(駄目だ……!)


 私は無意識の内に立ち上がり、隆介のもとに駆け寄っていた。

 そして、その手に――かつて私の首を絞めた逞しい手に、取りすがる。


「隆介くん、落ち着いて! あなたがおかしな真似をしたら、お母さんも悲しむよ!」


 私は半ば、隆介に殴られることを覚悟していた。

 しかし隆介は、ただ火のような眼光を私に突きつけてくるばかりであった。


「……どうしてお前は、俺たちの家にかまうんだよ? お前には関係のない話のはずだ」


「関係なくないよ! 私は――」


 私は隆介たちの、家族であるのだ。

 野々宮由梨枝は曾祖母であり、孝信は曾祖父であり、隆介と静夫のどちらかは祖父であり、もう片方は大伯父か大叔父であるのだった。


「――私は静夫くんのことも隆介くんのことも、大切に思ってるよ! 理由なんて、それで十分でしょ? 私はこれ以上、みんなに不幸になってほしくないだけだよ!」


「だけど君は、部外者だ。そろそろ家に帰ったほうがいいんじゃないのかな?」


 笑いを含んだ声が、別の場所から響きわたる。

 そちらを振り返った私は、黒い穴のように虚ろな目で見返されることになった。


 つい先刻まで和やかであった吉岡医師の笑顔が、無機的なものに変じている。

 こいつはこの場で、由梨枝との関係を自ら暴露して――さらに、日記帳の内容まで語ろうというつもりなのだろうか?


(そうか。こいつはきっとここに来る前に、仏間の日記帳がなくなってることを確認してるんだ)


 隆介と孝信は、すでに我を失いかけている。そこにそんな爆弾を放ったら、誰と誰が殺し合いを始めてもおかしくはなかった。

 私は隆介の腕に取りすがったまま、懸命に思案を巡らせ――それで、最後の覚悟を固めることになった。


「私は、帰りません! あなたこそ、もう馬鹿な考えは捨ててください!」


 私がそのようにわめきたてると、吉岡医師はいっそう不気味に口の端を吊り上げた。


「君も僕に、何かおかしな疑いをかけようというつもりなのかな? でもその前に、まずは隆介くんにかけられた疑いについて語らせてもらおうかな」


「いいえ、私のほうが先です! あなたは、由梨枝さんを殺したんです! それで、その罪を隆介くんになすりつけようとしてるんでしょう?」


 私の手の中で、隆介の腕がびくんと震えた。

 それを力づけるために、私は思い切り隆介の腕を抱きすくめてみせる。

 そんな私たちの姿を虚ろな目で見やりながら、吉岡医師は咽喉で笑った。


「僕が、由梨枝さんを殺したって……? ずいぶんとまた、突拍子もないことを言うんだね。何か証拠でもあるのかな?」


 私はその問いかけを黙殺して、隆介と孝信の様子を確認した。

 二人はどちらも、激情に我を失いかけている。

 ただ――憎悪と狂気の昂りは、別なる激情によって揺らいでいるように感じられた。


 私の投げかけた言葉が、彼らを激しく動揺させたのだ。

 私はそれに拍車にかけるべく、さらに言葉を重ねてみせた。


「私が今から、すべて説明します。でもどうか、早まった真似はしないでください。隆介くんや孝信さんがおかしなことをして、警察に捕まったりしたら……静夫くんが、悲しみます。どうか落ち着いて、私の話を聞いてください」


「……こんな話を、落ち着いて聞けっていうのかい? 君は今……吉岡先生が由梨枝を殺したと言ったんだぞ?」


 震える声で、孝信はそう言った。

 私は、「はい」とうなずいてみせる。


「でも、状況証拠しかありません。それをきちんと調べるのは、警察の仕事です。この人が本当に由梨枝さんを殺したんなら、警察が何とかしてくれるはずです。だからみなさんは、どうか気持ちを静めてください」


「状況証拠、か……さぞかし楽しい話を聞かせてもらえるのだろうねぇ」


 吉岡医師が、くすくすと忍び笑いをもらした。

 私はそれも黙殺して、高い位置にある隆介の顔を見上げる。

 私に右腕を抱きすくめられたまま、隆介は――とても苦しそうに眉をひそめていた。


(大丈夫。私は、あなたを信じてるから)


 そんな思いを込めて、私はひとつうなずいてみせた。

 それから、吉岡医師に向きなおる。


「何も難しい話ではありません。あなたは、由梨枝さんの日記帳を隠し持っていました。それが何よりの証拠となります」


「……日記帳? なんのことだか、わからないねぇ」


「由梨枝さんが亡くなった夜、あなたは日記帳を盗み出しました。それを今日この家に持ち込んで、孝信さんと隆介くんを仲違いさせようとしたんです。孝信さんは食事もしないでお酒ばかり飲んでいたから、正常な判断力を失っていると思ったんでしょう? それであなたは、孝信さんに隆介くんを殺させようと目論んだんです」


 これは推理ではなく、吉岡医師が自ら語っていたことだ。だから私も、遠慮なく断言することができた。


「あなたは、静夫くんに執着しています。それで、他の家族がみんな静夫くんを苦しめているっていう妄想に取り憑かれて、それを排除するための計画を立てたんです。由梨枝さんを殺して、その罪を隆介くんになすりつけて、孝信さんに隆介くんを殺させる……それで、静夫くんを独占したかったんでしょう? たとえ恋愛感情じゃなくても、そんなのは十分に異常者の思考だと思います」


「異常者は、どっちかな……? 君は妄想癖が過ぎるようだね、蓮田さん」


「それじゃああなたは、どうして由梨枝さんの日記帳を隠し持っていたんですか? その時点で、あなたがすべての黒幕だってことは確定しているんです!」


 私の中には、まだ断片的な情報や想像しか存在しない。

 しかしこうなったら、私はそれらを強引に結びつけてでも、何か整合性のある筋書きを構築してみせるしかなかった。


「最初から、順序よく説明しますね。まず、あなたは由梨枝さんと不倫の関係にありました。……ごめんなさい、孝信さん。ショックだろうけど、落ち着いて聞いてください。この人は静夫くんじゃなく、由梨枝さんとそういう関係だったんです。そして――隆介くんが、それに気づいてしまったんです」


 隆介の腕が、また大きく震えた。

 私はさきほどと同じように、その腕を強く抱きすくめてみせる。


「隆介くんは真相を問い質すために、由梨枝さんを夜中に呼び出しました。不安になった由梨枝さんは……たぶん、あなたに電話をしたんです。隆介くんに二人の関係を気づかれてしまったみたいだから、これから話しに行ってくる、と……それであなたは待ち伏せをして、由梨枝さんを川に突き飛ばしたんでしょう?」


「…………」


「そしてあなたは、由梨枝さんの寝室から日記帳を盗み出しました。自分との関係が書かれたりしていないか、心配になったのでしょうか? それであなたは、日記帳に余計な文章を書き加えて、隆介くんに罪をなすりつける計画を立てたんです」


「……何から何まで、妄想だね。そんな日記帳、僕は知らないよ」


 顔だけは不気味に笑ったまま、吉岡医師は何の感情も込められていない声でそのように言いたてた。

 私は片腕で隆介の腕を抱いたまま、もう片方の腕でショルダーバッグの中をまさぐる。そこから取り出されたものを見て、その場の全員が息を呑んだようだった。


「これを仏間に放置したのは、あなたです。孝信さんが毎日お昼に手を合わせていることを知ったあなたは、孝信さんにこれを見つけさせるために、わざと見つかりやすいように置いていったんでしょう? でも、孝信さんより先に、私が見つけることになったんです」


「それが……由梨枝の日記帳なのか?」


 孝信がかすれた声で問うてきたので、私は「はい」と応じてみせた。


「ここには確かに、孝信さんが誤解するような内容が書かれていました。でも、由梨枝さんを殺したのは隆介くんじゃなく、こいつです。こいつがわざわざ仏間に日記帳を置いたことが、その証拠です」


「……僕が仏間に入ったという証拠でもあるのかな?」


「この日記帳は、私と静夫くんが書庫にこもっている間に置かれました。私はその前に仏間の様子を覗き見してたから、それは確かなことです。もちろんこの家の玄関には鍵なんて掛けられていませんから、誰でも簡単に侵入することができますけど……でも、呼び鈴を鳴らさずに入っても怪しまれないのは、あなただけです。もしも他の誰かが孝信さんにこれを見せようと考えたのなら、寝室の窓から放り入れたりするんじゃないでしょうか? こんな日の高い内にわざわざ仏間にまで忍び込むなんて、リスクが大きすぎますからね」


 私の推理は、穴だらけだ。

 だけど私は、吉岡医師が仏間に日記帳を置いたという事実を、本人から聞いている。だから迷うことなく、糾弾することができた。


「……どうですか、隆介くん? 私は何か、間違ったことを言っていますか?」


 私がそのように問いかけると、隆介は小さく体を震わせながら、「いや……」と低い声を振り絞った。


「俺のことに関しては、全部お前の言った通りだ……あの日、俺は……仮病で学校を早退して、こっそり家に戻ろうとしたら……玄関を出ていこうとするこいつと、それを見送る母さんの姿を見ちまったんだ。そのときの仕草や雰囲気が、何かおかしかったから……俺は、たまらない気持ちになっちまって……」


「それで、お母さんをお堂に呼び出したんですね。お母さんは、お堂に来たんですか?」


「母さんは、けっきょく来なかった……俺はお堂の前で、一時間ぐらい待ってたけど……でも、母さんは来なかったんだ……」


 そのように語る隆介の目に、怒りではなく悲哀の激情が渦巻いた。


「だから、俺は……お堂に向かう途中で、母さんが足を滑らせたんじゃないかって……あの辺りは街頭もなくて、夜は真っ暗だから……でもそれなら、母さんが死んだのは俺のせいってことになるから……今まで、誰にも言えなくて……」


「大丈夫。隆介くんのせいなんかじゃありません」


 私は精一杯の思いを込めて、頼りなく震える隆介の腕を抱きしめてみせた。


「本当に足を滑らせたんなら、それはお気の毒だけどお母さん自身の責任だし……それにきっと、お母さんは事故で亡くなったんじゃありません。不倫の関係を隠したかったこいつが、川に突き落としたんです。こいつは静夫くんに執着しているから、そんな話は絶対に隠し通したかったんでしょう」


 それもまた強引な言い草であったかもしれないが、私としてはそのように言い張るしかなかった。


「それできっと、こいつはその足でこの家に向かったんです。由梨枝さんを殺した後なら、寝室が無人だってことも確実ですからね。それに、ずっとこの家に出入りしてたこいつなら、孝信さんと由梨枝さんの寝室が別々だってことも知ってるはずです」


 私にその事実を教えてくれたのは、静夫である。静夫はまず母親の寝室で日記帳を探してから、のちのち兄と父親の寝室を探したのだと証言していたのだった。


(やっぱり隆介くんは、由梨枝さんを殺したりしていなかった。悪いのは、全部こいつなんだ)


 そんな風に考えた私の頭に、ふっと暗い影が差した。

 では――私が体験した最初の八月十日、お堂の前で静夫に糾弾された隆介は、どうしてあそこまで錯乱することになったのだろうか?


 もちろん母親殺しの濡れ衣を着せられたならば、取り乱すのが当然だろう。夜中に待ち合わせをしていたのは事実であるのだから、余計に動揺したはずだ。

 しかし――それで大事な弟を殺してしまおう、などという考えに至るものだろうか? 本当に後ろ暗いところがないのであれば、たとえどれだけの怒りにとらわれようとも、そこまで追い詰められることはないのではないだろうか?


 そして、それに比べれば些末なことだが、私はもう一点、強い違和感を覚えることになった。


(私や静夫くんが隆介くんに殺されたのは、午前の十一時になる前のはずだけど……どうして静夫くんがそんな早い時間に、日記帳を見つけることになったんだろう?)


 静夫がどれだけ熱心に日記帳を探索していたとしても、吉岡医師がこの屋敷を訪れるまで、日記帳はこの場に存在しなかったのだ。

 そして吉岡医師がこの屋敷を訪れたならば、すぐさま静夫の診察を始めるはずであるのだから、父親より先んじて仏間に足を踏み入れるような状況にも成り得ないはずであった。


 何かが、少しだけ間違っている。

 私が構築したツギハギだらけの筋書きには、やっぱり何かが欠けているのだ。


(でも……)


 私は、隆介のことを信じていた。

 少なくとも、隆介は母親を殺していない。隆介の腕を抱きしめた祖母の肉体が、全力でそのように叫んでいるような心地であるのだ。


 そして私自身もまた、隆介のことを信じようという気持ちになっていた。

 だから私は心中に蠢く違和感を振り切って、最後の言葉を宣言することにした。


「私の妄想は、以上です。この妄想が真実であるかどうかを調べるのは、警察の仕事です。だから、弁明するなら警察にしてください」


「弁明は……特に必要ないかな」


 と――吉岡医師は、力なく顔を伏せた。


「君はすごいね、蓮田さん。君が素晴らしい洞察力を持っているということは、静夫くんから聞いていたけれど……これは、想像以上だったよ」


「それじゃあ……こいつの言ったことを、認めるのか?」


 押し殺した声で、隆介が追及した。

 吉岡医師は小さく肩を震わせながら、面を上げる。

 その顔は――まだ虚ろな笑いをたたえたままだった。


「認めよう。……由梨枝さんを殺したのは、この僕だよ」


 私は、慄然と身をすくめた。

 何か、とてつもなく嫌な予感が、背筋を走り抜けたのだ。


「由梨枝さんと不倫の関係にあったのも、由梨枝さんを殺した罪を君になすりつけようと考えたのも、それを利用して孝信さんに君を殺させようとしたのも……何もかも、蓮田さんの言った通りだ。君たちは、静夫くんの幸福な生活の邪魔にしかならないからね」


 私は惑乱しながら、隆介と孝信の姿を見比べた。

 二人の目には、猛烈なまでの怒りの炎が燃やされている。吉岡医師は虚ろに笑いながら、それらの姿を見返していた。


「君たちは、静夫くんの苦悩を何ひとつ理解してない。君たちのようにがさつで思いやりのない家族に囲まれて、静夫くんがどれだけ苦しんでいたと思っているんだ? 君たちは、害毒だ。君たちこそ、この世からいなくなるべきだった。こんな形で計画が頓挫してしまって、残念な限りだよ」


「手前……」と、隆介が身を起こそうとした。

 私は全力で、それを引き留める。


「駄目です! こいつは……こいつはきっとあなたたちに、自分を殺させようとしているんです! そうやって、あなたたちを静夫くんのそばから排除しようとしているんですよ!」


「それなら、僕を見逃すかい? 果たして警察は、僕を有罪にできるだけの証拠を見つけられるのかな。その日記帳にだって僕の指紋は残していないし、由梨枝さんの寝室は……何度も何度も往診で訪れているんだから、指紋があってもおかしくはないしねぇ」


 そこで吉岡医師は、濁った笑い声を響かせた。


「ひとつ教えてあげようか。最近の由梨枝さんは、健康そのものだったよ。だけど僕と逢瀬を重ねるために、病弱なふりをしていたのさ。それもこれも、あなたが仕事にかまけて由梨枝さんをないがしろにしていたからですよ、孝信さん」


「……その薄汚い口を、いい加減に閉ざしやがれ」


 孝信が、ゆらりと身を起こした。

 私は「駄目です!」と悲鳴をあげる。


「あなたが警察に捕まったら、静夫くんはどうなるんですか? お母さんを亡くした上に、あなたまで失ってしまったら……」


「そうだ。静夫には、親父が必要だ」と、隆介が強引に立ち上がった。

 それに引きずられて一緒に立ち上がることになった私は、めいっぱいの力で隆介の体を抱きすくめてみせる。


「あなただって、駄目です! 静夫くんは、あなたとも孝信さんとも仲良くしたいと言っていたんです! 静夫くんには、二人とも必要なんですよ!」


「離してくれ」と、隆介は低い声でつぶやいた。

「離しません!」と、私は泣き声を返してみせる。


「静夫くんだけじゃない! 私だって、嫌なんです! 隆介くんや孝信さんが人を殺すなんて、私には耐えられません! お願いだから……こんなやつのために、自分の人生を捨てないでください!」


 涙をおさえることもできないまま、私は隆介の顔を見上げた。

 隆介は、血がにじみそうなぐらい唇を噛みしめている。その目には怒りの炎が吹き荒れていたが、その顔はまるで泣いているかのようだった。


 孝信もまた、怒りと悲しみのないまぜになった形相で、その場に凍りついている。

 そこに、吉岡医師の聞き苦しい笑い声が響きわたった。


「これでもまだ足りないか……それじゃあ、とっておきの秘密を教えてあげようかな」


「うるさい! 黙れ! もうあなたの言葉なんて、聞きたくもありません!」


「黙らないよ。僕には静夫くんを守ってあげなきゃならない責任があるんだ」


 私は隆介に抱きついたまま、吉岡医師のほうを振り返った。

 吉岡医師は立ち上がり、芝居がかった仕草で両腕を広げている。


「静夫くんは、僕の子だ! あの売女は亭主を裏切っただけじゃなく、間男との間に子を作って――」


 私の視界が、真紅に染まった。

 それは、吉岡医師の首から噴きこぼれた鮮血の色合いであった。


 吉岡医師は血みどろの顔で虚ろに笑いながら、ゆっくりと横合いに倒れ込み――

 その背後に、血まみれのカッターナイフを握りしめた静夫の姿が現れた。


 二人の背後のふすまが、いつの間にか三十センチばかり開かれている。

 そこから忍び込んだ静夫が、横合いから吉岡医師の首にカッターナイフを突き刺したのだった。


 頸動脈を切られてしまったのか、吉岡医師の首からは信じ難いほどの鮮血があふれかえっている。

 畳に広がる血の海に沈みながら、吉岡医師は水揚げされた魚のようにびくびくと痙攣していた。


「馬鹿だなぁ。それだけは、絶対の秘密だって約束したのに」


 感情の欠落した声で、静夫はそう言った。

 いや――これは本当に、野々宮静夫なのだろうか?

 静夫と同じ顔をしたその存在は、黒い穴のように虚ろな目で、口を半月の形に吊り上げて、不気味に微笑んでいたのだった。


「そんな話を聞かれたら、僕の立場が悪くなるだけなのにさ。……でもまあどっちにせよ、千夏ちゃんは隆介兄さんを選んだみたいだね」


「しずお……くん……どうして……」


「もう、どうでもよくなったんだよ。だって僕は、千夏ちゃんに捨てられちゃったからさ」


 静夫は右手に握っていた血まみれのカッターナイフを放り捨てて、汚物でも見るように吉岡医師の亡骸を見下ろした。


「この人は、最後の最後まで負け犬だったね。でもまあ最後まで僕を庇い通したと思い込みながら死んだんだから、まだしも幸福な心地なんじゃないのかな」


「静夫……お前、何を言ってるんだ……?」


 私の腕の中で小さく震えながら、隆介がそう言った。

 静夫はくすくすと笑いながら、隆介に向きなおる。


「母さんを殺したのは、僕なんだよ。だからこの人は僕のために、その罪を兄さんになすりつけようと考えたんだろうね。……でもまさか、千夏ちゃんに邪魔をされちゃうなんてね」


 静夫は白い咽喉をのけぞらして、悪魔のような笑い声を響かせた。


「でももう、これでおしまいだ! 僕も最後まで負け犬だったけど、痛快な気分だよ! だって、僕にこんな人生を押しつけた父親と母親を、両方ともこの手で始末することができたんだからね!」


 私は視界がぐにゃぐにゃと歪んでいくのを感じた。

 その不明瞭な世界の中で、静夫がこちらに足を踏み出してくる。


「千夏ちゃん……僕は本当に、君のことが好きだったんだよ……今からでも、僕を選んでくれないかな……?」


「やめろ、静夫!」


 隆介の力強い腕が、私を抱きしめてくる。

 その腕力に絞り出されるようにして、私の意識が肉体から離脱した。


 その先に待ちかまえていたのは、セピア色の奔流だ。

 私はどうしようもない悲哀にまみれながら、その奔流にすべてをゆだねることになった。

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