第四の死
1
……タスケテ……
誰かの悲痛な声を聞きながら、私の意識はセピア色の奔流から浮上した。
それからたちまち、強い日差しを手足に感じる。
空は果てしなく青く、入道雲は作り物のように立体的で――白いワンピースを着込んだ私は、静夫とともに川沿いの道を歩いているさなかであった。
「……千夏ちゃん、大丈夫? なんだか、ぼうっとしてるみたいだけど……」
麦わら帽子をかぶった静夫が、心配そうに問うてくる。
私は足を止め、深く息をついてから、そちらに笑いかけてみせた。
「大丈夫だよ。……ところで今日って、八月十日だったっけ?」
「うん。そのはずだけど……」
「今、何時ぐらいだろう? 十時を少し過ぎたぐらいかな?」
「待ち合わせが十時だったから、そうだろうね。……千夏ちゃん、本当に大丈夫?」
「大丈夫!」と応じながら、私がもういっぺん笑顔を届けると、静夫もはにかむように微笑んだ。
やはり私たちは、野々宮のお屋敷を目指している途上であったのだ。
話が早くて助かるが、その反面、作戦を練る時間は限られてしまう。私は残り一時間足らずで、行動の指針を定めなければならないのだった。
(きっとあの吉岡ってお医者が、すべての元凶なんだ。あいつを殺人犯として告発できれば……きっと野々宮家も安泰のはずだ)
なんの証拠もなかったが、私は吉岡医師が野々宮由梨枝を殺したのだろうと確信していた。それぐらい、さっきの吉岡医師は不吉で禍々しい存在に思えてならなかったのだ。
(そうしたら、由梨枝さんが自殺したっていう歴史も変わっちゃうかもしれないけど……そんなの、私の知ったことじゃない。あんなやつを、野放しにしておけるもんか)
それに私は、ようやくセピア色の奔流の中で響く何者かの声をきちんと聞き取ることができていた。
タスケテ……あの悲痛な声は、そのように訴えていたのだ。
あれは私の祖母、蓮田千夏の声なのではないだろうか?
吉岡医師によって無茶苦茶にされてしまった野々宮の家を、なんとか助けてくれないか――祖母は、そのように願っているのではないだろうか?
まあ、何がどうでもかまいはしない。私は私自身の意思で、吉岡医師の妄念を打ち砕きたいと願っていた。
(あいつはあんなに、静夫くんに執着してたんだ。それで、邪魔な家族を始末しようとしてるんだ。自分は由梨枝さんと不倫してたくせに、なんて勝手な男なんだろう)
私の原動力は、怒りの念である。
隆介や孝信に殺されたときは、こんな感情を覚えることもなかったのだが――あの男だけは、許せなかった。あんな虚ろな笑みを浮かべながら人を殺そうとする存在が、おぞましくてしかたがなかった。あれに比べれば、まだしも隆介や孝信には同情の余地があるように思えてならなかった。
(けっきょくあの二人は、吉岡のやつに踊らされてただけなんだ。だからきっと……あんな情けない顔で人を殺すことになったんだろう)
私がそんな思いをたぎらせている間に、野々宮のお屋敷に到着してしまった。
前回と同じように敷石を踏み越えて、ガラス戸の玄関をくぐる。古びた廊下が鳴き声をあげないようにそろそろと歩を進めていくと、やがて仏間に到着した。
私は意識的に歩調をゆるめて、前回よりもしっかりと室内を覗き見る。
やっぱり仏壇の後ろから、日記帳の端の部分が覗いたりはしていなかった。
吉岡医師がやってくるまで、あと一時間足らず――せいぜい三十分か四十分ぐらいだろう。
書庫まで案内された私は、あるはずもない日記帳を探しながら、懸命に思案を巡らせることになった。
(まず、日記帳は私が手に入れる。そこまでは当然として……その後は、どうするべきだろう)
私が日記帳を持ち去った後、吉岡医師は孝信に余計な言葉をかけてしまったのだと言っていた。どうして隆介が由梨枝を夜中に呼び出したのか、その理由を口走ってしまったのである。日記帳を発見したはずの孝信が大人しくしていたからといって、ずいぶんお粗末な失敗をしでかしたものであった。
(奥さんと不倫してたなんてことを打ち明けたら、まずはそっちに怒りが向くに決まってるのにね。どうしてあいつは、そんな馬鹿な真似をしたんだろう)
やはりそれは、日記帳の内容に真実味を持たせるためであったのだろうか。
隆介は母親と吉岡医師の不実な関係に気づいて、それを本人に問い質すべく、夜中に母親を呼び出した。そのさなかに逆上して、母親を川に突き落としてしまった――というのが、吉岡医師の語っていた「真相」であったのだ。
だけど私は、まずその話から疑ってかかっていた。
由梨枝を殺したのは隆介ではなく、吉岡医師であると、そのように信じているのである。
そうすると――私は日記帳の内容そのものを疑うべきであるのかもしれなかった。
(他のページはちゃんと読んでないけど、あれは本当に由梨枝さんの書いたものだったのか……もしかしたら、あのページだけ吉岡が書き加えたとか?)
最後の日記は後半部分だけひどく字が乱れていたので、別人が書き加えたという可能性は大いにありえるだろう。ただ、前半部分にも色々と不穏な内容が書き記されていたはずであった。
(だからまあ、あのページだけまるまる吉岡が書き加えたって考えるのが、一番妥当なんだけど……この時代の筆跡鑑定って、どんなレベルなんだろう。最終的には警察に押収されることだってありえるんだし、日記帳に文章をつけ加えるなんてリスクが高すぎだよね)
ただ私は、ひとつの疑念を抱いていた。
今にして思うと、あの日記帳の最後のページに書かれていた文章は、あまりに芝居がかっているように感じられたのだ。
隆介がノイローゼだとか、包丁が一本なくなっていただとか、隆介にとって都合の悪いことばかりが入念に書き記されている。隆介を陥れるために捏造されたのだというほうが、よっぽど自然に思えるぐらいであった。
(だったらいっそ、隆介くん本人に確認してみるとか? ……でも、あの内容が事実だったら、隆介くんが取り乱しちゃうだろうしなぁ)
あの日記帳に書かれていることはすべて真実で、隆介と由梨枝が密談を終えた後、吉岡医師が犯行に及んだという可能性もあるのだ。それに――あまり考えたくないことだが、由梨枝を殺したのはまぎれもなく隆介で、吉岡医師はその状況を利用しているだけであるという可能性も存在するのだった。
(でも、不自然な点が多いんだよね。あの日記が書かれたのは、少なくとも夕飯の後なんだから……その日の内に吉岡が目にする機会なんて、なかなかないはずだ)
そこで私は、すぐ目の前に大きなヒントが転がされていることに気づいた。
「ねえ、静夫くん。吉岡先生って、夜にも往診に来たりするの?」
無言で本棚をあさっていた静夫は、「え?」とけげんそうに振り返ってくる。
「夜は……僕の具合がよっぽど悪くない限り、吉岡先生を呼ぶこともないけど……ここ数ヶ月は、そんなこともなかったはずだよ」
「それじゃあ、一緒に夕飯を食べたりとかは?」
「父さんたちが嫌がるから、そんなことありえないよ。……どうして千夏ちゃんは、そんなことを気にするの?」
静夫の目が、たちまち暗く陰っていく。私がおしゃべりの相手をしてくれないものだから、静夫はただでさえ沈みがちであったのだ。私は罪悪感をかきたてられながら、「ごめんごめん」と笑ってみせた。
「私、吉岡先生とはほとんど面識がないからさ。でも、静夫くんは仲良くしてるんでしょ?」
「うん。……吉岡先生は、優しいからね。僕と母さんは、ずっと仲良くしていたよ」
暗い眼差しのまま、静夫はそう言った。
そういえば――前回も、静夫は同じ言葉を口にしていたはずだ。そしてそのときも、静夫は暗い声をしていたのだった。
(もしかして……静夫くんも、母親と吉岡の関係に気づいていたとか?)
私はそのように考えたが、すぐに自分で打ち消した。前回も前々回も、静夫は心から吉岡医師を信頼しているような素振りであったのだ。いかに家族仲がうまくいっていなくとも、母親の不倫相手をそうまで信頼できるとは思えなかった。
(でもやっぱり、その夜も吉岡はこのお屋敷にいたわけじゃないんだ。それなのに、どうやって日記帳を読んで、それを持ち去ることができたんだろう。たとえ玄関に鍵が掛かってなくても、家族が勢ぞろいしてる時間帯に忍び込むのは難しいだろうし……)
それにそもそも、隆介が由梨枝をお堂に呼び出したというのは、突発的な出来事であったのだ。同じ家で暮らしているわけでもない吉岡医師にそんなことを察知することはできないし――それを察知できなければ、日記帳を盗み出そうなどという考えにも至らないはずだった。
(そういう部分で整合性が取れないと、あいつのやったことを暴きたてることはできないんだ。こんな短い時間で、そんな気のきいた答えをひねり出せるかなぁ)
私の中に、じわじわと焦燥感がたちのぼってくる。
あの日記帳の内容の真偽がどうあれ、孝信にだけは決して見せてはいけないのだ。前回と同じ手順で私が日記帳を入手したならば、その後はどのように扱うべきか。まずはそれを早急に考えなければならなかった。
(……あ、そうだ!)
そこで私は、天啓のように閃いた。
私があの日記帳を確保して、最後のページを破り取った上で孝信に手渡したら、どうなるだろうか?
自殺した日のページだけがあからさまに破られていたなら、孝信は大騒ぎするに違いない。そしてその騒ぎが吉岡医師の耳に入れば、余計なことを口走ったりもしなくなるはずだ。隆介が夜中に母親を呼び出したという一件が隠蔽されれば、吉岡医師が自分の不実な行いを打ち明ける理由も失われるわけである。
そうすれば、邪魔な家族を一掃しようという吉岡医師のたくらみは、とりあえず防がれることになる。
きわめて消極的なやり口だが、それでもう誰の血も流されることはなくなるはずであった。
(由梨枝さんの死の真相はうやむやにされて、家族仲もこれまで通り険悪なまま、か。それだったら、私の知ってる歴史とも一致するよね)
そこまで思い至った私は、愕然とした。
もしかしたら、祖母の蓮田千夏はそのように振る舞ったのではないか、と――そんな風に思えてしまったのだ。
(由梨枝さんは、自殺するような人じゃない……お祖母ちゃんは母さんに、そう言ってたんだ)
祖母はすべてを知った上で、真実を闇に葬ったのかもしれない。
そしてそれを後悔したまま、若くして生命を落とすことになったのかもしれない。
それで私に、「……タスケテ……」と救いを求めることになったのだろうか?
それはまったく根拠のない、私の勝手な妄想に過ぎなかったが――しかし、私にとってはきわめて真実味のある妄想であるように思えてならなかったのだった。
(だったらそれは、最後の手段だ。私は、あがけるだけあがいてやる)
私がそんな風に考えたとき、廊下の軋む音がした。
そして――許されざる男が、書庫を覗き込んできたのだった。
「やあ。話し声がすると思ったら、やっぱり静夫くんだったのか。隆介くんや孝信さんじゃなくて、よかったよ」
吉岡医師は、私が知っている通りの言葉を発した。
そしてその顔は、やっぱり私が知っている通りの温かい微笑をたたえていたのだった。
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