静夫は吉岡医師とともに、書庫を出ていった。

 その姿が廊下の奥に消えていくのを見送ってから、私は忍び足で廊下を逆側に進む。


 けっきょく何の手立ても講じられないまま、私はこの刻限を迎えてしまった。

 あとはもう、その場その場の判断で最善を尽くすしかなかった。


(このまま誰も死なずに今日という日が終わったら、もうやりなおしはきかないかもしれない。やれるだけのことをやりぬくんだ)


 仏間の前まで到着すると、やっぱりふすまは閉ざされていた。

 遠慮なく仏間に踏み入った私は、ふすまを閉めかけた手を途中で止める。前回はふすまを半開きのままにしておいたため、孝信に気づかれることになったのだ。どのような結末を目指すにせよ、私は孝信と隆介を味方につけなければならないはずだった。


 私は急ぎ足で、仏壇へと向かう。その後ろには、当たり前のように赤い日記帳が顔を覗かせていた。

 中身を確認したい衝動をこらえて、私はそれをショルダーバッグにねじ込む。それからほどなくして、背後で廊下の軋む音がした。


「何だ、お前は! こんなところで、何をしている!」


 怒りにひび割れた声が、仏間に響きわたる。

 私が無言で振り返ると、そこには孝信が立ちはだかっていた。


「何をしていると聞いているんだ……人様の家の仏間に忍び込むなんて、許されると思ってるのか……?」


 酒臭い息を吐きながら、孝信が仏間に踏み入ってくる。

 私は前回の記憶を掘り起こしながら、頭を下げてみせた。


「ごめんなさい。静夫くんが往診の時間になったから、その間に手を合わせておこうと思ったんです。勝手な真似をして、申し訳ありませんでした」


 孝信は私と一メートルぐらいの距離を置いて立ち止まり、うろんげな視線を突きつけてきた。


「静夫……? お前は、静夫の友達なのか?」


「はい。蓮田千夏と申します。静夫くんより一歳上で、隆介くんと同じ高校に通っています」


 孝信は怒気を消し去って、「そうか……」と息をつく。

 何かもが、前回に体験した通りの展開だ。

 やはり私が同じように振る舞う限り、世界も同じように進行するようだった。


「それなら、こっちこそ悪いことをしたな。いきなり怒鳴りつけたりして、申し訳なかった。……どうか由梨枝のために、手を合わせてやってくれ」


「はい。ありがとうございます」


 私は座布団に膝を折り、仏壇に立てられた遺影と再び相対した。

 静夫とよく似た女性が、はかなげに微笑んでいる。

 最初に土蔵で見た写真よりも、倍ぐらいは齢を重ねているだろうか。目もとや口もとにはくっきりと深い皺が刻みつけられていたものの、それでも野々宮由梨枝は十分に美しく、静夫の母親であるという面影を強く残していた。


(でもこの人は、吉岡なんかと不倫してたんだ……まさか、それが嘘っぱちってことはないよね?)


 そんな疑念を思い浮かべつつ、私は遺影の前で手を合わせた。

 その後は、孝信も長い祈りを妻に捧げる。その背中は、私の知る通りに小さく見えた。


「……普段は正午ぴったりに手を合わせるんだが、今日は何となく部屋にいたくない気分だったんでな」


 そんな言葉を皮切りに、孝信は私が知っている通りの言葉を訥々と重ねていった。

 妻の由梨枝が、どれだけ立派な人間であったか――そして、自分がどれだけ不甲斐ない人間であったかという、痛切な言葉の数々である。

 それらをすべて耳にして、これからも静夫と仲良くしてやってほしいという願いの言葉まで確認してから、私は「はい」とうなずいてみせた。


「静夫くんは、私にとって大事な友達ですので。……ええと、勝手に仏間に入ってしまって、申し訳ありませんでした。


「何も謝る必要なんてないよ。……家族以外の人間が由梨枝のために手を合わせてくれるなんて、なんだか嬉しくってさ」


 そう言って、孝信はぎこちなく微笑んだ。

 私とよく似た、不器用な人間の笑い方だ。私は心の準備をしていたが、それでもやっぱり胸が詰まるような思いであった。


「実は、明日が初七日なんだ。もしよかったら……明日も顔を出してくれないか?」


「はい。都合がついたら、そうさせていただきます。……あの、どうか気を落とされないでくださいね?」


「ありがとう」と、孝信は力なく微笑む。

 それを最後に、沈黙が訪れた。

 私は慌てて記憶をまさぐり、自分の語るべき言葉を思い出した。


「そ、それじゃあ私は、これで失礼します」


「なんだ、もう帰っちまうのかい?」


「はい。お昼を食べたら、出直してきます。静夫くんにも、そう伝えてもらえますか?」


「昼だったら、うちで食べていけばいいじゃないか。隆介のやつは、簡単なものなら作れるはずだよ」


 ここだ。

 私はここから、前回と異なる運命を辿る心づもりであった。


「隆介くんは、どこかに出かけてるみたいですよ。でも……実は朝ごはんが遅かったから、あんまりおなかは空いていないんです。もしご迷惑じゃなかったら、静夫くんの往診が終わるまで待たせてもらってもいいですか?」


「迷惑なことなんて、ありゃしないよ。どこでも好きな場所でくつろいでくれ」


 そう言って、孝信はぎこちないながらも嬉しそうに微笑んでくれた。

 祖母が嫁入りした際も、彼はこんな表情で迎えてくれたのだろうか。そんな想像をすると、私はまた胸が詰まってしまいそうだった。


(でも、とにかくここからだ。まずはこの人を、吉岡のやつから守らないと)


 吉岡医師は静夫の診察を終えた後、孝信のもとを訪れて、余計なことを口走る。それで逆上した孝信に襲いかかられて――医療用のメスで、それを返り討ちにしてしまうのだ。ならば、孝信と吉岡医師を二人きりにさせないだけで、その運命はひとまず回避できるはずであった。


「お父さんは、これからお昼ですか? よかったら、お昼を作るのをお手伝いしましょうか?」


 私がそのように告げてみせると、孝信はびっくりしたように目を見開いてから、「いや」と苦笑した。


「ここのところ、食欲がなくってね。情けない話だよ、まったく」


「何も情けないとは思いませんけど……でも、何も食べずにお酒ばかり飲んでいたら、体に悪いです。何か少しでもおなかに入れておいたほうがいいんじゃないですか?」


「君……蓮田さんは、ずいぶん世話焼きなんだな。だから静夫にもかまってくれてるわけか」


 孝信は何か眩しいものでも見るような目つきで、私を見た。

 そのとき、背後からまた廊下の軋む音がする。隆介が帰ってきてしまったのだ。

 古びた廊下を乱暴に踏み鳴らしながら通りかかった隆介は、横目でこちらの様子をうかがい――そして、愕然と立ちすくんだ。


「なんだ、お前……こんなところで、親父と何をしてるんだよ?」


「蓮田さんは、静夫のお友達だ。由梨枝のために、手を合わせてくれたんだよ」


 孝信がそのように説明すると、隆介の眉間に険悪な皺が刻まれた。


「なんだよ、それ? 関係のないやつが、ずかずかとこんな場所まで押し入りやがって……用事が済んだんなら、さっさと出ていけよ」


「なんだ、その態度は! 静夫の友達に、失礼だろうが!」


 孝信の顔も、たちまち怒気に染まっていく。それを見返す隆介の目には、ぎらぎらとした物騒な光がたたえられた。


「酔っ払いが、偉そうな口を叩くんじゃねえよ! こんな昼間っから酒臭い息を撒き散らしやがって……お前のほうが、よっぽど失礼じゃねえか!」


「親に向かって、なんて口の利き方をしやがる!」


 孝信はこめかみに血管を走らせながら、立ち上がった。

 私は思わず、「やめてください!」と大きな声をあげてしまう。


「どうして二人とも、そんな喧嘩腰なんですか? 由梨枝さんの見ている前ですよ?」


 孝信は、ハッとした様子で立ちすくんだ。

 しかし隆介は、ぎらつく眼光を私のほうに突きつけてくる。


「無関係の人間が、出しゃばるんじゃねえよ! どうしてお前は、俺たちの家をこそこそ嗅ぎまわってやがるんだ!?」


 そういえば、私はまだ隆介と和解していなかったのだ。

 しかし私は、突如として胸の中にわきかえった激情を抑制することができなかった。


「あなたたちのことが、心配だからだよ! お母さんが亡くなったのが悲しいのはわかるけど、でも……家族同士でいがみあって、何になるっていうの? こんなの……こんなの、由梨枝さんだって悲しむよ!」


 隆介は、ぎょっとした様子で身を引いた。


「なんだよ……なんでお前が、泣くんだよ?」


「うるさい! 全部、あんたのせいじゃん!」


 そうして私は畳に突っ伏し、人目もはばからずに泣き声をあげることになってしまった。

 自分でも、どうしてこんなに取り乱してしまっているのか、さっぱりわけがわからない。ただ私は激情に駆られる彼らの姿を見ているだけで、激しく心をかき乱されてしまったのだった。


 日記帳の内容で責めたてられただけで、隆介は静夫を殺してしまった。

 日記帳を目にしただけで、孝信は隆介を殺してしまった。


 だけどきっと、本来の彼らはそんな凶悪なことのできる人間ではないのだ。

 その事実を、おそらくは祖母の肉体が記憶していた。だから私は、そこまで追い詰められてしまった彼らのことが、あまりに痛ましく、不憫に思えてならないのかもしれなかった。

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