幕間

終わりと始まり

 セピア色の奔流の中で、私は誰かの歌声を聞いていた。

 悲哀にまみれた私の意識を、そっと包み込んでくれるような――とても懐かしくて、とても温かい歌声だ。


 私はねばねばと絡みついてくるセピア色の粘液を振り切って、その歌声の聞こえる方向を目指し――そして、水面から顔を出すようにして、現実世界に浮上したのだった。


「あら、ようやくお目覚め? 母親に運転をまかせて居眠りざんまいとは、いいご身分だねぇ」


 五感が復活すると同時に、皮肉っぽい響きを帯びた声が耳の中に飛び込んでくる。

 私がぼんやりそちらを振り返ると、母親である美沙子の苦笑を浮かべた横顔が待ちかまえていた。


 私が座っているのは、母が運転する軽自動車の助手席だ。

 おそらくは高速道路を疾走しているさなかであるのだろう。助手席のシートは頼りなく振動しており、無理を強いられているエンジンが不平を訴えるようにうなりをあげていた。


「母さん……今、何か歌ってた?」


「そりゃあ唯一のしゃべり相手が眠りこけてたら、歌でも歌うしかないでしょ。ただでさえ、高速ってのは単調で眠くなるもんなんだからさ」


 母は面白くもなさそうに笑いながら、荒っぽくステアリングを切った。

 タンクトップにショートパンツという、露出の多い格好だ。そして私はTシャツにサブリナパンツにお気に入りのデッキシューズといういでたちであり――すべてが、遠い記憶の通りだった。


「私たち……どこに向かってるの?」


「はあ? あんた、出発前から寝ぼけてたの? 今日は実家で遺品整理だって言ったでしょ。あの忌々しいクソジジイも、もうじきくたばるはずだからさ」


「クソジジイって、誰?」


 私が勢い込んで尋ねると、母の横顔が初めて陰った。


「クソジジイってのは、あんたの祖父ちゃんの兄弟だよ。名前は、野々宮静夫っていって……あたしらが貧乏暮らしをすることになった、元凶さ」


 やはり、それが真実であったのだ。

 私はとてつもない虚脱感に見舞われながら、シートに深くもたれることになった。


「葉月。いい機会だから、あんたにも全部話しておくよ。あんただってもう十六歳になったんだから、すべてを知っておくべきだろうからね」


 令和の時代に戻った私は、母の運転で野々宮家に向かう時点から人生をやりなおすことになったのだ。

 そして前回も、母はこんな調子で暗鬱なる半生と野々宮家のお家事情を語り出したのだった。


「まず、あたしに実家なんてもんがあったことに面食らったでしょ? 今までそれを秘密にしていたのは……ま、楽しい話がひとつもなかったからなんだよね」


 私が虚脱していることに気づいた様子もなく、母はそんな風に言葉を重ねた。


「これはさっきも話したけど、あたしは六歳の頃に交通事故で両親を亡くしてるんだよ。それで他には頼れる親類もなかったから、母方の遠縁を辿って東京に出ることになったわけだけど……頼れない親類なら、ひとりだけ残されてたってわけさ」


「それが……静夫っていう人?」


「そう。その静夫ってやつは、人殺しなんだ」


 母の言葉は思わぬ鋭さでもって、私の胸に食い入ってきた。

 では――こちらの世界でも、歴史は改変されることになったのだ。


「そいつはまだ中学生だった頃、家族の目の前で主治医のお医者さんを殺しちゃったんだよ。年齢が年齢だったんで、刑務所じゃなく矯正施設に放り込まれたって話だけど……けっきょく、矯正はできなかった。それで、鉄格子つきの病院に収容されることになったわけだね」


「え……それで、どうなったの?」


「どうにもならないまま、四十年さ。そんな役立たずの面倒を見るために、実家の田畑はみんな売り払うことになっちゃったの。あとに残されたのは、でかいだけが取り柄のボロ屋敷だけさ」


 そのように語る母の言葉は、見えない重りのように私の心を圧迫していった。


「どうして……どうして、そんなことになっちゃったんだろう?」


「さあね。ただ、そのクソジジイがトチ狂う数日前に、母親が自殺したって話だから……それが何かの引き金になったのかねぇ。施設や病院なんかでは、その母親を殺したのも自分だってわめいてたらしいよ」


 では、そちらの一件はけっきょく闇に葬られてしまったのだ。

 証拠があがらなかったのか、それとも隆介たちが隠匿したのか――どちらにせよ、私の虚しい気持ちに変わりはなかった。


「ひいお祖父ちゃんは……どうなったんだろう?」


「ひいお祖父ちゃん? 父方のほうも母方のほうも、あたしが産まれる頃には亡くなってたよ。母方のほうなんかはあんたの祖母ちゃんが小さかった頃に亡くなってるらしいから詳細もわからないけど、父方のほうは……たしか、肝臓ガンだね」


 野々宮孝信は、アルコール中毒ではなくガンで亡くなることになったのだ。

 彼のぎこちない笑顔を思い出すと、私はどうしようもなく胸が詰まってしまった。


「その父方のひいお祖父ちゃんは……お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの結婚する姿を見届けることができたのかなぁ?」


「あんた、おかしなことを気にするんだね」と、母はまた皮肉っぽく笑った。


「結婚式の写真には、父方のひい祖父ちゃんと母方のひい祖母ちゃんが写ってたよ。そのひい祖母ちゃんも、あたしが産まれる前に亡くなってるけどね」


「そっか」と答えながら、私は目もとに浮かんだものをそっとぬぐうことになった。

 車は高速から二車線の一般道に出る。そこに広がるのは、広大なる山林を背後に控えた見覚えのある風景であった。


「でね、その静夫ってクソジジイもガンが見つかって、普通の病院に移されたって話なんだよ。もともと体が弱ってたから、今日か明日にでもくたばる見込みなんだってさ。そうしたら、あの馬鹿でかい屋敷もみんなあたしのもんだから、お宝でも眠ってないか確認しておこうと思ったわけよ」


 そんな風に語りながら、母はぐいぐいとアクセルを踏み込んだ。

 市街地を突っ切ると、とたんに緑が深くなる。またあの朽ち果てかけた野々宮のお屋敷に向かうのかと考えると、私は憂鬱でならなかった。


 蓮田千夏も野々宮隆介も、けっきょく交通事故で亡くなってしまった。

 野々宮孝信も、蓮田千夏の母親――たしか、蓮田節子だったか。その両名も、病気で早世してしまったのだ。

 ただ一点、千夏と隆介が結婚したのちもなお屋敷に居座っていたはずの静夫だけが、殺人の罪を背負って収容されることになった。私の知る歴史と異なるのは、それだけであった。


「それじゃあ……母さんは、その静夫って人にも会ったことがないんだね?」


 私がそのように問いかけると、母は顔をしかめながら「ふん」と鼻を鳴らした。


「数年にいっぺんだけ、窓の外からあの忌々しい面を拝見してたよ。ま、闘志をたぎらせるためのカンフル剤みたいなもんかな。……どうせ墓参りのついでだしね」


「墓参り?」


「そう。あんたには内緒にしてたけど、死んだ両親に手を合わせないわけにはいかないでしょ」


 車が、川沿いの道に出た。

 私が蓮田千夏として、野々宮静夫とともに歩いた道だ。


 しかし母の運転する車は、野々宮のお屋敷を素通りした。

 私は思わず逆側の窓に向きなおったが、古びた橋のある場所に差し掛かっても、その向こう側にトタン屋根の家屋は存在しない。そちらはこの四十年の間に撤去されてしまったようだった。


 そこからさらに少しばかり走ったところで、車はようやく停止する。

 そこは――かつて私が静夫と並んで腰をかけたことのある、石段の前であった。


「この上が、お寺だよ」


 車を降りた母は、真夏の日差しに顔をしかめながら石段をのぼり始めた。

 私は溜息をこらえながら、その後を追う。体が妙に重く感じられるのは、まだ蓮田千夏の健康な肉体の記憶が心に残されているためなのかもしれなかった。


 十段ばかりの石段を踏み越えると、そこには確かに寺と思しき建造物が建っている。さらにその向こう側には、いずれも古びた墓石が立ち並んでいた。


 母は迷う素振りもなく、砂利の道を突き進んでいく。

 その最果てに待ち受けていたのが、野々宮家の墓であった。


(ここに……お祖母ちゃんも隆介くんも孝信さんも眠ってるのか)


 私が得も言われぬ感慨にとらわれていると、頭にぽんと温かいものが置かれた。母が、私の頭に手の平を置いたのだ。


「あんたにクソジジイの話をしたくなかったから、こんなお墓があることも内緒にしてたけどさ。どうか祖父ちゃんと祖母ちゃんのために、手を合わせてあげてよ」


 私が「うん」と応じると、母はきょとんと目を丸くした。


「あれ……予想外のリアクションだね。あんた、子供あつかいは嫌なんじゃなかったっけ?」


 そんな風に言いながら、母は私の頭を撫で回してきた。

 とたんに羞恥心を刺激された私は、「やめてよ」とその手を振り払う。

 母は、どこかくすぐったそうな顔で笑った。


「おや、蓮田さん。今年は早いお参りですな」


 と、やわらかい声が背後から投げかけられてくる。

 母と一緒に振り返ると、そこには作務衣を着た老人が立っていた。


「実は、今後のお墓の管理に関して、ご相談があったんです。ちょっとこちらでお話をうかがえますかな?」


「もしかして、あのクソジジイがくたばった後のこと? あんなやつ、絶対に母さんたちと同じ場所では眠らせないよ!」


「まあまあ……お時間は取らせませんので」


 それだけ告げて、老人はさっさと建物のほうに向かってしまう。

 母は眉間に皺を刻みながら、私の肩を小突いてきた。


「あたしはちょっと話をつけてくるから、あんたはここで待っててね。ついでに桶と柄杓を借りてくるからさ」


「うん、わかった」


 私はその場に屈み込んで、黒ずんだ墓石をじっと見つめた。

 やっぱり、現実感がない。隆介や孝信がもう三十年以上も前に亡くなってしまっているなんて――そんなことが、容易く実感できるわけもなかった。


(お祖母ちゃん……お祖母ちゃんは、けっきょくどうしたかったの? 静夫くんは、罪を償うことになったけど……でもそれは、由梨枝さんじゃなく吉岡を殺した罪なんだよ? お祖母ちゃんが辿った歴史では、静夫くんが吉岡を殺したりはしなかったんでしょう?)


 であれば、吉岡医師は私がおかしな介入をしたために生命を落としたことになる。

 そのように考えると、私はますます暗澹たる心地になってしまった。


 静夫は隆介に殺され、隆介は孝信に殺され、孝信は吉岡医師に殺され、吉岡医師は静夫に殺され――そうして死の連鎖がひと巡りしたところで、私は現世に引き戻されることになった。

 この死の連鎖に、いったいどのような意味があったのか。

 どれだけ頭をひねっても、正しい答えなど見いだせそうになかった。


(うちの母さんも、けっきょく静夫くんを恨んだままだし……私の生活は、何ひとつ変わってないよ。お祖母ちゃんは、これで満足なの?)


 気づくと私は、親指の爪を噛んでしまっていた。

 どうしようもなく気分がふさぐと出てしまう、私の悪い癖だ。


 あちらの時代で蓮田千夏として過ごしていたときには、この子供じみた癖が出ることもなかった。

 祖母たる蓮田千夏の強靭な肉体に支えられて、私は何とか正しい運命をつかみ取ろうと、あがけるだけあがいたつもりであるのに――私の胸は、虚脱感でいっぱいだった。


 そうして私が溜息をつきながら、墓石の前で身を起こそうとしたとき――

 背後で、砂利を踏み鳴らす音が響いた。


「千夏ちゃん……髪がのびたんだね」


 私は、冷たい指先に背骨を引き抜かれたような心地であった。

 そうして半ば無意識の内に、のろのろと背後を振り返ると――そこには、薄気味の悪い老人が立ちはだかっていた。


「それに、髪を茶色く染めちゃったんだね……僕、千夏ちゃんの黒い髪が好きだったのに……」


 その老人は、幼子のようにあどけない口調でそんな風に言いつのった。

 私とほとんど背丈が変わらないぐらいの、小柄な老人である。

 その痩せ細った体は、ライトブルーの病院着に包まれている。はだけた胸もとからは、あばらの浮いた胸もとが覗いていた。


 その胸もとも顔も手足も、洞窟にひそむ軟体動物のように色素が薄い。顔は頭蓋骨に生皮を張りつけたように肉が薄く、耳の脇にだけ茶色の髪がざんばらにのびていた。

 そして――その目は双つの黒い穴のように何の光も浮かべておらず、干からびた唇は半月の形に吊り上げられていたのだった。


「しずお……くん……」


 私が呆然とつぶやくと、その老人はいっそう不気味な感じに口の端を吊り上げた。


「そう、僕だよ……やっと窮屈な場所から出られたんだ……ずっと会いたかったんだよ、千夏ちゃん……」


 老人が、私のほうに近づいてきた。

 砂利の地面を踏みしめる足は素足で、そしてその右手には何か赤くきらめくものが握られている。

 それは鮮血にまぶれた、ガラスの破片であるようであった。


「ずっとずっと会いたかった……ずっとずっと寂しかったよ……どうして僕を、あんな場所に閉じ込めたの……? 僕は……僕にこんな人生を押しつけた両親を始末しただけなのに……」


 その場にへたり込んだ私は、迫り来る老人から逃げるために後ずさろうとした。

 しかし、手足に力が入らない。私は勇敢で健康な蓮田千夏ではなく、臆病で無力な蓮田葉月であるのだ。


「まだこの前の返事を聞いてなかったよね……今からでも、兄さんじゃなく僕を選んでくれないかな……? そうしたら、こんな僕でも人間らしく生きられると思うんだ……」


 老人は虚ろに笑いながら、じわじわと私のほうに近づいてくる。

 どこか遠くで、パトカーのサイレンが鳴っているような気がした。


「やめて……おねがいだから、こっちにこないで……」


 私は別人のようにかすれた声を振り絞った。

 老人の目は、いっそう暗い深淵と化す。そんな目で見つめられるだけで、私は魂を吸い取られてしまいそうだった。


「やっぱり千夏ちゃんは、隆介兄さんを選ぶんだね……僕を見捨てて、自分だけ幸せになるつもりなんだね……」


 老人が、血に濡れたガラス片を振り上げる。

 そのとき――遠い場所から、甲高い怒号があげられた。


「あんた、何をしてるのさ! 葉月に近づくんじゃないよ!」


「か……母さん!」


 私は気力をかき集めて、老人の脇をすり抜けようとした。

 しかし、震える両足が言うことを聞かず、ぶざまに倒れ込んでしまう。


 何メートルもの先に、母の頼もしい姿が見えた。

 母は、鬼の形相でこちらに駆けつけようとしている。

 私はすべての思いを込めて、そちらに手を差し伸べてみせた。


「……タスケテ……」


 それと同時に、私の首筋に熱い痛みが弾け散った。

 四十年の時を経て、私は野々宮静夫に殺されてしまったのだった。

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