書庫における探索作業は、なかなかの手間であった。

 赤い表紙の書物などはそうそう存在しないため、それほど手間取ることはなかろうと甘く見ていたのだが――この部屋に設えられた本棚はいずれも二メートル以上の高さであったので、上の段を確認するには足場が必要であったのだ。


 それに本棚は整理整頓が行き届いておらず、大きな書物にはさまれた書物は奥側に引っ込んでしまい、背表紙の色も確認しづらい。そして書物はぎゅうぎゅうに押し込まれているために、目当ての書物を引っ張り出すのもひと苦労であったのだった。


 そして私は日記帳の探索を続けながら、ドアの外の気配をうかがいつつ、静夫との雑談にも励まなければならなかった。やはり静夫は日記帳に対する熱意を失っており、私との会話を楽しむことが主題のようなのである。それを邪険に扱うと、繊細な彼はすぐに落ち込んでしまいそうだったから、私も配慮せざるを得なかったのだった。


(静夫くんは、だいぶ情緒不安定みたいだもんな。まあ、お母さんが亡くなったばかりなんだから、それも当然だろうけど……きっともともとが、繊細すぎるんだ)


 静夫と交流を深める内に、私はそんな感慨を抱くようになっていた。

 きっと静夫は、もともと内気で物静かな気性なのだろう。それが、母親の死と、他の家族に対する複雑な感情と、蓮田千夏に対する思慕の念によって、大きくかき乱されてしまっているようなのだ。


 私が優しい言葉をかけると、静夫はとても嬉しそうな顔をする。

 しかし、母親の話を語る際は、とても苦しげであるし――兄や父親の話を語る際は、もっと苦しげである。母親の死を引き金にして、兄や父親は精神の均衡を欠くことになり、それが静夫の繊細な心をずいぶん脅かしてしまっているようだった。


「母さんが死んでから、父さんはずっと酒びたりなんだ。この前なんて、吉岡先生にビール瓶を投げつけてたし……吉岡先生は父さんの体を心配してくれてるのに、ひどいよね」


「兄さんも、吉岡先生にひどいことを言ってたよ。呼び鈴を鳴らさずに入ってくるなんて、泥棒と一緒だって……でも、うるさいからいちいち呼び鈴を鳴らすなって言ったのは、兄さんのほうなんだよ」


 そういった言葉から推察するに、隆介や父親は吉岡医師のことをずいぶん疎ましく思っているようだった。


「でも静夫くんは、吉岡先生と仲良くしてるんでしょ?」


 私が何気なくそんな言葉を投げかけると、静夫は不明瞭な声音で「うん」と答えた。


「吉岡先生は、優しいからね。僕と母さんは、ずっと仲良くしていたよ」


 母親との思い出を想起してしまったのか、暗く陰った眼差しが容易く想像できそうな声音だった。

 ただ、私は足場に乗っており、静夫は足もとの棚を探索していたため、その表情を確認することはできなかった。


「……吉岡先生とは、古いおつきあいなの?」


「うん。もともとは、母さんの主治医だったんだよ。……って言っても、ここには吉岡先生しかお医者さんはいないけどさ。でも、町のお医者さんより、ずっと親身に面倒を見てくれたんだ」


「お母さんも、どこか体が悪かったの?」


「持病とかはないんだけど、病気がちだったんだ。僕の体が弱いのも、きっと母さんからの遺伝なんだろうね」


 確かに写真で見た野々宮由梨枝は、静夫とよく似た面立ちをしていた。

 そして隆介は、父親とよく似ているようであるのだ。粗暴な気性をした父親と兄に、繊細な気性をした母親と弟――それで母親が突然亡くなってしまったため、静夫がこのように辛い立場になってしまったのかもしれなかった。


(まああの父親も、辛いからこそお酒に逃げたんだろうけど……親としては、無責任すぎるよ)


 それにあの父親は、日記帳を発見するなり息子を撲殺したのである。たとえそこに何が書かれていたとしても、たとえアルコールで判断力が鈍っていたとしても、あまりに短絡的な行いであった。


「……駄目だ。ここにもないね。やっぱり書庫じゃなかったのかなぁ」


 と、静夫が大儀そうに身を起こしたとき、ドアの外から廊下の軋む音が聞こえてきた。

 私は大慌てで、足場から下りる。しかし、それよりも早くドアが開かれて――そこから吉岡医師の温かい笑顔が覗いたのだった。


「やあ。話し声がすると思ったら、やっぱり静夫くんだったのか。隆介くんや孝信たかのぶさんじゃなくて、よかったよ」


「あ、吉岡先生。もう往診の時間?」


「いや。手が空いたから、早めに来てみたんだよ。でも、今日は静夫くんも元気そうだね」


 二人の和やかな会話を聞きながら、私はひとりで焦ることになった。

 吉岡医師が登場したということは、もうあと十分ていどで、隆介が惨殺される刻限となってしまうのだ。

 そんな私の内心など知るすべもなく、吉岡医師は「おや」と目を丸くした。


「そちらの君は……たしか、蓮田さんの娘さんだよね。今日は静夫くんと遊んでくれていたのかな?」


「あ、はい……どうもお邪魔してます」


「あはは。僕だってこの家の人間じゃないんだから、そんなにかしこまらなくていいよ。ただ、静夫くんを診察しないといけないから、ちょっとだけお借りするね」


 吉岡医師は優しげに微笑み、静夫はすがるような眼差しを私に向けてくる。

 私は内心の焦燥感をねじ伏せながら、静夫に笑いかけてみせた。


「それじゃあ私は、ここで待ってるね。体調が悪くないなら、午後からも遊ぼうよ」


 静夫は目を輝かせながら、「うん」とうなずいた。

 吉岡医師は、そんな静夫の肩にぽんと手を置く。


「じゃ、行こうか。三十分もかからないはずだからね」


 静夫と吉岡医師は、連れだって書庫を出ていった。

 ドアの外まで出た私は、二人が廊下の奥に消えていくのを、無言で見送る。父親と同様に、静夫の寝室も書庫より奥側に位置していたのだ。


(あと十分……でも、隆介はまだ帰ってきてないし、父親も大人しいままだ。孝信とかいう父親は、この十分間で日記帳を見つけ出すってこと?)


 ではやはり、書庫というのは見当違いだったのだろうか。酒びたりの父親がこれから書庫にやってくるとは、どうにも考えにくかった。

 そうして私は思案しながら、長々とのびる廊下の左右に視線を巡らせ――そこで、かすかな違和感を覚えた。


 何か、景色が違っている。

 廊下の奥側ではなく、手前側だ。この書庫を目指して辿ってきた道行きのどこかに、何か小さな変化が生じているように感じられた。


 その正体を探るべく、私は足音を忍ばせて廊下を戻ってみる。

 その正体は、すぐに知れた。

 仏壇の置かれていた部屋のふすまが、ぴたりと閉められていたのだ。


 私は行きがけで室内を覗き見したが、ふすまには手を触れていない。

 私と静夫が書庫にこもっている間に、何者かがこのふすまを閉めたのだ。

 そして、書庫の前は誰も通っていないはずなのだから――それは、玄関口からやってきた何者かであるはずだった。


(つまり、吉岡先生が、このふすまを閉めたってこと?)


 まあ、通りがかりで開いていたふすまを閉めることも、なくはないのだろう。

 しかし、私だったら他人の家でそのような真似はしない。だから、これほどの違和感を覚えているのだ。


 私は心中に渦巻く違和感を解消するべく、忍び足でそのふすまに近づいた。

 もしかしたら、吉岡医師より先に隆介が帰宅して、仏壇の前で手を合わせているのかもしれない。その可能性まで考慮しながら、私はそろそろとふすまを開いてみた。


 ふすまの向こう側は――無人だ。

 仏壇の他には大した調度もないので、人が隠れる場所もない。

 私はほっと息をつきながら、さらに室内に視線を巡らせ――そこで息を詰めることになった。


 部屋の奥側に設えられた仏壇の向こう側から、赤い色合いが覗いていたのだ。

 さきほど盗み見したときには、あんなものは存在しなかった。そんな風に確信できるぐらい、その赤い色合いは大きな違和感として私の心臓を騒がせたのだった。


(まさか……)


 私は膝を震わせながら、仏間に足を踏み入れた。

 仏壇の向こうから覗いているのは、赤くて細い長方形である。そして仏壇に近づいた私は、それが赤いノートの端の部分であることを知ったのだった。


 私は息を詰めながら、そのノートの角を指先でつまんだ。

 仏壇と壁の間には三センチほどの隙間があったので、ノートは何の抵抗もなく私の手につかみ取られる。


 それは文庫本よりもひと回り大きいぐらいのサイズで、赤い表紙は革製であった。

 そして表紙に金色で捺されている文字は――筆記体で、『Diary』だ。


 私は何か、運命の神様に翻弄されているような心地であった。

 三十分ばかりも探索していた書庫には何もなく、別なる理由で踏み入った場所に、目的の品が無造作に打ち捨てられていたのだ。私の胸に渦巻いていたのは、喜びよりも怒りに近い感情であった。


(でも、どうしてこんな場所に日記帳が……さっき覗いたときは、絶対にこんなのなかったはずだ)


 もしかしたら、仏壇の上に置かれていたものが、後ろに落ちたということなのだろうか。

 私はそのように考えたが、仏壇の上面にはうっすらと埃が積もっており、何かが置かれていた形跡もなかった。それに、仏壇の高さは私の背丈よりもやや低いぐらいであったので、そんな場所に日記帳が置かれていたのなら、とっくに発見されていたはずだった。


(それじゃあ……どういうことなんだろう? まさか、吉岡先生が……?)


 私がひとり考え込んでいると、背後からギシギシと廊下の軋む音が聞こえてきた。

 私は心臓をわしづかみにされたような心地で、日記帳をショルダーバッグの中にねじ込む。ほとんどそれと同時に、半開きのままであったふすまが荒っぽく全開にされた。


「何だ、お前は! こんなところで、何をしている!」


 怒りにひび割れた声が、仏間に響きわたる。

 私がおそるおそる振り返ると――そこに立ちはだかっていたのは、かつて私と隆介を殺した野々宮家の父親に他ならなかった。

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