(……でも、あのクソジジイは葉月を殺しちまうんだ。それだけは、絶対に許せない)


 怒りの炎に新たな薪をくべながら、美沙子は若き父親にもういっぺん笑いかけてみせた。


「あんたが弟さんを大事に思ってるってことは、よくわかったよ。でも、性格があまりに違うもんだから、苦労してるってわけだ」


「うるせえな。あんたなんかに、俺たちの何がわかるんだよ」


「わからないけど、わかりたいと思ってるよ。偉そうなことを言いながら、あたしもあんまり娘とはうまくいってないからさ。……大事な家族とうまくやれないってのは、しんどいもんだよね」


 それは美沙子の、掛け値なしの本音であった。娘の葉月は幼い時分から、美沙子のことを疎んでいたのである。

 しかし、葉月にどう思われようとも、美沙子の気持ちに変わりはない。葉月を守るためであれば、美沙子はどんな真似でもする覚悟であった。


「そういえば、静夫くんってのは吉岡先生のお世話になってるんでしょ? あのお人は、ここで唯一のお医者だもんね。……あの吉岡先生って、どういうお人なんだろう?」


 美沙子がそのように言った瞬間、野々宮隆介の顔が強張った。

 それを不審に思いつつ、美沙子は「ごめんごめん」と手を振ってみせる。


「あんなお人のことは、どうでもいいか。あんたは見るからに健康そうで、お医者の世話になることもなさそうだしさ」


 野々宮隆介はそっぽを向いたまま、のびかけの髪をひっかき回す。その苛立ちに満ちた仕草に、美沙子はますます不審の思いを募らせた。


(どうも父さんにとって、あいつのことは禁句みたいだね。ちょいと気になるところだけど……本題とはズレてるし、つっつくのはやめておくか)


 美沙子は不本意ながら、ライターの仕事を休業して水商売に励んでいる身となる。しかし、そちらの世界で多少なりとも人を見る目を養ってきたつもりであるのだ。相手がどのような会話を望み、どのような会話を嫌がるか、そういったことを敏感に察知することができなければ、ホステスの仕事などとうてい務まらないのだった。


「弟さんのことを、もっと聞かせてよ。そんなに交流がなくったって、兄弟だったら色々知ってるでしょ? あの子は、どういう性格なの?」


「……そんなの、見たまんまだよ」


「あたしは遠目でしか、その子を見てないんだよね。ずいぶん線の細い子だなぁとは思ったけどさ」


「……あいつは内気で無口だけど、根っこは優しいやつなんだ。あんたが心配するような人間じゃない」


 そんな風に言ってから、野々宮隆介は勢いよく美沙子のほうに向きなおってきた。


「なあ。あいつがあんたの娘さんと仲良くやってるなら、邪魔しないでやってくれよ。あいつは病弱なせいで、なかなか友達も作れなかったみたいだから……これは、大事なチャンスなんだ。あいつが悪い人間じゃないってことは、俺が保証するよ」


「……あんたは本当に、弟さんを大切に思ってるんだね」


 父親の優しさに心をつかまれつつ、美沙子はそれを意志の力でねじ伏せてみせた。


「でもさ、それならそれで、あたしは心配なんだよね。さっきも言ったけど、うちの娘はああいう細っこい子はタイプじゃないんだよ。そこで誤解が生まれたら、ちょっとまずいことになりそうじゃない?」


「……誤解って、なんだよ?」


「こっちは友達のつもりなのに、そっちが恋愛感情だったら、傷つくのはそっちのほうだって話だよ。それじゃあ、弟さんが気の毒でしょ?」


 それは、野々宮静夫と吉岡医師の会話を踏まえた上での発言であった。

 野々宮隆介は完全に虚を突かれた様子で、目を泳がせている。


「し、静夫はまだ中学生だぞ? そんな、色恋どうこうを考えるような年じゃねえよ」


「ええ? その意見には、賛同できないなぁ。あんただって中学生の頃に、気になる女の子のひとりぐらいいたでしょ?」


「い、いねえよ、そんなの!」と、野々宮隆介は精悍な顔に血の気をのぼらせた。

 その姿に、美沙子は予想外の方向から心を揺さぶられてしまう。そんな風に色恋の話で動揺する父親の初心な姿が、娘の葉月にそっくりであったのだ。


(……あんたは祖母ちゃんだけじゃなく、祖父ちゃんにも似てたってわけだね、葉月)


 美沙子はしんみりしそうになる気持ちを奮い立たせて、さらに言いつのってみせた。


「でも、弟さんがそうだとは限らないでしょ? 誤解があるなら、早めに解いておきたいんだよ。くどいようだけど、うちの千夏はああいう線の細い男の子より――あんたみたいなスポーツマンがタイプのはずだからさ」


「お、俺はスポーツマンなんかじゃねえよ。……野球部だって、とっくに辞めちまったしな」


「へえ、あんたは野球部だったの? どうして辞めちゃったのさ?」


「肘を壊して、投げられなくなったんだよ。俺にとっては、ラッキーだったけどな」


「ラッキー? 野球が好きじゃなかったの?」


「好きじゃねえよ。練習はしんどいし、坊主頭にしないといけねえし……それなのに、俺は一年坊の頃からエースを任せるとか言われてたんだぜ? そんな重役は、本当に野球が好きなやつに任せるべきだろ」


 野々宮隆介のそんな言葉が、美沙子の記憶巣を刺激した。


「でもさ、あんたは野球部を辞めることになって、ひどく落ち込んでるみたいだったって聞いた覚えがあるんだけど……それはこっちの勘違いだったのかな?」


 そのように語っていたのは、野々宮静夫だ。だから野々宮隆介はノイローゼとなって、母親を呼び出す際に包丁まで持ち出したのだ――と、野々宮由梨枝の日記帳には、そのように記されているようであるのだ。

 しかし野々宮隆介は、小馬鹿にした様子で「はん」と鼻を鳴らした。


「どいつもこいつも、俺に勝手な期待をかけてやがったからな。それで退部することになった俺がへらへらしてたら、何を言われるかわからねえだろ。だからしばらくは、落ち込んでるふりをしてただけだよ」


「ああ、そうだったの。でも、それじゃあ……家族のお人らも、心配だったんじゃない?」


 美沙子の言葉に、野々宮隆介はふっと表情を曇らせた。


「そんな大層な話じゃねえよ。静夫なんかは……きっと内心で喜んでたろうしな」


「喜ぶ? どうして?」


「あいつは体育の授業にも出られないぐらい、体が弱いんだよ。それで兄貴がエースだなんだって騒がれてたら、余計に肩身がせまいだろ。……俺だって本当は、もっと早く野球部を辞めたくてしかたがなかったんだよ」


「そっか……あんたはつくづく優しいんだねぇ」


 野々宮隆介は再び顔を赤くして、頭をかきむしった。


「くそっ! なんでこんな見ず知らずのバアさんを相手に、ぺらぺら語らねえといけねえんだよ!」


「ふふん。そこはあたしの話術の巧みさかな」


 おどけた顔を作りつつ、美沙子は内心で安堵していた。


(やっぱり父さんは、ノイローゼなんかじゃなかった。そんなの、父さんのキャラじゃないと思ってたんだよ。あの日記帳とやらに何が書かれてたのか知らないけど、そんなのはみんな嘘っぱちってことだ)


 高校生の野々宮隆介は、美沙子が知る通りの人間であった。今は母親を亡くしたばかりでずいぶん気落ちしているようだが、それでも芯は強くて、強情っ張りで、口は悪いが気は優しくて――そして何より、家族を大切にしている人間であったのだった。


(でもそうすると、その日記帳ってやつは何なんだろう。父さんにとって都合の悪いものなら、クソジジイを始末した後に処分するべきかと思ってたけど……とりあえず、いっぺん中身を確認してみたいもんだなぁ)


 美沙子がそんな風に考えていると、野々宮隆介はおもむろに立ち上がった。


「静夫の話は、もう十分だろ。俺は家に帰るからな」


「え、待ってよ! まだまだ聞き足りないんだけど!」


「うるせえなぁ。そんなに静夫のことを知りたいなら、本人と話せばいいじゃねえか」


 その言葉は、美沙子を大いに悩ませた。


「本人とか……でも、いきなりこんなオバサンが訪ねていったら、静夫くんもびっくりするだろうね」


「……本気で静夫と会うつもりなら、俺が紹介してやるよ。今ならあいつも、家にいるだろうからな」


「へえ。ずいぶん親切なんだね」


 美沙子がそのように答えると、野々宮隆介は真剣な面持ちで身を乗り出してきた。


「その代わり、静夫がまともな人間だってわかったら……あいつの邪魔はしないでやってくれよ。あいつには、友達が必要なんだ」


 美沙子はさらに頭を悩ませてから、「わかった」と答えた。


「それなら、あたしからも交換条件ね。もし千夏と静夫くんの気持ちにズレがあったら、それを正しい関係に戻せるように、あんたも協力してくれる?」


「また色恋がどうこうって話か? ……わかったよ。俺だって、静夫が落ち込む姿は見たくねえからな」


 そう言って、野々宮隆介はぎこちなく微笑んだ。

 それもまた、娘の葉月とそっくりの笑顔だ。そして、野々宮隆介と蓮田千夏の結婚祝いの写真では、彼の父親である野々宮孝信もそっくりの顔で微笑んでいたのだった。


 美沙子はさまざまな思いを抱えながら、野々宮隆介とともにお堂の前を離れる。

 そうして雑木林の出口に向かって歩きながら、美沙子は頭が熱くなるほど思案した。


(あのクソジジイは、始末する。でも……もしあいつが母さんへの執着を捨てられるなら……母さんたちを悩ませることもなく、四十年後に病院を脱走することにもならないのかもしれない)


 美沙子の中に、迷いが生じていた。野々宮静夫への殺意は消しようもないが、しかし父親たる野々宮隆介が弟に対して混じりけのない情愛を抱いているのだと思い知らされるたびに、心が惑ってしまうのである。


(もしもあいつがトチ狂う姿を見てなかったら、あたしはここで穏便な方向に軌道修正してたかもな)


 野々宮静夫は、美沙子の目の前で吉岡医師を殺害した。そして、母親を殺したのは自分だと告白しながら、兄にその罪をなすりつけると宣言していたのである。あのように常軌を逸した人間を、とうてい野放しにする気持ちにはなれなかった。


(だからこれは、次善の策ってやつだ。あいつを始末するのが難しいようだったら、母さんへの執着を捨てさせる。最終的に葉月が救われれば、それでいいわけだからね)


 美沙子と野々宮隆介は雑木林を出て、土手の上の道にのぼった。

 野々宮の家は、すぐ目の前だ。そして門の手前には、白い軽トラックが停められていた。


「あいつ……もう来てたのか」


 野々宮隆介が、忌々しげに言い捨てる。

 美沙子の視線に気づくと、野々宮隆介は同じ口調で言葉を重ねた。


「診療所の吉岡だよ。今日は昼からの往診だって聞いてたのにな」


 美沙子も確かに、そのように聞いている。腕時計で確認してみると、時刻は十時四十八分であった。


(とりあえず……クソジジイがお医者を殺そうとしたら、全力で止めないとな。あいつが警察に捕まらなければ、こっちにもあれこれ作戦を練るゆとりができるはずだ)


 そんな風に考えながら、美沙子は野々宮隆介とともに門をくぐった。

 前庭には、いくぶん雑草がのび始めている。野々宮由梨枝が亡くなって以来、手入れがされていないのだろう。それでも四十年後と比べれば、まだしも上等な有り様であった。


「今は静夫も診察を受けてるはずだから、紹介するのはその後だな。応接間で待っててくれよ」


「うん、了解。世話をかけるけど、よろしく頼むよ」


 長々と続く敷石を踏み越えて、野々宮隆介は玄関のガラス戸を開いた。

 そうして玄関口に上がり込み、美沙子がシューズを脱ごうとしたとき――応接間のふすまが開かれて、大柄な人影が飛び出してきたのだった。


「待ってたぞ……この、人でなしが!」


 それは美沙子の祖父である、野々宮孝信に他ならなかった。

 野々宮孝信は憤怒の形相で、酒臭い息を吐いており――そして右手にはゴルフクラブを、左手には赤いノートのようなものを握りしめていた。


「お、親父? いったい何の騒ぎだよ?」


 野々宮隆介が仰天した様子で応じると、野々宮孝信は「うるせえっ!」とわめき散らした。


「実の母親に手をかけるなんざ、人間じゃねえ! 由梨枝の仇だ!」


 ゴルフクラブが横薙ぎに振るわれて、野々宮隆介のこめかみを打ち砕いた。

 真っ赤な鮮血が弾け散り、野々宮隆介の体は閉めたばかりのガラス戸に叩きつけられる。

 美沙子はわけもわからぬまま、両者の間に割り込むことになった。


「やめなさい! あんた、いったいどういうつもりで――!」


「うるせえ! 邪魔するな!」


 美沙子の視界が、真紅に染まった。

 美沙子もまた、頭を叩き割られてしまったのだ。

 玄関口に倒れ込んだ美沙子は、かすむ目で狂乱する祖父の姿を見上げることになった。


「やめ……て……あんたはきっと……何か誤解を……」


 美沙子はうわごとのように声を振り絞りながら、野々宮孝信の足をつかんだ。

 すると、憤怒の形相であった野々宮孝信は、どこかぶざまな泣き笑いのような表情に変じ――美沙子の頭に、再びゴルフクラブを振り下ろしてきたのだった。


 蓮田節子の貧弱な肉体は、それですべての力を失ってしまう。

 美沙子の意識も、急速に薄らいでいき――最後にその目に映されたのは、祖父の左手に握りしめられた日記帳の赤い色合いであった。

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