腕時計の針が十時四十五分を指し示したところで、美沙子と隆介は野々宮の家を目指すことになった。

 赤い目をした隆介は、不貞腐れたような面持ちで歩を進めている。初対面となる美沙子の前でうかうかと涙を流してしまったことを、深く恥じ入っているのだろう。美沙子の父親とは、そういう人間であるのだった。


(でも、泣きたいのはこっちのほうだよ。あたしの推論なんて全部ひっくり返してかまわないから、吉岡が由梨枝さん殺しの真犯人だって結論に転んでくれないもんかなぁ)


 そんな思いを抱え込みながら、美沙子は隆介とともに土手を上がった。

 野々宮の家の前には、診療所の軽トラックが停められている。隆介が忌々しげな言葉を吐く前に、美沙子が声をあげてみせた。


「吉岡が来てるんなら、静夫くんは診察中だね。千夏はまだ家に居残ってるはずだから、今の内にこっそり話を聞いてあげてよ」


「わかったよ」と言い捨てて、隆介はずかずかと門の内に踏み入っていく。

 不機嫌きわまりない形相であるが、常軌を逸した目つきはしていない。静夫を思いやる気持ちが、吉岡医師に対する激情を緩和しているのだろうか。今のところ、葉月の立てた作戦は順調に進められているようであった。


 隆介がガラス戸を開いても、応接間から孝信が飛び出してきたりはしない。

 その代わりに、廊下の向こうから葉月と孝信が姿を現した。


「隆介、帰ったのか。……おや、あんたは蓮田さんじゃないか」


 前回と同じように、孝信は柔和な立ち居振る舞いである。

 反射的に笑顔を返しそうになった美沙子は、真面目くさった顔で一礼してみせた。


「おひさしぶりですねぇ、野々宮さん。こんな時期に親子そろって押しかけてしまって、申し訳ありません。このたびは、ご愁傷様です」


「こっちこそあれこれ騒がせちまって、申し訳なく思ってるよ。……今ね、娘さんが女房に線香をあげてくれたんだ」


 そう言って、孝信はぎこちなく微笑んだ。

 間もなくその顔が怒りや驚きで引き攣ることになるのかと思うと、美沙子は心が痛んでならなかった。


「それで、蓮田さんはどういった用向きで訪ねてきたんだね?」


「ちょいと野々宮さんにお話ししたいことがあるんですよ。でもその前に、あたしも奥さんに手を合わさせてもらえますか?」


「俺が案内するよ。親父は応接間で待っててくれ」


 そんな風に言い捨てて、隆介はさっさと仏間に向かってしまう。

 いぶかしげに首を傾げる孝信に一礼して、美沙子と葉月もそれを追いかけることにした。


「隆介くんは、あたしらの突拍子もない話を信じてくれたよ。その上で、あたしらに協力してくれるってさ」


 仏間にて、美沙子がそのように報告すると、葉月はほっとした様子で息をついた。


「そっか。さすが、母さんだね。……隆介くん、どうもありがとうございます」


「うるせえな。俺はまだ、すべてを信じたわけじゃねえぞ。信じてほしかったら、何か証拠を見せてみろ」


 隆介が険悪な面持ちでそのように言いたてると、葉月は「はい」とショルダーバッグをまさぐった。


「証拠は、これです。ついさっき、吉岡がこの仏間にこれを置いていったんです」


 葉月が赤い日記帳を差し出すと、隆介は驚愕に目を見開いた。


「これが……母さんの日記帳だってのか?」


「はい。よかったら、中身を改めてみてください」


 隆介はほとんど奪い取るような勢いで、日記帳を手に取った。

 そして、最初のページを開くなり、こらえかねたように嘆息をこぼす。


「こいつは確かに、母さんの字だ。……でも、どうしてこれを、こんな場所に置いていったんだ? 吉岡の野郎は、こいつをずっと隠し持ってたって話なんだろ?」


「はい。これは仏壇の裏に、わざと見つかりやすいように隠されていたんです。だからきっと、孝信さんに見つけさせようとしたんだと思います。そうしたら……きっと孝信さんが我を失って、隆介くんをひどい目にあわせようとするでしょうから」


 隆介はぎりっと奥歯を噛み鳴らしながら、荒っぽい手つきでページを繰った。

 そうして最後のページに目を通したならば、怒りと悲しみの入り混じった顔になる。


「本当だ……母さんは、俺がノイローゼだなんて思い込んでたんだな。俺はただ、吉岡とのことで腹を立てていただけだったのに……」


「はい。でも、包丁を持ち出したなんていう話は、デタラメなんですよね?」


「当たり前だ。こんなもん、吉岡の野郎が書き加えたに決まってるよ」


 悲しみの色が、怒りの色に塗り潰されていく。しかし、その目に憎悪と狂気の炎が吹き荒れることはなかった。


「それで? 吉岡の野郎に、すべてを白状させるんだろ? 俺があいつを静夫の部屋から引きずり出してやればいいのか?」


「はい。だけど吉岡は、いつもポケットに刃物を忍ばせているんです。だから、よっぽど注意しないと――」


「関係ねえよ。あんなやつ、一発で黙らせてやる」


 と、隆介が左の拳を握り込んだので、美沙子は思わずギクリとしてしまった。


「ね、ねえ。隆介くんは、左利きだったの?」


「うん? いや、俺は右利きだよ。でも、野球で右肘を痛めちまったから、ぶん殴るなら左手だな」


「なるほどね」と、美沙子は弛緩する。しかし、たとえ隆介が左利きであったところで、こんな自分の不利になるような日記帳を偽造する理由はないので、取り越し苦労も甚だしかった。


「でも、どうかやりすぎないでくださいね。もし隆介くんが警察に捕まったりしちゃったら――」


「わかってるよ。親子そろって、同じようなこと言うんじゃねえよ」


 ぶっきらぼうに言い捨てて、隆介は仏壇に向きなおった。


「……なあ。静夫の部屋に行く前に、手を合わせておいてもいいか?」


 葉月が穏やかな表情で「もちろんです」と答えると、隆介は無言のまま仏壇の前に膝を折った。

 線香やりんには手をのばそうとせず、ただ深くうつむいて合掌する。美沙子はその逞しい肩ごしに、仏壇の遺影へと目をやった。


 野々宮由梨枝は、ただ静かに微笑んでいる。

 静夫とよく似た、美しい面立ちだ。その目もとや口もとにはくっきりと深い皺が刻まれていたが、もちろん静夫や吉岡医師のように不気味な笑みをたたえたりはしていない。とても優しげで、とてもはかなげで――孝信が言う通り、貞淑な妻を絵に描いたようなたたずまいであった。


(でも、あんたが吉岡なんかと不倫するから、こんな騒ぎになっちまったんだよ。ちょっとでも申し訳ないと思うんなら、大事な息子さんに力を貸してやりな)


 美沙子がそんな風に考えていると、隆介は「……よし」と小さく声をあげて立ち上がった。

 そのよく日に焼けた顔には、これまで以上に毅然とした表情がたたえられている。幼かった頃の美沙子が心から愛していた、強くて頼もしい父親の顔であった。


「俺も覚悟が決まったよ。吉岡の野郎をぶっ飛ばして、静夫の目を覚まさせてやる」


 そんな風に宣言しながら、隆介は仏間のふすまを開いた。

 廊下は、しんと静まりかえっている。その奥のほうをうかがってから、隆介は葉月のほうに向きなおった。


「……俺が吉岡の野郎をいきなりぶっ飛ばしたりしたら、静夫のやつは取り乱しちまうだろう。静夫をなだめるために、お前もついてきてくれねえか?」


「ええ、もちろんです。最初からそのつもりでした」


「あたしだって、そのつもりだったよ。三人がかりなら、万にひとつも危ないことはないだろうからね」


「あんな鶏ガラ野郎は、俺ひとりで十分だよ。ていうか、オバサンなんて足手まといにしかならねえだろ」


 それは隆介が、静夫の戦力を計算に入れていないためである。美沙子たちにしてみれば、静夫がカッターナイフで襲いかかってくる可能性も考えずにはいられなかったのだった。


「じゃあ、行くぞ。うちはボロだから、足音を立てないようにな」


 隆介を先頭に、長い廊下を前進する。その広くてがっしりとした背中が、美沙子には頼もしく思えてならなかった。

 やがて廊下の突き当たりに到着すると、隆介は口もとに指先を立ててから、別の部屋のふすまを開く。彼がそちらから持ち出してきたのは、布素材の粘着テープであった。


 それを美沙子に手渡してから、隆介は静夫の部屋の前に立つ。

 が、途中で何か思い直したように、葉月へと耳打ちをした。葉月は凛々しい表情でふすまの前に立ち、隆介は脇のほうに身を引く。さらに美沙子も手招きをされて、隆介の背後に控えることになった。


「吉岡先生、診察の最中にすみません。静夫くんのお父さんが、調子を崩してしまったみたいなんです。ちょっと様子を見てもらえませんか?」


 葉月がそのように呼びかけると、数秒の沈黙ののちにふすまが開かれた。

 そこから顔を覗かせた吉岡医師は――とても柔和な面持ちだ。


「孝信さんが、どうしたんだい? またお酒を飲みすぎてしまったのかな?」


「わかりません。でも、とにかく苦しそうなんです。こっちに来てもらうことはできますか?」


「うん、いいよ。静夫くんは、ちょっと待っててね。すぐに戻ってくるからさ」


 そんな声を室内に投げかけてから、吉岡医師は黒い診療鞄を手に廊下へと出てきた。

 そうして一歩足を踏み出すなり、「あれ?」と大きく目を見開く。


「隆介くんに、蓮田さんまで。いったいみんなで何を――」


 吉岡医師に最後まで語らせることなく、隆介が左拳を振り上げた。

 顔面をしたたかに殴られた吉岡医師は、漆喰の壁に背中を叩きつけられてから、廊下にくずおれる。隆介はその手を離れた診療鞄を遠くに蹴り飛ばしてから、すぐさま吉岡医師のポケットをまさぐった。


 そこから引っ張り出されたのは、革のケースに収められた医療用のメスだ。

 しかも吉岡医師は、そんなものを左右のポケットにワンセットずつ忍ばせていたのだった。


「まったく、油断のならねえ野郎だな。オバサン、そいつを貸してくれ」


 隆介は吉岡医師の身を荒っぽく突き飛ばし、後ろにねじあげた手を粘着テープで拘束した。

 その間に、美沙子は静夫の寝室へと踏み込む。

 部屋の主は、学習机の前で立ち尽くしていた。

 右脇腹の傷の手当てをされたところであったのだろう。シャツの前がはだけられて、嘘みたいに白い肌とそこに貼られたガーゼが覗いている。

 そして、その華奢な指先が握りしめているのは――カッターナイフであった。


「馬鹿な真似をするんじゃないよ。これもみんな、あんたのためなんだからね」


 美沙子はことさら穏やかな声で言いながら、静夫の手をカッターナイフごと握りしめてみせた。

 静夫は光の消えかけた目で、美沙子を見つめてくる。その可憐な唇が何か言葉を発するより早く、葉月もこちらに駆け込んできた。


「驚かせちゃってごめんね、静夫くん。私たちと、一緒に来てくれる? ……そうしたら、何もかも解決するはずだよ」


 葉月の顔には、掛け値なしに思いやりに満ちた表情がたたえられていた。

 事実、葉月は静夫や吉岡医師の未来までをも救おうとしているのだ。そんな葉月の表情に、いったいどのような思いを抱いたのか――静夫は小さく指先を震わせてから、カッターナイフを手放した。


「静夫、なんにも心配する必要はねえぞ。悪いのは、みんなこいつなんだからな」


 隆介もまた、心から心配している様子で声を投げかけてくる。

 その足もとで、吉岡医師はぐったりとうなだれていた。最初の一撃で銀縁眼鏡は吹き飛ばされてしまい、口の端には血がにじんでいる。それで両手を後ろにくくられた吉岡医師の姿は、あまりに痛々しげであった。


 かくして、美沙子たちは静夫と吉岡医師を無力化することに成功したのだ。

 しかし――貝のように口をつぐんだ両名は、早くもその双眸からすべての光を失いつつあったのだった。

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