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(やれやれ……とりあえず、母さんは無事だったか)
蓮田家の家屋の壁にへばりついていた美沙子は、ほっと息をつきながら出刃包丁の柄から手を離した。
野々宮静夫はがっくりとうなだれながら、道を南に下っていく。その小さな後ろ姿を見送りながら、美沙子は(さて)と思案した。
(あたしは、どうするべきだろう。あいつが診療所に向かわないなら、せっかくの作戦が台無しだし……かといって、時間は無駄にできないしなぁ)
とりあえず、いつまでもこのような場所に身をひそめていたら、体力を削られるばかりである。かといって、高校生の母親が待ち受ける家に戻る気持ちにもなれなかった。
(やっぱり、野々宮の家を確認しておくべきか。あいつの寝室の場所とかを把握しておけば、夜にでも忍び込めるかもしれないもんね)
美沙子はそのように考えて、橋のほうに足を踏み出した。
そうして歩を進めながら、背後の家を振り返る。ガラス戸はぴったりと閉ざされて、蓮田千夏が出てくる気配もなかった。
(母さんは大人しくしておいてね。あのクソジジイは、あたしが何とかしてみせるからさ)
夏の日差しに耐えながら、美沙子は前回と同じ道を辿り始めた。
道の彼方に、ぽつんと野々宮静夫の背中が見える。その消沈した姿は、前回に見たときとよく似通っていた。
(でも、どうして前回と今回であいつの行動が違ってるんだろう。そんなに不確定要素が多いんじゃ、こっちは計画の立てようがないじゃないか)
それに前回は、野々宮の家の応接間で殺されるはずだった吉岡医師が診療所で殺され、野々宮隆介が野々宮静夫を殺すことになった。それは美沙子が抱える二つの記憶のどちらとも合致しない展開であった。
(……あ、そうだ! あの吉岡って医者は、昼から往診に行くつもりだって言ってたじゃないか! だとすると……今度こそ、野々宮の家で殺されちまうかもしれないんだ!)
そうしたら、野々宮静夫は警察に捕まって、美沙子の手の届かない場所に移送されてしまう。それでは、葉月の未来を守ることもできなくなってしまうのだった。
(まいったなぁ。そもそもあいつは、どうしてあのお医者を殺そうとするんだよ? 由梨枝さんって人の日記帳を隠されてたことに怒ってたみたいだけど……それぐらいのことで人を殺そうだなんて、まともじゃないよ)
もちろん、野々宮静夫がまともな人間でないことは重々承知している。
しかし美沙子は、それ以外にも数々の疑問や違和感を抱え持ってしまっていた。
(日記帳に何が書かれてるのかも気になるし、クソジジイとお医者の関係もよくわからないし……由梨枝さんって人は、本当に自殺じゃなかったの? どうして父さんに疑いがかけられるような文章が、日記帳なんかに残されてるのさ?)
美沙子が思い悩んでいる間に、野々宮の屋敷が見えてきた。
前方を歩く野々宮静夫は、重い足取りで門をくぐっていく。それを追いかけようとした美沙子は、目の端に人影をとらえることになった。
美沙子の父親、野々宮隆介である。
野々宮隆介が、土手の下の川沿いを歩いていたのだった。
しかも、向かう先は南側の雑木林だ。
美沙子は、得も言われぬ不安感に見舞われてしまった。
(クソジジイとは顔をあわせてないんだから、あいつに呼び出されたわけじゃないよね? だったらどうして、前回と同じ場所に向かうのさ?)
そこで美沙子は、ひとつの会話を思い出した。
野々宮由梨枝が死んだ夜、野々宮隆介はあのお堂の前に母親を呼び出していたという話であったのだ。
(もちろん父さんが自分の母親を殺したりするわけはないけど……そんな場所に、今さら何の用事があるっての?)
美沙子は心中の不安感に従って、自らも土手を下りることになった。
その間に、野々宮隆介の姿は雑木林に消えてしまっている。野々宮静夫の存在も放ってはおけなかったが、今は父親の挙動が気にかかってならなかった。
(あのお医者が応接間で殺されたときは、父さんたちも居合わせたって話だもんね。それじゃあ父さんが家に戻るまでは、あのお医者が殺されることもないだろうさ)
そんな風に自分に言い聞かせながら、美沙子は雑木林に踏み入った。
前回、同じように行動したのは、つい数十分前であったような、何日も前であったような――その後にセピア色の奔流に呑み込まれたことによって、時間の感覚は曖昧になってしまっている。ただそれは確かな記憶として、美沙子の心に焼きつけられていた。
(もう溺れ死ぬのは御免だけど、あのクソジジイさえいなければ、父さんがあたしにひどい真似をする理由もないからね)
木漏れ日の差し込む草むらを踏み越えて、美沙子は雑木林の内を突き進んだ。
しばらく進むと、古びたお堂が見えてくる。
野々宮隆介はそのお堂の前に座り込み、自分の頭を抱えていた。
「なんでだよ……どうしてこんなことになっちまったんだ……?」
野々宮隆介の悲痛なつぶやきが聞こえてくる。
それで動揺した美沙子は、うっかり小枝を踏み鳴らしてしまった。
「誰だ!」と、野々宮隆介が面を上げる。
その顔には、怒りと悲しみの表情が同じ濃密さで刻みつけられていた。
「出てこいよ! そこに隠れてるのはわかってるんだぞ!」
美沙子は溜息を噛み殺しながら、父親の要請に従うことにした。
「ごめんごめん。覗き見するつもりではなかったんだけどさ。なんか様子が普通じゃなかったから、つい隠れちゃったんだよ」
野々宮隆介は険しく眉をひそめながら、美沙子をにらみつけてきた。
美沙子が知る父親よりも何歳か若い、高校生の姿である。ただその力強い眼差しや厳しく引き締められた口もとなどは、美沙子が知る通りの凛々しさであった。
「誰だよ、あんた? こんなところで、何をやってるんだ?」
「あたしは散歩をしてただけだよ。ここは私有地でも何でもないんだから、どこを歩こうとあたしの勝手でしょ?」
そんな風に答えながら、美沙子はひそかに胸を高鳴らせてしまっていた。
六歳という幼さで死別してしまった父親と、三十年ぶりに再会を果たしたのである。さしもの豪胆な美沙子の心も、懐かしさと非現実感で千々に乱されてしまっていた。
「そっちのほうこそ、大丈夫? なんか、ずいぶんしんどそうだったけど」
美沙子がそのように言葉を重ねると、野々宮隆介は「別に」と言い捨てた。
「俺だって、ただ涼んでただけだよ。用がないなら、放っておいてくれ」
「用か……用はないこともないんだよね」
美沙子は乱れる心を何とか抑えつけながら、そのように言いつのってみせた。
過去の父親と接触する気はなかったが、こうなったからには少しでも情報を収集しておくべきかと思い至ったのである。
「あんた、野々宮さんとこの長男坊でしょ? ついさっき、次男坊のほうも見かけたところなんだよね。あの子、うちの娘と何か約束をしてたみたいでさ」
「娘……? あんた、誰だよ?」
「あたしは、蓮田――節子ってもんだよ」
美沙子の返答に、野々宮隆介は大きく目を見開いた。
「蓮田って、川向こうの蓮田さんか? それなら……静夫のやつは、そっちの娘さんと仲良くしてるみたいだな」
「そうなの? うちの千夏は、もっと男らしい子がタイプのはずなんだけど」
野々宮隆介は、見開いた目を白黒させることになった。
「なんだよ、それ。そんなの、知らねえよ。あんた……変なおばさんだな」
「おばさんって、失礼な子だね。あたしはまだ――」
と、美沙子は慌てて言葉を呑み込む。本来の美沙子は三十六歳で若々しさを自慢にしていたが、この肉体の主である蓮田節子は年齢以上に年老いた容姿をしているのだ。
「……まあいいや。とにかくさ、大事な一人娘に悪い虫がついたら大変だから、ちょっと話を聞かせてもらえない?」
「話すことなんて、ねえよ。それに――静夫は、悪い虫なんかじゃねえ」
そんな風に語る野々宮隆介は、もともと鋭い目に怒気を閃かせた。
美沙子は「ごめんごめん」と笑いながら、若き父親の隣に腰を下ろす。
「でもほら、あたしはその子のことを何にも知らないからさ。名前は、静夫っていうの? ……静夫くんは、ずいぶん体が弱いみたいだね」
「……そんなのは、静夫のせいじゃない」
「だから、怒らないでってば。あたしは娘が仲良くしている相手のことを、よく知りたいだけなんだよ。……静夫くんって、家ではどんな感じなの?」
野々宮隆介は顔をそむけつつ、「知らねえよ」と言い捨てた。
「あいつと口をきくことなんて、滅多にないし……俺は、あいつに嫌われてるからな」
「嫌われてる? どうして?」
「俺が、がさつな人間だからだろ。こんな乱暴者が家族にいたら、鬱陶しいに決まってるさ」
野々宮隆介のそんな言葉に、美沙子はまた心をかき乱されることになった。
美沙子の記憶は二つに分断されてしまったが、そのいずれにおいても父は弟の存在を気づかっていたのである。野々宮静夫が屋敷に居座っていたほうの記憶においては、ずっと不快な言動を向けられていたというのに――それでも父は弟のことを見放さず、何とか和解できないかと心を砕いていたのだった。
(父さんは、あんなやつでも大事な弟として扱ってたんだ。それで……あたしは父さんの大事な弟を殺そうとしてるんだ)
そんな風に考えると、美沙子の心にたぎった憎悪と憤激の炎は、初めて頼りなく揺らいでしまったのだった。
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