘をつくのはなにか違う気がしたから。
「失礼ね!約束は守るわよ。私は、満開の桜より葉桜の方が好きだし、ほろよいを飲むならストゼロを飲んで吐いた方がいいって思ってるし、追われるより追いたい恋が好きな女よ」
「ほろよいになにか恨みでもあるのかよ」
呆れた僕がそう言うと、彼女は昼間の野良猫のような顔でタバコを吸った。タバコを吸う彼女を見るのはこれが初めてだった。
「だって、ほろよいってミーハーの女が飲んでそうじゃない。私ああいう女嫌いなの」
「風評被害もいいところだな」
そう言いながら、僕は彼女の隣に座った。僕達の前を流れる川は穏やかで、ときどき桜の花びらが浮かんでいるのが見えた。
僕たちは散りかけの桜を見ながら話をした。仕事の愚痴だったり、好きな食べ物だったり、そんなくだらないことを。
僕はポケットの中で、ぬるくなったミルクティーの缶を弄る。缶のぬるさが自分の度胸のなさを表しているようで嫌だった。
「ねぇ、喉が渇いた」
彼女の肩に桜の花びらがひらりと落ちる。
今日は天気がいいし、暖かい。ずっと話していたら喉も乾くだろう。
「近くに自販機があったからなんか買ってくる。何がいい?」
僕は立ち上がり、ズボンについた汚れを払った。ついでに、ポケットのこいつも捨てよう。
「ぬるくなったミルクティー」
「え?」
僕が驚いて振り向くと、彼女はいたずらが成功した子供のようにニヤリと笑った。僕が初めて見る顔だった。
「買ってきてくれてたんでしょ?」
「なんでわかったんだよ…」
気まずくなり目線を横に逸らす僕に彼女は茶化すように言った。
「それ、くれないの?」
彼女の白い指が僕のポケットを指さす。
「だってもう温かくないし、むしろ冷たくなってるし。新しいの買ってくるよ」
口から次々と言い訳が出てくる。昔から素直になれない自分が嫌いだった。
「それがいいの、私にちょうだい」
手を合わせてそう言ってくる彼女に僕はため息をつく。
「いいよ、不味くても知らないからね」
「ありがとう」
ミルクティーを渡すと彼女はそれを飲みはじめた。
「ねぇ、また来年ここに桜を見に来ない?」
「いいよ」
彼女は遠くを見つめていた。その視線の先に何があるのか、僕にはやっぱり分からなかった。
春はもうすぐ終わって、次に夏が来る。目まぐるしい季節のなか、僕と彼女の関係がどうなっていくのかはまだ分からない。だけど、少なくともあの会社は辞めていたいと僕は思った。
猫のような君と 谷風 雛香 @140410
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