第三の死
1
…………ケテ……
セピア色の奔流の中で、葉月の悲痛な声はどんどん弱まっていくようだった。
怒りに燃える美沙子の心に、焦燥の思いがつのっていく。美沙子が不甲斐ないばかりに、葉月の命運はいっこうに救われなかったのだった。
(ごめん、葉月……でも、あたしは絶対にあきらめないから!)
美沙子はセピア色の奔流をかきわけるようにして、現実世界に浮上した。
まだはっきりとは覚醒していないまま、無我夢中で身を起こす。その後に、夏の暑さが五体を包み込んできた。
場所は――すでに三度目となる、野々宮節子の寝室だ。
震える指先で枕もとの腕時計をひっつかむと、時刻は九時ジャストである。
美沙子の体は老人のように痩せ細っており、ベージュ色のパジャマに包まれている。頭にもどこにも手傷は負っておらず、何もかもがこれまでと同様の状態であった。
「よし! もういっぺん、チャンスをもらえるってわけだね!」
美沙子は思いのままに声をあげ、布団の上に立ち上がった。
たちまち、くらりと目眩がする。野々宮節子の肉体は、このていどの荒っぽさにも耐えられないぐらい貧弱であるのだ。
「ああもう、情けない体だね! もっとまともな体だったら、この足でクソジジイを殺しに向かうのにさ!」
美沙子は、これまで以上の憤激にとらわれてしまっていた。
今回は、美沙子と父親が祖父に殺される結末となってしまったのだ。美沙子が父親と呑気に語らっている間に、運命はこれまで以上におかしな方向にねじ曲がってしまっていたのだった。
(祖父さんは、祖母さんの日記帳を握りしめてた。さっぱり意味がわかんないけど、あの吉岡ってやつが日記帳を野々宮の家に持ち込んで……それを祖父さんが読むことになっちまったんだ)
そしてあの日記帳には、野々宮隆介が母親を殺したかのような文面が記されているという。それで野々宮孝信は、酔った勢いでゴルフクラブを振り上げる事態に至ったわけであった。
(さすがアル中でくたばった祖父さまは、まともな頭をしてないね! 何をどんな風に考えたって、父さんが母親を殺すわけないだろ! ちっとは息子のことを信じてやりなよ!)
美沙子はずかずかと畳を踏み越えて、力まかせにふすまを開いた。
そして冷蔵庫に直進し、やけ酒のように麦茶を飲み干す。もしもこの家にビールでも準備されていたならば、か弱い肉体への負担も考えずに鯨飲してしまっていたかもしれなかった。
(でも、まずは落ち着け……あたし自身が警察に捕まったら、一巻の終わりなんだからね。三回もチャンスをもらったんだから、今度こそ上手くやるんだ)
美沙子がそのように考えたとき、何かをこするような音がした。
美沙子がそちらを振り返ると、別の寝室のふすまが細く開かれている。そしてその隙間から、蓮田千夏が――美沙子の母親が不安げな顔を覗かせていたのだった。
「あ、ご、ごめんなさい……何か、声が聞こえたような気がしたから……」
蓮田千夏は、消え入りそうな声でそのように告げてきた。
美沙子は起きざまにあれこれわめき散らしてしまったため、それが彼女の眠りをさまたげてしまったのだろう。いきなり高校生の母親と対面することになった美沙子は、「ごめんごめん」と笑ってごまかすことになった。
「ちょっとばっかり、夢見が悪くてね。でもまあもう九時を過ぎてるみたいだし、あんたも起きていい時間なんじゃない?」
「うん……」と、蓮田千夏は目を伏せてしまう。
それは、何だか――美沙子の知る母親とは、あまりに掛け離れた姿であった。
美沙子の知る母親、蓮田千夏は、とても力強い人間であったのだ。父親に比べたらずいぶん小柄で、美沙子を産んだ後も少女のように童顔であったが、苦しいときでも悲しいときでも毅然と頭をもたげているような、そういう凛々しい女性であった。
しかし、いま目の前でもじもじしている蓮田千夏は、とても力なく見えた。美沙子の顔を直視しようとしないし、くっきりとした眉を頼りなげに下げてしまっている。まるで美沙子を怖がっているかのようだ。
(そんなしょんぼりしてると、ますます葉月にそっくりだね。あたしの心をかき乱すのは勘弁しておくれよ)
娘への思いに胸を詰まらせながら、それでも美沙子はもういっぺん笑ってみせた。
「そんなところに突っ立ってないで、こっちにおいでよ。朝ごはんでも作ってあげようか? ……って言っても、食パンとカップラーメンぐらいしかないみたいだけどね」
「うん……いや……おなかは、空いてないから……」
「そう? なんか、顔色が悪いみたいだね。どこか調子でも悪いのかい?」
そういえば、彼女は体調不良を理由にして、野々宮静夫の誘いを断っていたのだ。それを思い出した美沙子は、彼女の身を案ずると同時に、大きく関心をかきたてられた。
「とりあえず、こっちに来て座りなよ。あんたに聞いておきたいことがあったんだよね」
「え……聞いておきたいことって……?」
「野々宮の家の、静夫って子についてさ。あんた、あの子と仲良くしてるの?」
美沙子がその名を口にするなり、蓮田千夏は慄然と立ちすくんだ。
半開きのふすまにもたれかかり、小さな唇をきゅっと噛む。そんな表情も、娘の葉月に生き写しであった。
「あんたがあの子と仲良くしてるなら、話を聞かせてほしいんだよ。あんたはどうして、あの子と仲良くなることになったのさ?」
「どうして……って言われても……」
蓮田千夏はますます深くうつむきながら、右手の先を口もとにのばした。
そうして彼女は、幼い子供のように親指の爪を噛み――その姿に、今度は美沙子のほうが驚愕することになった。
「あんた……そんなはずはないけど……でもまさか、そんな仕草まで似てるなんてことは……」
美沙子がそのようにつぶやくと、蓮田千夏はおずおずとこちらを見上げてきた。
とても不安そうで、とても頼りなげな――その眼差しもまた、美沙子がよく知るものであった。
「あんた、まさか……葉月なの?」
蓮田千夏は、電流でも浴びたように身を震わせた。
「なんで……どうして……?」
「やっぱり、葉月なんだね!? こりゃあいったい、どういうことなのさ!」
美沙子も我を失って、目の前の少女につかみかかることになった。
「あたしは、美沙子だよ! あたしだけじゃなく、あんたまで自分の祖母ちゃんと入れ替わっちゃったってこと? なんだかもう、ここまでくると笑えてくるね!」
「そんな……本当に、母さんなの……?」
「そうだよ! あんたと違って、見てくれはこんなだけどさ!」
美沙子は彼女の肩をつかんでいた手を離し、それを頭に移動してみせた。
美沙子に頭を撫でられた少女――蓮田千夏の姿をした蓮田葉月は、大きく見開いた目から大粒の涙を流して、美沙子の骨ばった体に抱きついてくる。
そして葉月は、幼子のように大泣きし始めた。
その泣き声を聞きながら、美沙子はこれ以上もなく幸福であった。
美沙子は葉月を救うために、あれこれ苦労をしていたさなかであったのに――そちらで結果を出す前に、愛する娘と再会することがかなったのだ。
(ま、おたがい祖母さんの姿っていう、とんでもないシチュエーションだけどね)
そんな風に考えながら、美沙子は葉月の頭を撫で続けた。
胸もとにしみこむ涙の温かさが、そのまま美沙子の心を温めてくれているような心地であった。
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