第3話



 少し西日の入る部屋はカーテンが半分引かれて、開いた隙間からはバルコニーごしに、夕日が落ちた空が群青から灰色の闇に変わっていくさまが眺められる。繁華街には珍しい空の広さが気に入っていた。

「喋れるか?」

 ベッドの上で真っ裸のまま、腰から下をかろうじて毛布で覆った姿の相手に男が声をかける。シーツを敷き替えてコーヒーを煎れて飲ませて、煙草まで吸いつけて咥えさせてやった男は出勤支度中。夜の街に溢れているアルマーニやラブレスといった細身の既製品でなく背丈も肩幅も立派なこの男にあわせたオーダースーツは体躯の重量感をいっそう際立たせる。化粧はしない主義だが顔色は冴え冴えとして、不健康な生活に荒れた肌をしている同僚たちとは一線を画す凛々しさ。 

「……」

 尋ねられた美形は答えない。世の不条理をつくづくと感じている。気の利く優しい恋人面をした男に嫌味を言ってやりたい。乱暴な抱き方に対する苦情を言ってやりたい。何年オトコやっているんだと罵ってやりたい。けれどカーテンで残照から隔てられた自分の手首にもざっと拭われた狭間にも怪我も痣もない。

 主観では折れるほど捩じ上げられた肘も握り潰されそうだった手首も、砕けんばかりに掴まれた腰骨も、事後に眺めれば白々として指の跡さえないのだ。ほっぺ艶々させやがってと満足そうな男を非難したいけれど、たぶん自分も同じと分かっているからため息をつくしかない。身体の何処も大して痛まず、快楽けらくに溺れすぎた結果の心地いい疲労感もいっそ恨めしかった。

「反射で跳ねンの押さえただけで痕がつく訳ないだろ」

 本気で不思議そうに告げられて殺意を覚える。憎い。

「まぁ……、ちょっと降参は早かったか?」

 だまれ。

「いいとも。そっちが喋る番だ。とりあえず鞄だの時計だの携帯だの、靴箱に突っ込んでた理由を聞こうか?」

 そうだった。

 はなしが、あった。

 目尻を下げた男の上機嫌は好都合だと自分を宥め、煙草の煙をもう一度吸い込んで、

「ごめん」

 シンプルに謝る。煙草を俺の唇から引き抜いて灰皿で火を消していた男は驚いた顔でこっちを見る。

「引っ越すことに、なるかもしれない。……ごめんな」

 この町であと何年かは暮らせるはずだったのに、残り少ないこの時期に流れていかなければならないかもしれない。はやめに次を捜せとか言っておいて、あわただしくて本当に申し訳ない。

「転居は別に構やしないが、どうした?」

「もっと俺が気をつけていおけば良かった。音声が、事務所のメアドに送りつけられてきた」

「……」

「まぁそういうヤツだ。実は雛女のところのが妙なことを言ってて、最初はそっちかと思ったんだが」

「妙なこと?」

 男の声がひやりと低くなる。言えば男が不機嫌になるのは分かっていたから、出来れば告げたくはなかったけれど。

「だから、俺が……。下克上した珍種がもうじき……、から、その前に『みんな』で味見しようとかバカ言ってる奴らが……。ちょ、俺に怒るな。俺だって願い下げだそんなの、……、は」

 喉に手を掛けられる。指先が冷たい。目が据わってる。

「俺に、怒るな」

 なるべく平静に繰り返す。

「なんでいわなかった?」

「ガセだと思ったんだ。話してた途中でへんな真似されて、てっきり事務所に入り込む口実かって、おも」

「話をしたことじたい言わなかったのは?」

「あのとき俺に、喋らせなかったじゃないか」

 事務所で殴った手を冷やしているときにタイミング悪く来られて、痴漢されたけど指を折ってやった、みたいなことがバレたとき。

「オマエ怒ってて、俺の言い訳も事情も聞く耳もた、な……」

「そのテの真似は俺の始末の範疇だ。分かって筈だな?なんで黙ってた?」

「だから、俺に怒るな、って」

「他の誰を怒るんだ?」

 静かな問いかけが怖い。

「黙ってたわけを言えないのは、聞いた話が具体的だったからじゃないか。もっと言われたいか?雛女かばってんじゃないのか?」

「……」

 黙ってしまえば肯定になる。分かっていたが、嘘をつく気にもならない。

「雛女はアンタを大嫌いだ。なのに庇おうとする理由は?昔の男の機嫌とりたいんじゃないか?あの世で褒めてもらう気か?」

 それは違う。そもそもあの世とやらを信じていない。もしあったとしても巡り会いたくはない。俺はあいつを裏切って殺した。とどめを刺したのは俺じゃなかったが殆ど瀕死の手負いにした。

「雛女が餌食い殺したのは口封じだったンだな?」

「抱いたろ」

 喉を押さえられながら細い声で、百年近く懐に隠していた札を出す。

 ぎくり、という表情で男の手指から力が抜ける。

「牡丹、だったか?雛女がそんな名前の人間だった頃に」

 ずいぶんふるい、むかしのはなし。でも俺とこの男のいまを支配してる。

「俺が知らなかったあいつの隠れ家を、そもそもオマエが知ってる筈がない。捜せるならとっくに危険な『はぐれ』は始末してただろ。あいつの居場所を知ってたとしたら牡丹だけだ。オマエが牡丹にどうやって喋らせたかって考えると、体使った以外には思いつかない」

「……」

「今の雛女の見た目は二十五・六ってところだ。鬼化するなり専属の餌になるなりしたのは首狩から少なくとも十年以上はあと。から十年たったころ、俺たち日本に居なかったよな?」

 戦後の混乱期に紛れて帰国するまで、一世代を経るのに相応しいときが流れるまで。牡丹だった雛女の時を止めたのはこの男ではない。つまり。

「あんな若い子だまして棄てて、絵に描いたようなロクデナシめ。俺は雛女にオマエの身代わりで憎まれてんだ。オマエのことはまだ好きで憎めないから。可哀想っぽくもある純情だな」

「……だから雛女の思い通りになる気か?そりゃ相当の傲慢じゃないか?」

「なる気もする気もないが気の毒だ。俺のの躾が悪くって雛女には申し訳ない」

「人間同士の発想が通じると思ってンなら大笑いだ」

「あの子が人間だったころ知ってるから」

 今は違うと分かっていても感覚は消えない。

「まあ、雛女のことはいい」

「ずいぶんとオマエに都合がいい」

「嫌味を言うな。ちゃんとカタはつける。雛女以外のはどいつだ。今朝、面通しで確認したんだろ?」

 男が勤めるクラブの従業員には同族が多い。この美形を見かける機会もあるから妙な狙いをつけられてもおかしくない。ついでにいえば雛女はクラブの常連客で、同族でないホストを散々食い散らしている。

 アポも取らずに書類の受け渡しをしようというのは、仕事に関してそつのない美形らしくなかった。予告なく突然立っていることで悪いことを考えているオスたちを怯ませて本気度を測っていたのだとすると。

「二度と危ない真似するなよ」

「つるんで輪姦マワそうってのにバラで会うのは別にヤバくはない」

「それで、どいつがマジだった?」

「言いたくない。オマエに言ったら死人が出そうだ」

「余裕こいてんじゃねぇぞ」

 喉を押さえた男の手から力は抜けているが、絡みついた指は外れたわけではない。

「痛いのが脅しにならないのは知ってる。別のやり方で訊こうか?」

 男がベッドに乗り上げて、スーツの膝が毛布越しにねじ込まれる。声は静かだが低くて、玄人臭い度し文句だとかやり方がワンパターンだとか、嫌味を言える雰囲気ではなかった。

「なるべく殺さないでくれ」

「相手次第だ。あんまり庇うな。よけい殺意が沸く」

 視線には言葉ほど余裕がない。

「名前は知らない。四月から名古屋に行くヤツ。連絡先聞かれた」

「それから?」

「……言いたくない」

 話に関わって居そうなのが他にも居るというギリギリの告白。

「殺さないから教えろ」

「信じられない」

「そうかよ」

 平静を装ってはいたが傷つけたのは分かった。分かっていても、他に言いようはない。殺さず生きられる動物がこの世にいないのは知ってる。でも喰うため以外に殺す必要はないとも思ってる。

 押し倒される。逆らわないでおいた。元気だなコイツと心の隅で呆れていた余裕は、サイドチェストの引き出しから取り出された諸々を目にしたとたん、吹き飛ぶ。

「な……、おま、ナニ揃えてやがる……ッ」

 洒落ですまない本格的なラインナップ。

「悪趣味だぞおいッ」

「知らなかったか?」

「マジ勘弁しろ。喋っただろうちゃんと……ッ」

「ちゃんと喋るっていうのはなぁ、仕事中だろうが便所の中だろうが、妙な真似されたらナンか来た途端に電話かけてくることをいうんだよ」

 千年生きても、たぶんそういう真似はしない。だいいち知らせてこいつが動揺して事態を悟られたら面通しぶつける意味がなくなる。独断専行の多いラフプレイヤー気質は軍隊でさえ撓められなかった。

「喋れるうちに、言っとくとは?」

 猿轡見せつけながら、猫が舌なめずりするような囁き。

「スマホの動画、消して本体、渡せ。流出もとはオマエだ」

 尋問官としては中の上くらいだ。怖がる相手には効くが脅しに揺れない性質もこの世には存在する。こいつの暴力的な素養を相手の強情が上回れば効果はない。

「ネットに流れても俺は被害届を出さない。でも俺が居なくなった後でオマエが密告されて、そこから辿りつかれるとヤバイ」

 現在の、そして本来の職業柄、俺は盗聴や情報漏えいには用心深いほう。念を入れて昨日、事務所の回線や通信機器、持ち物なんかは本職に調べさせた。盗聴やハッキングの痕跡は発見できなかった。

「官憲は百年前からオマエらに気がついてる。討伐対の創設任された俺が言うんだから間違いない。警察は今も続いてるし、軍隊はなくなっても予備隊経由で上層部はかなり自衛隊に移動してる」

 人間に似た人間でない何かの存在情報が、戦後に紛れて消失したというのは希望的観測に過ぎる。

「同族なんか私情で簡単に裏切るぞ人間もオマエらも。お仲間の中で幅を利かせてても、反感持ってるヤツにそのへんに密告されたらどうする。平気だとか言うなよ。組織力と絶対数が違う」

 いま現在、どちらかの組織あるいは両方に、特命部隊があってもおかしくない。

「スマホの契約者は俺だ。生きてるうちに自分で解約しとけば捜索の糸は切れる。エロい色々はメモリに移していいから渡せ。新しいのは、雛女の名義ででも買う」

 別嬪で強情な昔の『牡丹』に、それがどれだけ抑止力になるか分からないが。

「雛女は虐めるな。ちょっとは優しくしろ。それで確実に転ぶから。あいつは昔からオマエに惚れてる。味方に、しとけ」

 もうすぐ一緒に居られなくなるお前が、せめて独りでないように。







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