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そうして時刻は、十時三分に至り――葉月は今回も、静夫と連れだって家を出ていった。
毎度の衣服に着替えながら、美沙子はひとり溜息をつく。けっきょく葉月に押し切られる格好になってしまったが、美沙子としては不安を覚えずにいられなかった。
(けっきょく、葉月は優しすぎるんだよ。あんな悪魔みたいな連中にまで、幸福な未来を準備してやろうなんてさ)
それに葉月は、根本的な部分から目をそらしているのではないのだろうか。
現時点で、静夫はすでに母親である由梨枝を殺害しているのだ。どのような理由があるにせよ、そんなおぞましい真似をする人間が吉岡医師と正しい親子関係を築くことなど可能であるのか――美沙子にはとうてい、そのように信じることはできなかった。
(ただ、母さんの姿をした葉月が静夫を告発するってのは、いい考えかもしれない。そこまでされたら、さすがに希望を持つことなんてできやしないだろうからね。ただ、問題は――可愛さ余って憎さ百倍って結果にならないかどうかだ)
着替えを完了させた美沙子は寝室を出て、キッチンに向かった。
そしてやっぱり今回も、出刃包丁を買い物かごに忍ばせる。葉月がどのような考えであろうとも、美沙子としては最悪の事態を想定せずにはいられなかった。
(一番理想的なのは、静夫と吉岡で殺し合いになって、両方くたばることなんだけどなぁ。まあとにかく、告発の場面までは葉月の指示に従ってみるか)
そんな思いを抱きながら、美沙子は蓮田の家を出た。
美沙子に与えられたミッションは、この時間内に隆介を味方につけることである。吉岡医師を無力化させるには、彼よりも腕力でまさる存在が必要であったのだった。
数十メートル先を進む葉月と静夫の姿を見やりながら、美沙子もまた川沿いの一本道を南下する。
本日も、空は果てしなく青く、入道雲は作り物のように立体的だ。美沙子は同じ日を繰り返しているだけなのだから、それも当然の話であった。
十分ほど歩いて野々宮の家が見えてきたところで、美沙子は土手を下る。
当然のように、雑木林へと向かう隆介の背中が見えた。四度連続ともなると、それも出来の悪い芝居でも見せつけられているような心地であった。
しかしまた、隆介たちにとってはこれが初めての八月十日であるのだ。
その事実を決して失念しないように心がけながら、美沙子はまたゼロから彼との関係を構築しなければならなかった。
「やあ。こんなところで、何をしてるのかな?」
お堂の前で、隆介は頭を抱え込んでいる。美沙子がそちらに声をかけると、隆介は愕然とした様子で顔を上げた。
「な、何だよ。俺が何をしてようと、勝手だろ」
「うん。でも、ずいぶんしんどそうだったからさ。……あれ? あんたは、野々宮さんのところの隆介くんだね」
隆介に対しては自然に親愛の念があふれかえってくるので、美沙子は苦労もなく笑いかけることができた。
「ちょうどよかった。あたしは蓮田節子ってもんなんだけどさ。少しばかり、話をさせてもらえるかい?」
「蓮田さん? って、川向こうの蓮田さんかよ? その蓮田さんが、俺なんかに何の話だよ?」
隆介はうろんげな顔をしつつも、美沙子から逃げようとはしない。
もしかしたら――それは、美沙子が心から親愛の念を届けているからなのかもしれなかった。
今の隆介は、自分のせいで母親が死んでしまったのではないかという自責の念に苦しめられているのだ。
(それはあんたのせいじゃないんだよ)という思いを込めながら、美沙子は言葉を重ねてみせた。
「実はね、あんたの弟さんがうちの娘にちょっかいをかけてるみたいなんだよ。それであたしも気になって、色々と調べさせてもらったんだけど……そうしたら、ずいぶん厄介な事態になっちまったんだよね」
「厄介な事態? 確かに静夫は、あんたの娘さんと仲良くしてるみたいだけど……でも、あいつは悪いやつじゃねえよ」
「ああそう。でもね、そんな簡単な話じゃないんだよ。会ったばかりでこんな話をするのは、気が引けるんだけどさ。でも、こいつは大事な話なんだ。あんたも腰を据えて、話を聞いてもらえるかい?」
美沙子がそのように言いつのると、隆介はもともと引き締まっている顔をいっそう凛々しく引き締めた。きっと美沙子がどれだけ真剣であるかを感じ取ってくれたのだろう。
「まず最初に言っておくけど、あたしはあんたの味方だよ、隆介くん。あんたとは初対面だけど、あんたのことは娘の千夏からさんざん聞かされてたからさ。はっきり言って、他人とは思えないぐらいなんだよね」
「何だよ、そりゃ? 娘さんと仲良くしてるのは、俺じゃなくって静夫だぞ」
「でも、千夏はあんたのことをよく知ってたよ。それでもって、あんたのことを全面的に信頼してるんだ。だからあたしは、娘の人を見る目を信じる。あたしも千夏と同じようにあんたのことを信用するから、どうかそのつもりで話を聞いてもらえるかい?」
隆介はのびかけの頭をかきながら、うるさそうに顔をしかめた。
「前置きが長いな。どんな用事かわからねえけど、とっとと話してくれよ」
「それだけ突拍子もない話だから、あんたにも心の準備をしてほしかったんだよ。……そいつは、吉岡ってお医者にまつわる話なんだよね」
隆介は、一気に顔を強張らせた。
「あんなやつ、俺とは関係ねえよ。あいつの世話になってるのは、静夫と母さんなんだから――」
「家族がそれだけ関係してりゃあ、あんただって関係者でしょ? だから、あんたに相談してるんだよ」
隆介が暴走してしまわないように細心の注意を払いながら、美沙子はそのように言いつのった。
「ちょっと話は飛ぶけどさ。あんた、お母さんの由梨枝さんが日記をつけていたことは知ってるかい?」
「日記? 知らねえよ、そんなもん。日記なんざ、家族にだって見せるもんじゃねえだろ」
「そうかい。その日記帳にね、おかしなことが書いてあったんだよ。お母さんが亡くなった夜、野球部のことでノイローゼになったあんたが包丁を隠し持ちながら、お母さんをこの場所に呼び出したんだってね」
隆介は、慄然とした様子で身を震わせた。
「な……なんだよ、それ? そんな話、俺は知らねえよ」
「うん。そんなのは、全部デタラメなんだろうね。でも厄介なことに、その日記帳にはそう書かれてるんだよ。あたしもこっそり覗き見したから、それは確かなことだね」
「覗き見って、どうやって? 俺たちの家に忍び込んだのか?」
「ううん。あたしが見たのは、吉岡の診療所だよ。何故だかその日記帳は、吉岡のやつの手もとにあるのさ」
隆介は、どんどん困惑の表情になっていく。しかしそれも、美沙子の作戦通りであった。美沙子は隆介の関心をかきたてるために、情報を開示する順番を操作しているのだ。
「ちょっと順序よく説明しようか。まず、うちの娘と静夫くんとやらが仲良くしてるって話だけど……それはね、あんたの家で由梨枝さんの日記帳を探してたんだよ。それを見つければ由梨枝さんが亡くなった理由もわかるかもしれないってんで、うちの娘も日記帳を探すのを手伝ってたのさ」
「あいつらが、日記帳を……? そういえば、昨日は土蔵を荒らしてたみたいだけど……」
「そうそう。その前から、あちこち探してたみたいだよ。でも、見つかるはずがないよね。そいつは吉岡が隠し持ってるんだからさ」
真面目くさった顔を作りながら、美沙子はそのように語ってみせた。
「あたしがそれを発見したのは、つい数日前のことさ。あたしは体が弱いもんで、ちょいちょい診療所のお世話になってるんだけどね。診察中に吉岡が席を外したとき、診療鞄から日記帳が覗いてることに気づいちまったんだよ。その日記帳が赤い革の表紙だってことは、千夏から聞いてたからね。もしかして、これがその日記帳なんじゃないかって引っ張り出してみたら、案の定だったわけよ」
「だ、だったらどうして、それを静夫たちに教えなかったんだよ? あんたが見つけたのは、数日前なんだろ?」
「怖くなって、言いそびれちまったのさ。だってそこには、ノイローゼだの包丁だのっていう物騒な言葉が書かれてたわけだからね」
隆介の顔から、血の気が引いていく。
美沙子は混じり気のない親愛を込めて、そんな隆介の手を握ってみせた。
「だから、最初に言ったろう? あたしたちは、あんたを信じてる。その上で、こんな話を打ち明けてるんだよ。……ノイローゼだの包丁だのいう話は、みんなデタラメなんでしょ?」
「あ、ああ。ノイローゼっていうのは……俺が野球部を退部したとき、落ち込んでる姿を見せたせいかもしれないけど……包丁なんて、知らねえよ」
「だったらその部分は、吉岡のやつが後から書き加えたんだろうね。日記の後半部分はひどく字が乱れてたから、別の人間が書き加えた可能性が高いんだよ」
隆介は答えず、ただ痛みをこらえるように眉をひそめた。
母親をこの場に呼び出したことは事実であるのだから、その一点を気に病んでいるのだろう。もちろん美沙子はその件に触れないまま、話を進めることにした。
「でね、あたしはすっかり怖くなって、そのまま日記帳を置いてきちまったんだよ。それでもやっぱり思いあまって、千夏に事情を打ち明けてみたら……あんたがそんな真似をするはずがないって力説してくれたのさ。だからあたしは覚悟を決めて、吉岡のことを探ってみたんだよ」
「さ、探るって、どうやって?」
「そりゃあもう色々さ。その結果、とんでもない事実が色々と判明しちまったんだよね。ちょっとあんたには話しにくい話もあるんだけど……どうか落ち着いて聞いてもらえるかい?」
そうして美沙子は持てる話術を駆使して、さまざまな秘密を開示してみせた。
吉岡医師が、古きの時代から由梨枝と不倫関係にあったこと。
吉岡医師が、静夫のことを自分の息子だと思い込んでいること。
吉岡医師が静夫を溺愛し、野々宮の一家を邪魔者だと考えていること。
普通であれば、たった数日でそれだけの事実を突き止めることなどできないに違いない。しかし美沙子は言葉巧みに隆介の疑念を受け流し、自分の伝えたいことをのきなみ伝えてみせたのだった。
「吉岡ってのは、ちょっと頭がどうかしてるみたいなんだよ。それで、静夫くんもその悪い影響を受けちまってるみたいなんだよね」
「静夫が?」と、隆介が身を乗り出した。
その目に、深い怒りの色がひらめく。それだけ隆介は、静夫のことを思いやっているのだ。
「うん。たぶん静夫くんは……吉岡のことを父親として慕ってるんじゃないのかな。静夫くんも、自分は由梨枝さんと吉岡の子だってことを教え込まれてたみたいだからさ」
「ふざけんな! 静夫は――俺の弟だ!」
隆介の鋭い双眸に、怒りだけではなく憎悪と狂気の炎までもが噴きあがった。
美沙子は精一杯の思いを込めて、その手をぎゅっと握りしめる。
「落ち着きなさいな。たとえ本当に、吉岡が静夫くんの父親なんだとしても……あんたの弟だってことに変わりはないんだよ。だからこそ、吉岡のやつを何とかしないといけないのさ」
静夫が由梨枝を殺したという事実が明かされれば、きっと隆介も弟の存在を見限ることになるだろう。しかし今は、吉岡医師にだけ敵意を集中してもらわなければならなかった。
(こいつはなかなか、しんどい役回りだね。でも……こうやって段階を踏むほうが、きっと父さんにとってもいいはずさ)
そんな思いを押し隠しつつ、美沙子はさらに語ってみせた。
「だから千夏も静夫くんに吉岡や日記帳のことを打ち明けることができず、今でも一緒に探すふりをしてるんだよ。残念ながら、静夫くんは吉岡の味方についちまう危険があるわけだからね」
「……関係ねえよ。俺が吉岡のやつをぶっ殺してやる」
「駄目だったら! あんたがそんな真似をしたら、お父さんや静夫くんがどれだけ悲しむと思うんだい? あの二人は、大事なお母さんを亡くしたばかりなんだよ?」
隆介にとってもっとも大事なのは、家族であるはずだ。だから美沙子は、そんな言葉で隆介の激情をなだめてみせた。
果たして――隆介は全身をわななかせながら、血がにじむぐらいきつく唇を噛みしめることになった。
「それじゃあ……それじゃあ俺は、どうしたらいいんだよ?」
「だから、あたしたちに協力してほしいのさ。……いや、あんたに協力させてほしいって言ったほうが、正確なのかな」
「……俺に協力?」
「うん。だって、考えてもみなよ。どうして吉岡は、あんな日記帳を大事に隠し持ってるんだと思う? しかも、包丁がどうのこうのって部分は、あいつが書き加えた可能性が高いんだからね。あいつはきっと……あんたが由梨枝さんを殺したっていう濡れ衣をかぶせようとしてるんだよ」
隆介の目に、再び憎悪の炎がくるめいた。
その口が怒号を発するより早く、美沙子は言葉を重ねてみせる。
「その前に、あいつを止めるんだ。それで、あいつにすべてを白状させるんだよ。由梨枝さんが不倫をしてたなんて聞かされたら、あんたのお父さんはひっくり返っちまうかもしれないけど……こんな話を、うやむやのままにはしておけないでしょ?」
「当たり前だ! そんな外道を、放っておけるもんか!」
隆介は美沙子に握られていないほうの手で、おもいきり地面を殴りつけた。
そしてその手で自分の顔を覆い、深くうつむいてしまう。
「でも……ようやくわかったよ。だから静夫は……俺や親父に心を開こうとしなかったんだな」
自分の顔を覆った隆介の手の平の隙間から、透明のしずくが滴り落ちる。
美沙子は慌てて、その逞しい肩に取りすがることになった。
「ど、どうしたのさ? 何がそんなに悲しいんだい?」
「だって……静夫がそんな秘密を、ひとりで抱え込んでたなんて……あまりに可哀想じゃないか……」
隆介は全身を震わせながら、ぽたぽたと涙をこぼし続けた。
その姿に、美沙子は胸を破られるような痛みを覚えてしまう。
これほどまでに、隆介は静夫の身を思いやっていたのだ。
静夫が本当に母親殺しの真犯人であったなら、隆介のこの思いはどこにぶつけることになるのか――美沙子はかつてなかったほどの不安を抱くことになってしまった。
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