「りゅ、隆介! お前はいったい、何をしているんだ!」


 美沙子たちが応接間に踏み入ると、そこでくつろいでいた孝信が仰天して声を張りあげることになった。

 まあ、隆介は両手を粘着テープで拘束された吉岡医師を連行していたのだから、それも無理からぬ話であっただろう。吉岡医師の顔には銀縁眼鏡が戻されていたが、その口もとには血がにじみ、右の頬にも青黒い痣が浮かび始めていたのだった。


「申し訳ありませんね、野々宮さん。これも事情があってのことなんです。ここは隆介くんとあたしらを信用して、話を聞いてやってくださいな」


 美沙子がそのように語っている間に、葉月と静夫も入室した。

 ここに来るまでに、静夫も隆介からボディチェックを受けている。静夫は拘束されていなかったが、刃物を帯びていない限りは物騒な真似をする力も存在しないはずだった。


 静夫と吉岡医師は並んで座らせて、静夫のかたわらには隆介が、吉岡医師のかたわらには美沙子が陣取る。そして葉月が隆介の隣に控えたのは、彼が怒りに我を失ったときの用心だ。今は落ち着いている隆介も、母親の死の真相を聞かされれば平静ではいられないはずだった。

 このような並びでも全員の様子を把握できるように、両端の葉月と美沙子は半円を描くような位置と角度で座している。ひとり座卓の上座に座った孝信は、すっかり困惑の面持ちであった。


「こ、こいつは何の騒ぎなんだ? 吉岡先生は怪我をしてるみたいだし、そんな風に手を縛っちまうなんて――」


「吉岡先生は、危険なお人なんですよ。だから大人しくさせるように、あたしらが隆介くんにお願いしたんです。隆介くんは何も悪くないんで、どうか怒らないでやってくださいな」


 美沙子が落ち着いた調子で言葉を重ねると、孝信はうろんげに眉をひそめつつ押し黙った。

 隆介は精悍な面持ちで目を光らせており、葉月は凛々しく面を引き締めている。

 そして静夫と吉岡医師は――人形のような無表情で、真っ黒な穴のような目つきになっていた。


(さあ、いったいどうなることやらだね。あたしの期待を裏切るんじゃないよ、葉月)


 美沙子が視線を向けると、葉月は同じ表情のままひとつうなずいた。


「私がこれから、すべてお話しします。孝信さんにとっては、とてもおつらい話になってしまいますけど……でも、どうか落ち着いて聞いてください。由梨枝さんも、それを望んでいるはずです」


「由梨枝……? いったい、どういうことなんだい?」


「この数日、私と母は野々宮家と吉岡先生について調べていました。それで色々と、大変な話を突き止めてしまったんです」


 葉月は毅然とした態度で、そのように言いつのった。


「もちろん私たちは警察でも何でもないので、なんの責任も取れる立場ではありません。でも、これで裁判沙汰の話になるようでしたら、証言台に立つ覚悟でいます。すべての真相は、きっと警察が解明してくれるでしょう。だから孝信さんも、最後まで話を聞いて……決して我を失わないでください」


「警察だの裁判だの、穏やかじゃないね。でも、君が真剣だってことは理解したよ。……前置きはいいから、さっさと話してくれ」


「ありがとうございます」と頭を下げてから、葉月はまずショルダーバッグから赤い日記帳を取り出した。静夫と吉岡医師に対する、先制攻撃である。


「これは、由梨枝さんの日記帳です。吉岡先生はこれを由梨枝さんの寝室から盗み出して、今日まで隠し持っていたんです」


「由梨枝の日記帳?」と、孝信が驚きの声をあげる。

 しかし美沙子は、ひたすら静夫たちの様子をうかがっていた。

 静夫は能面のような無表情で、吉岡医師はぴくりと頬を引き攣らせている。しかしどちらも真っ黒な目をしていたので、内心はまったくうかがい知れなかった。


「確かにあいつは日記をつけてたみたいだし、そんな風に赤い表紙だったように思うよ。でも、吉岡先生が何のためにそんなもんを――」


「この日記帳には、まるで隆介くんが由梨枝さんを殺したかのような文面が記されていたんです。でも、半分ぐらいは震えた字で書かれていたので、それは吉岡先生が後から書き加えたんだと思います」


 葉月の言葉に、孝信は大きく身を震わせた。


「隆介が、由梨枝を殺しただと……? おい、ちょっとそいつを見せてくれ!」


「わかりました。でも、どうか私の言葉を忘れないでください。字の震えている部分は、きっと後から別の人間が書き加えたものなんです」


 葉月はゆっくりと立ち上がり、座卓の向こう側で惑乱している孝信のもとまで日記帳を届けた。

 震える指先でそれを開いた孝信は、最初の数ページを読みくだしただけで目もとを潤ませてしまう。


「ああ、確かにこいつは、由梨枝の字だ……あいつは左利きで、癖字なのを気にしていたけど……俺なんかより、よっぽど上手な字だよなぁ」


 アルコールの残っている孝信は、現在の状況も忘れてしまったかのように感慨深げなつぶやきをこぼす。

 しかし、最後のページを目にするなり、その顔が石のように強張った。


「隆介が包丁を持ち出して、由梨枝を夜中に呼び出した……? こいつは、なんの冗談なんだ?」


「だからそれは、後から書き加えられたんだと思います。もちろん隆介くんも、包丁を持ち出したりはしていないと証言していました」


「でも、それじゃあ……由梨枝を夜中に呼び出したことは、本当なのか?」


 孝信の目に、穏やかならぬ光が生まれる。

 葉月がそれに応じようとすると、隆介が身ぶりでそれをさえぎった。


「ああ、本当だよ。どうしても母さんに聞きたいことがあって、そんな馬鹿な真似をしちまったんだ」


「話をしたいなら、好きにすればいいだろうが! どうして夜中のお堂なんていう危ない場所に――!」


 孝信の眼光が、一気に憎悪と狂気の色を帯びた。

 今度は葉月が隆介をさえぎって、高らかに声をあげる。


「待ってください! 隆介くんには、なんの責任もありません! 由梨枝さんは足を滑らせて川に落ちたんじゃなく、誰かに殺されたんだと思います!」


 その言葉に、孝信ばかりでなく隆介も驚愕の形相となった。


「か、母さんが誰かに殺されただと? お前、何を言ってるんだよ?」


「ごめんなさい。隆介くんにも落ち着いて話を聞いてほしかったから、今まで黙っていたんです。由梨枝さんは自殺でも事故死でもなく……誰かに殺されたんだと思います」


 そのような言葉を聞かされても、静夫や吉岡医師の様子に変わるところはなかった。

 いっぽう今度は隆介が物騒な目つきになり、吉岡医師のほうをねめつける。


「まさか……そういうことなのか? だからこいつは、日記帳にあんな細工を――」


「まずは、私たちの話を聞いてください。そうしたら、きっと真相も明らかになると思います」


 葉月は隆介の手をぎゅっと握りしめながら、そう言った。

 その瞬間、静夫の虚ろな目がちらりと二人の手もとを盗み見る。それだけで、美沙子は背中に冷水をあびせられたような心地であった。


「孝信さんも、どうか落ち着いて聞いてください。奥さんの由梨枝さんは……この吉岡先生と、不倫をしていたみたいなんです」


「な……」と、孝信は石像のように硬直した。


「き、君は何を言っているんだ……? 由梨枝に限って、そんな真似をするはずが……」


「だけど、そうなんだよ。俺が母さんをお堂に呼び出したのも、それを問い質すためだったんだ」


 隆介がそのように言いたてると、孝信はぶるぶると全身を震わせ始めた。


「お、お前まで何を言ってるんだ? 由梨枝がどんな女だったかは、お前だって知ってるだろう? あの由梨枝が、他の男と不倫だなんて……」


「俺も最初は、信じたくなかったよ。でも、この目で見ちまったんだ。こいつが家を出ようとするとき、母さんが……こいつの顔を名残惜しそうに撫でる姿をな」


 激しい苦悩を押し殺している様子で、隆介がそのように証言した。


「だから俺は、母さんをお堂まで呼び出した。こんな話は、家の中では聞けなかったからな。でも、一時間ぐらい待ってても、母さんはお堂に来なかった。それで、次の日――母さんが川の下流で見つかったって話を聞かされることになったんだ」


 そこで隆介は、食い入るように葉月を見つめた。


「だから俺は、母さんがお堂に向かう途中で足を滑らせたんじゃないかって、ずっと疑ってた。もしもそうなら、俺が母さんを殺したようなもんだ。でも……そうじゃないってのか?」


「はい。私はそう信じています。ただ由梨枝さんが足を滑らせただけなら、こんな騒ぎにはなっていないはずなんです」


 隆介の手を握りしめたまま、葉月はそのように言葉を重ねた。


「由梨枝さんの死が事故死や自殺だったなら、吉岡先生が日記帳を盗み出そうだなんて発想に至る理由がないんです。隆介くんが不倫の一件で由梨枝さんを呼び出そうとしたっていう、その事実を知る誰かが存在しない限り、話はそこで終わっていたはずなんです。吉岡先生が日記帳を盗み出して、そこに余計な言葉を付け加えて、孝信さんに読ませようとした――吉岡先生はすべての事実を知っていたからこそ、そんな計画を立てることになったんです」


「計画……?」と、孝信が力なくつぶやく。

 そんな孝信を力づけるように見つめながら、葉月は「はい」とうなずいた。


「吉岡先生は、静夫くんに強い執着を抱いています。それで、野々宮家の人たちは静夫くんを不幸にするっていう妄想に取り憑かれてしまったんです。だから、日記帳にあんな細工をして、孝信さんに読ませようとしたんです」


 そこで葉月は、吉岡医師が仏間に日記帳を放置したくだりを解説した。

 静夫はここで初めて、吉岡医師の裏切りの全貌を知ったわけだが――やはりその虚無的なたたずまいに変化が生じることはなかった。


「吉岡先生がそこまで静夫くんに執着しているのは……静夫くんが自分の子供だと信じているためなんです。それが事実であるのかどうか、私たちに調べる手段はありませんでしたが……病院で検査をすれば、はっきりするかもしれません。ただ、吉岡先生がそう信じているということは確かであるはずです」


「こいつは……そんな昔から、由梨枝と関係を持ってたってことか……?」


 孝信は座卓に突っ伏して、自分の頭をかき回した。

 葉月は苦痛をこらえるように眉をひそめながら、「はい」と応じる。


「そんな風に信じているということは、そういうことなんでしょう。そして……静夫くん自身も、そんな話を聞かされていたはずです。だから静夫くんは、孝信さんや隆介くんに負い目を持つことになってしまったんです」


 いよいよ、クライマックスが近づいている。

 何が起きても対処できるように、美沙子は買い物かごの中に眠る出刃包丁の柄を握りしめた。


「静夫くん。だから、あなたは……お母さんを恨むことになっちゃったの?」


 葉月が初めて、静夫へと語りかけた。

 静夫は深くうつむいたまま、虚ろな目で畳を眺めている。


「あなたは由梨枝さんと、分かり合えていないみたいだった。自分だけ野々宮の家で孤立してるみたいな……そんな口ぶりだったよね。本当は隆介くんや孝信さんと仲良くしたかったけど、自分は吉岡先生の子供だって聞かされていたから……だから、お父さんたちに心を開くことができなかったの? それで、自分をそんな目にあわせた由梨枝さんのことを、許せなくなっちゃったの?」


「おい、待てよ。なんでそんな風に、静夫を問い詰めるんだ? 悪いのは、みんなこの吉岡のやつだろう?」


 怒りと困惑の絡み合った顔つきで、隆介が葉月をにらみつけた。

 葉月は優しさと力強さの入り混じった顔つきで、「いえ」と首を横に振る。


「もちろん、吉岡先生には大きな責任があります。でも、その影響を受けた静夫くんが、何か罪を犯してしまったのなら……それは、静夫くんが責任を取らないといけません」


「な、何を言ってるんだよ。お前は、まさか……静夫が母さんを殺したんだと疑ってるのか?」


「私も、それが知りたいんです。……静夫くん、どうなんだろう?」


 葉月が静かな声音でそのように問いかけると、静夫はようやく面を上げた。

 その真っ黒な目が、真っ直ぐに葉月の顔を見て――そしてその口もとに、醜い笑い皺が刻みつけられた。


「そっか……千夏ちゃんは、そんな風に考えていたんだね……千夏ちゃんは僕の本心を探るために、ずっと優しくしてくれてたんだね……すべては、隆介兄さんのためだったんだ……」


「隆介くんは、関係ないよ。ただ私は――」


「僕は千夏ちゃんのことを、本当に好きだったんだよ……でも、千夏ちゃんは違ったんだね……千夏ちゃんは、僕を殺人犯に仕立てあげようとしているんだ……」


 葉月の言葉をさえぎって、静夫はそのように言いつのった。

 その口は、半月の形に吊り上げられている。初めてその不気味な笑顔を目にした隆介と孝信は、慄然とした様子で身を引いた。


「そうだね……蓮田さんは、本当にひどい人間だ……静夫くんの恋心を、こんな形で踏みにじるなんてさ……」


 と――吉岡医師までもが、感情の欠落した声を発した。

 その顔もまた、静夫と同様の虚ろな笑みを浮かべている。そうして二人が狂気を解き放ったことにより、室内の空気がどろりと澱んだかのようだった。


「うるさいなぁ。吉岡先生は黙っててよ。……吉岡先生だって、僕を裏切っていたんじゃないか」


「おっと、余計なことを言っては駄目だよ、静夫くん……どうせ何の証拠もない話ばかりなんだからね……この人たちには、なんの真実も見えていないのさ……」


「うるさいってば……もう、どうでもいいよ……」


 静夫の口が、どんどん不自然な形に吊り上がっていく。まるで、見えざる糸に口の両端を引っ張られているかのようだ。それで圧迫された目もとにも醜い皺が寄り、美沙子が知っている通りの不気味な顔が完成された。


「千夏ちゃんだけは、僕の味方だと思ってたのに……けっきょく千夏ちゃんも、僕の気持ちなんてどうでもいいんだね。僕の人生を、好きに支配したいだけだったんだね」


 かつて吉岡医師に向けられていた呪いの言葉が、葉月に吐きかけられている。

 葉月の目的は、告発者となって静夫の愛情を振り切ることであったのだから、それは正しい結末であったのだが――しかし美沙子は、これっぽっちも心を安らがせることができなかった。


(これじゃあ、駄目だ……これは静夫が、吉岡を殺す前に言い捨ててた台詞なんだよ! たとえこいつが母親殺しで逮捕されても、自分を裏切った蓮田千夏に対する憎しみを忘れたりはしないはずだ!)


 美沙子は激しく懊悩しながら、出刃包丁の柄を握りしめた。

 しかし、今の静夫に悪さをする力はない。ここで美沙子が静夫を殺しても、正当化することは不可能だろう。静夫が次に罪を犯すのは、これから四十年後であるのだった。


(どうするんだよ、葉月! こんな状態で、静夫と吉岡を和解させることなんてできるのかい?)


 そんな思いを込めて、美沙子は葉月のほうに視線を転じる。

 青ざめた隆介のかたわらに座した葉月は――驚愕の表情で、静夫の醜悪な笑顔を見つめていた。


「まさか……そういうことだったの?」


 震える声でつぶやきながら、葉月は慌ただしく視線をさまよわせた。

 そうしてやおら立ち上がると、応接間の壁に掛けられていた鏡をつかみ取る。


 直径三十センチほどで、木彫りの立派な枠に嵌め込まれた、壁掛け鏡だ。

 葉月は唇を噛みながら、その鏡を静夫たちのほうに突きつける。


 その瞬間――静夫と吉岡医師は、同時に悲鳴をほとばしらせた。

 まるで十字架を突きつけられた吸血鬼のように、二人は全身をわななかせて、後ろの壁まで後ずさってしまったのだった。


「やっぱり、そうだったんだ……まさか、そんな真相だったなんて……」


「あ、あんた、ひとりで何を納得してるのさ? こいつらは、いったいどうしちまったんだい?」


 美沙子が慌てて声をあげると、葉月はとても悲しそうな顔で微笑んだ。


「静夫くんに悪い影響を与えていたのは、吉岡先生じゃなかったんだよ。静夫くんも吉岡先生も……由梨枝さんから、悪い影響を受けていたんだね」


 美沙子には、さっぱり意味がわからなかった。

 隆介や孝信は、美沙子以上に困惑の表情になっている。

 そして、静夫と吉岡医師は――不気味な笑みを消し去って、恐怖の形相でがたがたと全身を震わせていたのだった。

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