第三の死
1
………スケテ……
悲哀に満ちた何者かの叫び声に、目覚まし時計のベルの音が重ねられた。
セピア色の濁流に翻弄されていた私の意識は、それで現世に引き戻される。
いや――このような世界が、本当に現世であるのだろうか?
そんな不毛な想念にとらわれながら、私は目覚まし時計のベルを止めることになった。
煎餅布団の上に半身を起こした私は、深々と息をつく。
私は再び、殺されてしまったのだ。
隆介が「親父」と呼ぶ男の手によって。
「何なんだよ、もう……さっぱりわけがわかんないよ!」
私は癇癪を起こして、両方の手の平を布団の敷布に叩きつけた。
私は隆介に殺される運命を回避するために、あれこれ知恵を巡らせたつもりであったのに――今度は隆介の父親に殺されてしまった。前回は絞殺で、今回は撲殺だ。唯一の救いは、ゴルフクラブで頭を叩き割られる痛みを知覚することなく、セピア色の奔流に意識を呑み込まれたことぐらいだった。
「あいつは、赤いノートを握りしめてた……つまり、静夫くんじゃなくって、父親のほうが日記帳を見つけちゃったってことだ。そんなの、止めようがないじゃん!」
私はひとりでわめきたてながら、両手でショートヘアの頭をかき回した。
それからのろのろと、枕もとの目覚まし時計へと視線を移す。時刻は、九時三十分――前回と同じ刻限である。
「つまり、ここからやりなおしってこと? あと三十分経ったら、静夫くんが迎えに来ちゃうわけ?」
私はもう、すべてを放棄して二度寝を決め込みたい気分であった。
が、いったん目覚めた肉体には、睡魔の欠片も残されていない。本来の私はどうしようもないほど低血圧であったのに、祖母の肉体は活動を求めてうずうずしているように感じられた。
(私がこのまま何もしなかったら……迎えに来た静夫くんを追い返して、家から一歩も出なかったら、この世界はどうなるんだろう?)
野々宮由梨枝の遺した赤い日記帳は、静夫に発見されるのか。それとも、父親に発見されるのか。そして、静夫が殺されることになるのか。それとも、隆介が殺されることになるのか。
どちらにせよ、それは私の存在した令和の時代とは相反する運命であった。
兄弟のどちらかが蓮田千夏との間に子を生し、もう片方が四十年後までのうのうと生き延びない限り、私の知る歴史とは合致しなくなってしまうのだ。
(で、死んだほうが私のお祖父ちゃんだったら、私も母さんもこの世に生まれてこないってわけね)
そんな理不尽な結論を再確認してから、私は身を起こした。
本来の私であれば、とっくに気持ちが萎えていたところであるのだが――この祖母の肉体には、生命力があふれかえっているのだ。私はもう、その生命力を駆使してあがけるだけあがくしかないようだった。
(こうなったら、解決策はひとつだけだ。私が先にあの忌々しい日記帳を見つけ出して、処分してやる)
半ばやけくそでそのように決断した私は、さっそく準備を整えることにした。
ガステーブルでお湯をわかしながら、全身の汗をぬぐって白い下着とワンピースに着替える。お湯がわいたらカップラーメンでカロリーを補充し、そして――寝室の押し入れから、手頃なショルダーバッグを引っ張り出した。
このサイズであれば、あの忌々しい日記帳を収めることもできるだろう。
日記帳を発見したならば、誰の目にも留まらないように、こっそりと持ち帰るのだ。
(本当に隆介のやつが母親殺しの犯人だったら、野放しにしておきたくないけど……でも、あいつが警察に捕まったら、きっと運命が狂っちゃうんだろうしなぁ)
私の知る現世において、野々宮由梨枝の死は自殺とされていたのだ。そこから外れるような運命を辿ってしまっては、また何がどうなるかもわからなかった。
(とにかく、日記帳を探し出して、こっそり持ち帰る。あとのことは、あとで考えればいいや)
そうして私がバッグを肩にかけ、小ぶりの麦わら帽子をかぶったところで、来客を告げるブザーが鳴らされた。
時計を見ると、時刻は十時三分だ。私は逸る気持ちを抑えながら、玄関口へと向かうことにした。
「遅れちゃって、ごめんね。これでも、急いできたんだけど……」
静夫は前回と同じように、はにかむような微笑をたたえていた。
私もまた、「大丈夫だよ」と笑い返してみせる。
「ただね、ちょっと提案があるんだけど……やっぱりもう一度、日記帳を探してみない?」
「え?」と、静夫が悲しそうな目つきをした。
「どうして? 死んだ人の日記帳を読むなんてよくないって、昨日はそう言ってたよね?」
「うん。だけど、静夫くんはお母さんが亡くなった理由を知りたくて、日記帳を探そうとしてたんでしょ? よくよく考えたら、その気持ちもわかるなあって思いなおしたんだよ」
「そう……」と、静夫は目を伏せた。
あどけない表情が消え去って、その目が暗く陰っていく。その理由に思い至った私は、慌てて言葉を重ねることになった。
「日記帳を探しながらでも、おしゃべりはできるでしょ? しゃべり足りなかったら、明日も明後日もあるんだしさ」
「……明日も明後日も、僕に会ってくれるの?」
静夫はおずおずと、上目づかいで私を見上げてくる。
飼い主のご機嫌をうかがう、子犬のような眼差しだ。私は少なからず罪悪感をかきたてられながら、「うん」と答えてみせた。
「日記帳が見つかったら、のんびり遊ぼうよ。静夫くんの体調が悪くなかったら、町のほうに出てみてもいいしね」
「……うん、わかった。千夏ちゃんと町で遊べたら、嬉しいな」
静夫は瞳に新たな輝きを灯しながら、あどけなく微笑んだ。
やっぱり静夫は、私のことを――いや、祖母である蓮田千夏のことを、強い気持ちで慕っているのだ。それが年長の少女に対する憧憬の気持ちであるのか、あるいは恋愛感情であるのかは判然としなかったが、とにかく彼が並々ならぬ想いを抱いているということは、はっきり痛感できた気がした。
(それで想いが報われて、お祖母ちゃんと結ばれることになるのか……それとも、悪い兄貴に想い人を奪われて、性格が歪んじゃったのか……できれば、静夫くんが私のお祖父ちゃんであってほしいなぁ)
そんな思いを抱え込みながら、私は日差しの強い外界へと足を踏み出した。
静夫と肩を並べて、前回とは逆の方角に歩を進める。その間も静夫とぽつぽつ言葉を交わしながら、私の頭の中は日記帳のことでいっぱいだった。
(静夫くんにせよ父親にせよ、今日の午前中の時間だけで日記帳を見つけることになったんだもんな。そんな面倒な場所には隠されてないはずだ)
雑談がひと区切りしたところで、私は静夫に探りを入れてみた。
「ところでさ、今日はどこを探そうか? 昨日は一緒に土蔵の中を探したけど、静夫くんはこれまでにどんな場所を探したの?」
「僕が探したのは、母さんの寝室と裏の物置と……あとは、兄さんと父さんの寝室だよ」
「へえ。そんなところまで探したんだ?」
「うん。……もしかしたら、兄さんたちが隠したのかもしれないと思って……」
それはそれでありえそうな話だが、やはり見当違いであったのだろう。彼らがすでに日記帳を発見していたなら、もっと早くに何らかの悲劇が勃発するか――あるいは、とっくに処分されていたはずであるのだ。
「それじゃあ、今日はどうしようか。あんなに大きなお屋敷だと、探すのもひと苦労だよね」
「うん。僕が次に探そうと思ってたのは……やっぱり、書庫かなぁ」
「しょこ? ああ、書庫ね。静夫くんの家には、そんなにたくさんの本があるの?」
「うん。だから、日記帳もその中にまぎれちゃったのかなって……あとはもう、そんなに探す場所も残されてないからさ」
静夫がそんな風に答えたところで、野々宮のお屋敷が見えてきた。
そこに足を踏み入れる前に、私は急いで言葉を重ねる。
「そういえば、隆介くんとお父さんは、家にいるのかな?」
「いや。兄さんは僕より早く出かけたみたい。父さんは……たぶん自分の寝室で、お酒を飲んでるんじゃないかな。母さんが死んで以来、ずっとそうだから……」
では、隆介が外出している間に、父親が日記帳を発見したということなのだろう。
何にせよ、タイムリミットは一時間足らずだ。彼らの父親は、午前の十一時前ぐらいにゴルフクラブを振り回すことになるはずだった。
「父さんの寝室は一番奥だから、静かにしてれば気づかれないはずだよ。できるだけ、物音をたてないようにね」
そんな静夫の言葉を聞きながら、私は玄関口をくぐることになった。
隆介はこのガラス戸にべったりと血の手形を残して、私の目の前にまろび出てきたのだ。それを思い出すと、やっぱり背筋が寒くなってしまった。
私は本来の時代においても真っ直ぐ土蔵へと案内されたので、本邸に足を踏み入れるのは初めてのことである。
野々宮のお屋敷はその内側も空気が澱んでいて、何とはなしに荒んだ雰囲気を醸し出していた。
「こっちだよ」と、靴を脱いだ静夫が忍び足で廊下を進み始める。私が無造作に足を踏み出すと、キシキシと甲高い音色が響いたために、首をすくめることになった。この廊下はあまりに古びているために、天然のうぐいす張りになってしまっているようだった。
廊下は、真っ直ぐ奥まで続いている。途中にいくつかドアやふすまが見受けられたが、静夫はそれらを通りすぎて、廊下の突き当たりまで歩を進めた。
突き当たりの先は、左側にだけ廊下がのびている。そちらに折れてさらに進むと、右手側の壁に現れた最初のふすまが十五センチほど開いたままになっており――何気なく室内を覗き見た私は、薄暗い中にぽつんと置かれた黒い仏壇を見出すことになった。
(あれが由梨枝さんって人の仏壇なのかな)
私は心の中で冥福を祈りつつ、静夫の後を追いかけた。
こちらの廊下も長かったが、静夫は半分ぐらい進んだところで、左手側のドアに向きなおる。
「ここが書庫だよ。静かにね」
こういう洋式のドアは、後から改築されたものなのだろう。廊下や壁に比べると、明らかに年代が新しい。そうしてそのドアの向こう側には、膨大な量の書物が保管されていたのだった。
「うわ……これはすごいね。ちょっとした図書館みたい」
「うん。亡くなった祖父と祖母が、二人とも読書家だったんだって」
部屋の広さは、二十畳ぐらいもありそうだ。そしてそこに天井まで届きそうな本棚がいくつも並べられて、そのすべてにぎっしりと古い書物が詰め込まれている。古書の持つ独特の黴臭さで、息が詰まりそうなほどであった。
「空気が悪いね。静夫くん、喘息は大丈夫?」
「うん。ここの匂いは、好きなんだ」
と、静夫はあどけない顔で笑う。
「もしこの中に日記帳がまぎれ込んでたら、探すのも大変そうだけど……でも、母さんの日記帳は赤い表紙だからね。想像するよりは、大変じゃないのかな」
「そうだね。それじゃあとにかく、赤い表紙の本を探そう。……あ、ところで廊下に誰かが通ったら、ドアごしでもわかるかなぁ?」
「うん。兄さんや父さんは乱暴な歩き方だから、すぐにわかると思うよ」
それなら、幸いなことであった。私にとって一番の懸念事項は、こうしている間に父親が別の場所で日記帳を発見してしまうことであったのだ。
(まあ、ここより奥の部屋で見つけられちゃったら、私にはどうしようもないけど……そのときは、そのときだ)
そうして私は静夫とともに、果てしない探索作業を開始することになったのだった。
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