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その日記を読み終えた後、私はしばらく呆然としていた。
日記の後半部分は、ひどく震えた字で書かれていた。野々宮由梨枝も、それだけ動揺していたのだろう。そして、その文字に込められた恐怖と困惑の思いが、そのまま私の心を脅かしているようだった。
その日の夜、由梨枝は隆介から川沿いのお堂に――あの、隆介が静夫と私を殺すことになった場所まで呼びつけられていたのだ。
そしておそらく翌日に、川の下流で溺死体として発見されたのだろう。明日が初七日であるのなら、それで日付はぴったりと合致するはずだった。
もちろんそれだけの事実で、隆介を犯人と断定することはできない。
由梨枝の死は自殺と見なされているのだから、包丁による刺し傷なども存在しなかったはずだ。
しかし、隆介がわざわざ包丁などを持参したならば、最初から由梨枝を傷つけようという意思があったことになる。
そして由梨枝は、実際に死んだのだ。
包丁で脅して、川に落としたのか――あるいは力ずくで、川に突き落としたのか。隆介ぐらい立派な体格をしていれば、非力な女性を相手に後れを取ることはないはずだった。
だから、この日記帳を目にした静夫や孝信は、隆介が由梨枝を殺したのだと信じて疑わなかったのだ。
だから彼らはあんなにも、狂乱することになったのだ。
煎餅布団にへたり込んだ私は日記帳の最後のページを開いたまま、とてつもない虚脱感にとらわれてしまった。
頭の中には、隆介の姿がぐるぐると渦巻いている。
初めて出会ったときの、苛立ちに満ちた顔。
静夫に母殺しの罪を弾劾されて、狂気と憎悪に歪む顔。
私を絞め殺したときの、泣き笑いみたいな顔。
そして――羞恥に頬を染めながら、私の腕を慌てて離したときの顔。
最後に浮かんだその顔が、私の心臓を圧迫していた。
あんなに人間くさい表情を隠し持っていた隆介が、実の母親を殺害していたなんて――私にはとうてい信じられなかったし、信じたくもなかったのだ。
(でも別に、由梨枝って人は包丁で刺し殺されたわけじゃないんだから、何かの間違いで川に落ちただけなのかも……)
私はそんな風に考えたが、それで気持ちを静めることはできなかった。
何にせよ、静夫に問い詰められた隆介は我を失って、実の弟と目撃者の私を絞め殺したのだ。
あれは決して、まともな人間の目つきではなかった。
隆介が別件で精神を病んでいたというのなら――どんなに善良な素顔を隠し持っていたとしても、ふとしたはずみで狂気を爆発させてしまうのかもしれなかった。
(でも……)
私は、何かが引っかかっていた。
小さからぬ違和感が、混乱しきった心の片隅で蠢いている。
日記帳を閉ざした私は、まぶたも閉ざしてその違和感の正体を探ろうとした。
心が乱れに乱れているために、なかなか考えがまとまらない。
ともすれば、ふっと意識が遠のきそうになってしまう。
しかし私は、心をかき乱す激情をひとつずつねじ伏せていき――ついに、その答えを見出すことができた。
(この日記帳は、どうしてあんな場所にあったんだろう?)
由梨枝の日記帳は、仏壇の裏に落ちていた。
最初からあの場所にあったのなら、今日までに誰かが見つけていたはずだ。由梨枝は明日が初七日だという話であるのだから、静夫も隆介も孝信も何度となく仏間に足を運んでいるはずであった。
だから私は、吉岡医師があの場所に日記帳を置いたのではないかと疑っていた。
それが正しい推理であるのかどうか、私はもう一度検証してみることにした。
まず、私が野々宮のお屋敷に足を踏み入れた時間、あの場所に日記帳はなかった。開かれていたふすまから仏間を覗き見した私は、それをはっきりと覚えている。日記帳の表紙は鮮烈なまでに赤いため、それを見落とすことなどありえないのだ。また、私は最初から赤い表紙の日記帳を探し出そうという意欲に燃えていたのだから、なおさらであった。
よってあの日記帳は、私と静夫が書庫にこもっている間に、誰かがこっそりとあの場所に置いていったことになる。
だとすると、静夫に犯行のチャンスはない。彼はずっと私と一緒にいたのだから、それは確実だ。静夫が吉岡医師とともに書庫を出たときも、私は廊下まで出て見送ったのだから、仏間に足を踏み入れるチャンスは皆無であった。
では、父親の孝信はどうだろうか。
私たちは書庫のドアを閉めていたため、彼がこっそり足音を忍ばせていたなら、奥の寝室から仏間に向かうことは可能である。
しかし孝信には、そのような真似をする理由がない。
彼があの日記帳を目にしたならば、酔った勢いで隆介を撲殺するはずであるのだ。そんな彼が、あんな場所に日記帳を放置する理由はないはずだった。
では、隆介はどうか。
私がお屋敷を出ようとした際、玄関口で彼と出くわすことになった。だが、その前にこっそり仏間に忍び込むことは、もちろん可能だろう。
だけどやっぱり、彼にもそのような真似をする理由がない。
あの日記帳は彼にとってきわめて不都合な存在であるのだから、あんな場所に放置する理由がないのだ。たとえ中身に目を通していなかったとしても、仏壇の裏にそっとたてかけておく意味など存在しないはずだった。
では、吉岡医師である。
彼は呼び鈴も鳴らさずにお屋敷に入ってきて、書庫に姿を現した。その行きがけに仏間に忍び込むことは、もちろん可能だ。
では、どうしてそのような真似をする必要があるのか?
そこで私の頭に思い浮かんだのは、仏間で出会った孝信の言葉であった。
「……普段は正午ぴったりに手を合わせるんだが、今日は何となく部屋にいたくない気分だったんでな」
孝信は毎日、決まった時間に仏間で手を合わせているのである。
そしてあの日記帳は、明らかにわざと中途半端に隠されていた。
つまり、あれは――孝信に日記帳を発見させるための手管であったのだろうか。
孝信が日記帳を発見したならば、どうなるか。私はすでに、その答えを知っている。孝信は狂気と憎悪にとらわれて、隆介を撲殺してしまうのだ。
まあそれは、私だけが知る結果論であるわけだが――孝信があんな日記帳を目にすれば、隆介に疑惑の目を向けるに決まっている。逆に言うと、それ以外の目的で孝信に日記帳を発見させる必然性はないように思われた。
(つまり、孝信さんと隆介くんを仲違いさせたかったってこと……? でも、吉岡先生がどうして……?)
そこまで考えて、私は自分の妄想が根本的な欠落を抱えていることに思い至った。
別に吉岡医師でなくとも、仏間に忍び込むことは可能であるのだ。あのお屋敷も玄関に鍵などは掛けていなかったのだから、その気になればいつでも誰でも侵入できるはずだった。
(はっきりしてるのは、野々宮家の三人ではありえないってことだけか。でも、どこの誰がそんなことを……あの日記を読んで、隆介くんが母親を殺したんだって疑ったんなら、それこそ警察にでも渡せばいいだけだし……)
不毛な推理に疲れた私は、ひとつ息をついてからまぶたを開いた。
いったいどれだけの時間、埒もない想念にひたっていたのか。時間の感覚はすっかりなくなっていたが、首や肩が石のように強張ってしまっていた。
この後は約束通り、静夫のもとに向かうべきなのだろうか。
もう日記帳は手に入れたのだから、私が静夫を気遣う理由もなくなってしまったのだが――しかしそうすると、今後は何をどのように振る舞うべきか、まったく道筋が立てられなかった。
(やっぱりこの日記帳は、処分するしかないのかな。野々宮家の誰かに見られたら、ロクでもないことになるに決まってるし……)
私は溜息をこらえながら、目覚まし時計の時刻を確認しようとした。
そして、慄然と身をすくませることになった。
風にそよぐレースのカーテンに、黒い人影が浮かびあがっており――その隙間から、虚ろに曇った何者かの目が覗いていたのだ。
「やっぱり……君がその日記帳を持ち帰っていたんだね」
その何者かが、骨ばった指先でカーテンをかき分けた。
それは、吉岡医師だった。
その目は何の光も宿しておらず、ぽっかりと空いた黒い穴のように無機的である。
そしてその痩せ細った顔には、赤いしずくが点々と散っていた。
「何故そんな真似をしたんだい……? おかげで、計画が無茶苦茶だよ……僕は……僕は、静夫くんを悲しませることになってしまったじゃないか……」
老人のようにしわがれた声でつぶやきながら、吉岡医師は窓の横木に手をかけて、寝室の中に踏み入ってきた。
その白いシャツの胸もとにも、赤いものが飛散している。
そして吉岡医師は、同じ色合いに濡れた医療用のメスを握りしめていた。
「どうして……」と、うわごとのように言葉をこぼしながら、私は指一本動かすことができない。そんな私を見下ろしながら、吉岡医師は不気味に口の端を吊り上げた。
「どうしては、こっちの台詞だよ……孝信さんがその日記帳を読めば、きっと隆介くんを始末してくれただろうに……でも、君が余計な真似をしたおかげで、このざまだ……僕は、殺人犯になってしまったよ……」
「だ……誰を殺したの……?」
「孝信さんだよ……日記帳を見つけたはずの孝信さんがずっと大人しくしているから、僕はついつい余計なことを口走ってしまったんだ……きっと隆介くんは、僕と由梨枝さんの関係に気づいてしまったんでしょう、ってね……」
私は今度こそ、救いようのない悪夢に突き落とされたような心地であった。
真っ黒な目で、口を半月の形に吊り上げて笑う吉岡医師の顔が、あまりに恐ろしかったのだ。
「もうわかっただろう……? 僕は由梨枝さんと、密通していたんだ……それに気づいた隆介くんが、由梨枝さんをお堂に呼び出して……それで、由梨枝さんを殺してしまったんだよ……隆介くんは潔癖な人間だから、母親の不貞を許すことができなかったんだろう……静夫くんがどれだけ苦しんでいるのかも知らずにね……」
「静夫くんが……?」
「静夫くんは、あの家庭の歪みを一身に背負っていたんだ……だからこれは、静夫くんを苦しめていた者たちに対する、罰なんだよ……由梨枝さんは隆介くんに殺され、隆介くんは孝信さんに殺され、孝信さんは殺人犯として投獄され……それですべては丸く収まるはずだったのに……君がすべて台無しにしてしまったんだ……」
「何を……何を勝手なことを言ってるんだよ!」
私は無意識の内に、そんな風に叫んでいた。
「あんたはその由梨枝さんって人と不倫してたっていうんでしょ? それなら、あんただって同罪じゃん! 何を他人顔で、勝手なことを言ってるのさ! 静夫くんを苦しめてるのは、あんただ!」
「この僕が、静夫くんを苦しめてるだって……? 事情も知らずに、ずいぶん勝手なことを言ってくれるね……」
吉岡医師の唇は、いよいよ不自然な形に吊り上がっていく。それに圧迫された目もとの皮膚が、ぴくぴくと引き攣っていた。
しかし私は、恐怖ではなく激甚な怒りにとらわれていた。吉岡医師の言い草が、腹立たしくてならなかったのだ。
「あんたこそ、日記帳を利用して人殺しをさせようだなんて、なに様なんだよ! だいたい本当に、隆介くんが母親を殺したの? どうしてあんたが、そんなことを知ってるのさ! それに……どうしてあんたが、由梨枝さんの日記帳を持ってたの?」
「…………」
「何もかもが、おかしいよ! もしかしたら……由梨枝さんを殺したのも、あんたなんじゃないの?」
「……どうせ僕は、殺人犯だ。何を疑われても、痛くも痒くもないよ」
吉岡医師の目が、いっそう虚ろになっていく。
それは本当に、底なしの深淵そのものだった。
「君は、危険な存在だ……静夫くんは、君に恋をしているようだけど……君のような人間を、静夫くんのそばには残しておけないね……」
「勝手にしなよ! 次は……次こそは、絶対にあんたのやったことを暴いてやるからね!」
「次は、ないよ……」
吉岡医師が、私の上に覆いかぶさってきた。
その手に握られた鋭い刃物が、私の咽喉を真横にかき切る。
私は焼けるような痛みに苛まれながら、それでも意識がセピア色の奔流に呑み込まれるその瞬間まで、許し難い相手の不気味な笑顔をにらみ続けてみせた。
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