3
数分後、私たちは玄関に近い位置にある応接間に移動していた。
応接間は畳敷きの和室であり、大きな座卓と座布団が置かれている。私の正面に座した孝信は申し訳なさそうに眉を下げており、私の右手側に座した隆介は不貞腐れた面持ちでそっぽを向いていた。
「落ち着いたかい、蓮田さん? さっきはうちの馬鹿息子が、悪かったね」
「いえ。私のほうこそ、申し訳ありませんでした」
孝信から手渡されたハンカチで涙をぬぐった私は、羞恥の念をねじ伏せながらそのように答えてみせた。
今は人前で大泣きしたことを恥じらっている場合ではない。私は本来の世界では出会うこともない家族たちのために、何とかまともな運命を選び取らなければならなかったのだった。
「隆介くんも、ごめんなさい。でも本当に、私は興味本位であなたの家のことを嗅ぎ回っていたわけじゃないんです。どうか、それだけは信じてください」
私がそのように声をかけても、隆介はそっぽを向いたままであった。
前回は隆介のほうから折れて、最後には可愛らしい一面まで見せてくれたのに、今回はずいぶん頑なだ。私がそれをいぶかしく思っていると、孝信が苦笑まじりの声をあげた。
「そいつのことは、放っておいてくれ。どうせ全部、俺のせいなんだろうからよ」
「お父さんのせいって……どうしてですか?」
「そりゃあまあ、こんな酔っぱらった父親が友達の前に顔を見せたら、普通は居たたまれないんじゃないのかね」
すると隆介がそっぽを向いたまま、乱暴な声をあげた。
「そいつは、静夫が目当てなんだろ! 勝手に俺のダチにするんじゃねえよ!」
「でも、蓮田さんはお前の名前も知ってたぞ。高校だって、一緒なんだろ?」
「うるせえな! そいつが勝手につきまとってるだけだよ!」
と――険悪な表情のまま、隆介は頬を赤らめた。
これはきっと、よい兆候なのだろう。彼は不機嫌そうな顔がデフォルトであるようだが、その目を狂犬のようにぎらぎらと光らせない限りは、私を不安な心地にさせることもなかったのだった。
(やっぱりお祖母ちゃんは……隆介くんと結婚することになるのかなぁ)
そんな想念にとらわれかけた私は、慌てて気持ちを引き締めることになった。
紆余曲折を経て、隆介と孝信の両方と言葉を交わすチャンスをつかめたのだ。吉岡医師が静夫の診察を終える前に、私は何とかこの状況を打破するための足がかりをつかんでおきたかった。
「それで、あの……実はお二人におうかがいしたいことがあったんです。よかったら、聞いていただけますか?」
「うん? 隆介はともかく、俺なんかに聞きたいことはないだろう?」
「いえ。お父さんにも、是非。それは、吉岡先生についてなんですけど……」
私がそのように口走った瞬間、隆介の肩がぴくりと震えた。
しかし孝信のほうは、「吉岡先生?」と小首を傾げている。
「あの先生が、どうかしたのかい? 俺は健康そのものなんで、あのお人の世話になったことはないんだよ」
「でも吉岡先生は、昔からこちらに出入りしていたんでしょう? あの人は、どういう人なんでしょう?」
すると、隆介がぎらつく眼光を私に向けてきた。
「……どうしてお前が、あいつのことを気にしてるんだよ?」
隆介は、明らかに動揺しているようだった。
私は隆介の眼光に耐えながら、言葉を重ねてみせる。
「私、あの人のことが好きになれないんです。静夫くんの前ではいつも優しそうに笑ってますけど、なんだか裏がありそうで……」
「ふうん。俺は大したつきあいもないんで、よくわからんな。この前は酔った勢いで、つい乱暴な真似をしちまったけど……でもあの先生には、由梨枝と静夫の両方が世話になってるんだよ」
孝信のほうは穏やかな面持ちで、そんな風に言っていた。
では、由梨枝と吉岡医師の不倫関係が事実であったとしても、孝信は疑ってすらいなかったのだ。
(まあ、そんなことを疑ってたら、家への出入りを許すはずがないもんな)
私はそのように結論づけて、隆介に狙いを絞ることにした。
隆介は、今にも暴発しそうな眼光で私をにらみつけている。
「隆介くんは、どう思いますか? 吉岡先生に、どういう印象を持ってます?」
「お前は……何を知ってるんだ?」
隆介は、半分腰を浮かせかけている。
彼は由梨枝と吉岡医師の不倫関係を疑っていた立場であったので、心を乱されてしまっているのだろう。
私は懸命に頭を巡らせて、次のカードを切ることにした。
「あの人は、静夫くんにおかしな執着を持ってるみたいなんです。それで……怒らないで聞いてくださいね? 静夫くんの家族であるみなさんに、いい感情を持っていないみたいなんです」
隆介は意表を突かれた様子で、ぎゅっと眉をひそめた。
「俺たちにいい感情を持ってないって……それは何の話だよ?」
「私にも、よくわかりません。でもあの人は、みなさんが静夫くんを苦しめてるなんて言ってたんです」
「……どうしてお前が、そんな話を知ってるんだ?」
「それは、ええと……あの人が電話でそんな風に話しているのを、たまたま立ち聞きしちゃったんです」
私は苦しい嘘をつくことになってしまった。
しかし吉岡医師は、私の目の前でそのように語っていたのだ。虚ろな目つきで、薄気味悪い笑みをたたえながら。
「だから私、心配になっちゃって……みなさんは、吉岡先生におかしな素振りを感じたりはしませんでしたか?」
「ううん。俺は本当に、あの先生とはつきあいがないからな。……隆介、お前はどうなんだ?」
孝信の呼びかけにも答えず、隆介は一心に私を見つめている。
その目には、まだ激情の火が燃えさかっていたが――それとは別のゆらぎも感じられた。不安とも困惑ともつかない、不安定なゆらめきである。
(どうしよう。何か言葉を間違えたら、隆介くんは暴走しちゃうかも……)
私がそのように考えたとき、ふすまの向こうから廊下の軋む音が聞こえた。
思わず身をすくめる私の耳に、「孝信さん……?」という言葉が飛び込んでくる。
「孝信さんは、こちらですか? 静夫くんの診察が終わったんですけど……」
ふすまが開き、吉岡医師が姿を覗かせた。
吉岡医師は、びっくりまなこで私たちを見回してくる。
「おや、みなさんおそろいで……ああ、蓮田さん。静夫くんの診察が終わったよ。でも、静夫くんはちょっと疲れてしまったみたいなんで、遊ぶのは明日にしてもらえるかな?」
そんな風に言いながら、吉岡医師は穏やかな微笑をたたえた。
私がそれに答えあぐねていると、孝信が「吉岡先生」と険のある声をあげる。
「ちょっとそこに座ってもらえるかい? あんたに聞いておきたいことがあるんでね」
「はあ……」と、吉岡医師は頼りなげに眉を下げた。
「僕も静夫くんの容態について、お伝えしたいことがあったのですが……よければ、場所を移しませんか?」
「そいつは後で、ゆっくりうかがうよ。でもその前に、確認しておきたいことがあるんだ」
孝信が何を言い出すつもりなのかと、私は気が気でなかった。
そして、隆介は――唇を噛んで、吉岡医師の姿から目をそらしている。膝の上に置かれた両方の拳は、血管が浮き上がるほど強く握りしめられていた。
「なあ、吉岡先生。あんたには、ずいぶん昔から世話になってたよな。あんたがこっちにやってきたのは、ちょうど隆介が産まれた頃だったから……もう十七年ぐらいになるんだろう」
「そうですね。あっという間の十七年間でした」
「その間、由梨枝も静夫もさんざん世話になってきた。町の病院は遠いから、こんな辺鄙な場所の診療所に来てくれたあんたの存在は、たいそうありがたかったよ。ただ……あんたはいったいどういうつもりで、静夫たちの世話を焼いてくれていたんだい?」
吉岡医師は変わらぬ笑顔のまま、孝信の姿を見返している。
ただ――銀縁眼鏡の向こう側の目が、暗く陰ったように感じられた。
「どういうつもりとは、どういうことでしょう? 僕が何か、粗相でもしてしまいましたか?」
「俺は毎日仕事漬けで、なかなか家族のことを顧みる時間がなかった。だから、あんたのことも家族まかせにしちまったんだが……ただ、おかしな噂を耳にしちまったんだよな」
「おかしな噂」と、吉岡医師が反復する。
その目はますます陰っていき、今にもすべての光を失ってしまいそうだった。
「あんたが、うちの静夫にご執心って噂だよ。まさか、あんた……うちの静夫に、おかしな真似をしちゃあいないだろうな?」
孝信のそんな言葉を耳にした瞬間、吉岡医師の目に人間らしい光が舞い戻った。
「おかしな真似というのは、まさか性的虐待とかそういうお話でしょうか? でしたら、断固として否定させていただきます。確かに静夫くんはたいそう見目のいい少年ですけれど、僕はそういった性的嗜好を持ち合わせておりません」
吉岡医師の和やかな笑顔を見返しながら、孝信は「そうか」と息をついた。
「おかしなことを聞いちまって、悪かったな。今後も静夫の面倒を見てもらうには、どうしてもそんな疑いを晴らしておきたくってよ」
「いえいえ。本当にそんな噂があったのなら、心配するのは当然のことです。静夫くんの名誉のためにも、僕は身の潔白を誓ってみせますよ」
私は虚脱して、その場にへたり込んでしまいそうだった。
私の告白を聞いた孝信は、そんな方向に想像を広げることになってしまったのだ。私にしてみれば見当違いも甚だしいが、しかしそれも可能性としてはありえなくもない話であるのかもしれなかった。
(確かにこいつは恋愛感情でも持ってるんじゃないかってぐらい、静夫くんに執着してるみたいだもんな。私のほうこそ、まずはそこを疑うべきだったのか)
そうして私が反省していると、今度は隆介の声が響きわたった。
「それじゃあ……母さんとは、どうだったんだよ?」
一瞬で、その場の空気が凍りついたかのようだった。
私がおそるおそる隆介のほうを振り返ると――隆介は、狂犬のような眼光で吉岡医師をにらみ据えていた。
「お前は昔っから、母さんの面倒も見てたんだろ? 親父は会社で、俺と静夫は学校で、誰も邪魔者はなかったよな。悪さをするには、うってつけだ」
「おい。滅多なことを言うもんじゃない。先生だけじゃなく、母さんにも失礼だろう」
孝信の声と表情にも、たちまち不穏な気配が入り混じる。
そして吉岡医師は、再び瞳を暗く陰らせていた。
「俺は、はっきりさせたいだけだよ。母さんは俺たちを裏切ったりしていないってな。それで、どうなんだ? さっきと同じ調子ですらすら答えてみせてくれよ、吉岡センセイ」
隆介の目には、憎悪と狂気の炎が宿り始めている。
孝信のほうも、それは同様だ。
そして吉岡医師の目は、すべての光を失いつつあった。
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