第2話

 


 帰宅、食事、入浴、着替え。

 築年数は20年を過ぎているが分譲物件だけあって防音はしっかりしている。気配は微かに伝わるだけ。その気配が自分の部屋でなく男の寝室のドアを開ける。床まである遮光カーテンが閉められた部屋は暗いが明かりをつけないまま、毛布を捲ってダブルサイズの寝床にするり、もぐり込もうとした。

 普段の寝室は別で、いつもは自室のさらに奥、窓のないサービスルームで眠っている。昔で言えば塗り込めの空間が安心するらしい。リビング続きでルーフバルコニーに面した男の部屋に入ってくることはめったに無い。

 毛布の下にもぐるより早く腕が伸びてきて組み敷かれる。自分から寝込みを襲いに来た美形は唇を塞がれながら男の背中に腕をまわす。抱き返されて男がにやける。暗闇の中、気配だけで分かる。

 おそろいの上機嫌は長く続かなかった。唇を話した男が眉を寄せる。抱いた身体がいつものように腕に寄り添ってこない。肩も背骨も腰も強張って固まったまま。

 これはちょっと。

 まずいな、と、思った。

「……寝かしつけろ」

 男が手を止めた理由を承知の上で、美形は続きを催促する。疲労が募って逆に寝付けず苦しいのだ。それは分かるが、精神だけでなく身体も筋張っているこの状態を、抱けば傷めることも分かっている。

「眠れ」

「……ヘタレ」

「おきたらなかすぞ」

 言いながら指が吸い付くような首筋をまさぐる。『寝かしつけてやる』つもり。

「……いい」

 くすぐったい、ような仕草で首を竦めるのを、もう一方の手で喉元を掴んで阻止。

「く、せに……、なる……」

 いまさらそんなことを怖がられて男は少し不本意。

「もうなってるだろ」

 暴れないよう押さえ込みながら残酷な宣告。吸血の痛みと恐怖を麻痺させる為、行為に先立って注ぐ体液は、餌の体質によって麻酔を通り越した陶酔をもたらす。疲労回復に利用するのは麻薬中毒患者のようで不本意だという、気持ちは分かるが、とっくに意味がない。

「ん……、ン、」

 針のように尖らせた爪を耳の後ろに埋めた途端、形のいい唇から深い息がこぼれる。素直な反応に男は満足した。慎重に爪を抜く頃には完全に眠りに落ちて、やっと力が抜けた。



 

 眠りから目覚めさせないよう、細く歯を尖らせて爪を埋めたのと同じ場所を噛む。寝息を聞きながらそっと『腹を満たす』。

 吸血行為は性行為でもあって同時進行するがいちばん美味い。でもお気に入りの相手だとノリが過ぎて食い殺してしまうことがよくある。長く愉しむ筈の上玉を早々に潰してしまい嘆く同族を何人も見てきた。自分もそのドジを踏んだことがないとは言わない。遠い昔で詳細は忘れたが。

 だから基本は別々にしている。同夜同衾でも。

 腹を満たして首筋から顔を離す。美形はまだすやすやと眠っている。

「……」

 既視感があった。こんな風に深く眠っているのを以前も抱いた。最近思い出すことが多い馴れ初めの頃。なれそめどころか初めて抱いたときだ。ずいぶん疲れて深く眠って、脱がせても濡らしても目覚めなかった。

 犯したら、さすがに起きたけれど。

 思い出しながら寝巻きの前を外す。夜目がきく、というより殆ど不自由なく見える男は透明感のある白さに目を細める。服の上からでもわかる引き締まった肢体は剥けばなおさら惚れ惚れする。この美形の時間が止まったのは二十五のとき。

 一番いい時に止めてやったと男は思っているが、本人はまだ数年後が望ましかったらしい。三年あったら十傑に入れたと惜しそうに言ったことがある。なにかと思ったら陸軍内の柔剣術格付けの話だった。

 男は軽く頭を振る。昔の話ばかり思い出してしまう。指先で耳の後ろの傷に触れる。かすかに湿った感触は血が止まり切っていないせい。治癒していない。つまり鬼ではない。人間としての戦闘能力がいかに高くとも、これは被食生物。

 だから窓のある部屋で眠りたがらない。塗り込めの寝室に続く居室も格子窓の先がすぐ隣接するビルの壁で、隙間に人間の大きさの生き物が這入りこむことはできない。なのにその窓も内側に鉄格子を取り付けて枠ごと溶接している。

「……なんでだ?」

 同族には美男美女が多い。餌を採るのに適しているからだ。正体を悟られても愛されてしまえば通報の怖れは少ない。この美形も昔、短い時間だったが『友人』を庇おうとした時期もあった。

 鼻筋の通った寝顔を惚れ惚れと眺める。これほど『なる』のに相応しい容姿の持ち主は男が知る限り居ない。なのに少しの変化の気配もない。

 今からでも、なんとかならないものだろうか。

 同族になってしまえば餌として摂取することは出来なくなるけれど性交は可能。居なくなられるより百倍もましだ。鬼の派生構造はよく分かっておらず。気がついたらいつの間にかという者が大部分。自分のことを思い出しても本当にいつの間にか、多分最初の、従妹の生首を『つい』喰ってしまった、あのときにはもうなっていたんだろう、くらしいしか思い当たらない。

 同族になりたがる人間は少なくない。老いを知らないほど寿命は長く、病に苦しむこともなく、怪我をしても首を落とされでもしない限り時間をかければ治癒する。人間を採餌することは必要だがしなくてもかなり長く生きる。第二次世界大戦末期の空爆で酒蔵ごと埋まった同族を掘り出してやったら、飲まず食わずで十数年を生きていたこともあった。

 ため息をつきながら首筋に顔を埋める。下も脱がせる。起きる気配はない。意識があれば嫌がられる悪戯をしてやろう、と考えて、最近は何も拒まれないことに改めて気がつく。小指や耳朶の欠損さえ怖がらなくなった。むかしは咥えたら怯えていたくせに。また生えてくる訳でもないのに。

 覚悟を決めているサバサバした態度がひどく憎らしい。未練がましく女々しいわが身と引き比べては、尚更に。


 

 

 

  





  

 

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