3
「さて、どうしようか。喫茶店……なんて、この辺りにはなさそうだもんね」
「うん。僕はどこでもかまわないよ。千夏ちゃんと一緒にいられるだけで、楽しいから」
しかし、令和の時代よりは過ごしやすい気候でも、夏の盛りに立ち話というのは厳しいだろう。私たちは橋を渡ってから川沿いの道をしばらく歩いて、手頃な日陰を探すことにした。申し合わせたように、野々宮家とは逆の方角だ。
私と静夫はほとんど同じぐらいの背丈であったため、麦わら帽子をかぶっていてもおたがいの顔がよく見える。静夫はこの暑さでも汗ひとつかいておらず、昨日よりもずっとあどけない表情をしているように感じられた。
(そういえば、この子は何歳なんだろう。勝手に年下だと思ってたけど……迂闊なことは言えないもんなぁ)
私がそんな風に考えたところで、道に木陰が落とされた。川とは反対の側に立派な樹木が立ち並び、夏の日差しをさえぎってくれたのだ。さらに進むと、それらの樹木を切り分けるようにして石段が現れた。
石段は十段ほど続いており、その向こう側に和風の建物の屋根が見える。きっとお寺か何かなのだろう。人が行き来する気配はなかったので、私たちはその石段に並んで腰かけることにした。
「……今日は本当にありがとう。また会ってもらえるとは思ってなかったから、すごく嬉しかったよ」
と、腰を落ち着けるなり、静夫はそんな風に述べてきた。
麦わら帽子を外しながら、私はなんとか笑顔をこしらえてみせる。
「私は別に、用事もなかったからね。静夫……くんこそ、忙しくなかったの?」
呼称が合っていることを祈りながら、私はそのように答えてみせた。
麦わら帽子をかぶったまま、静夫は子供のように「うん」とうなずく。
「初七日は明日だし……父さんや兄さんはあんなだから、家にいたくなかったんだ」
兄ばかりでなく、父親も様子がおかしいのだろうか。そういえば、その人物はアルコール中毒で亡くなったという話であったのだ。
しかし、私は――というか、私に憑依される前の祖母は、静夫の父親についてどれだけ知っているのかもわからない。そのように考えると、やっぱり軽はずみなことは言えなかった。
「お母さんが亡くなったんだから、そりゃあショックだよね。静夫くんは、大丈夫?」
「うん。何だか、現実感がなくって……僕って、薄情なのかなぁ」
「そんなことないよ。私だって同じ立場だったら、どうなるかわからないしね」
すると静夫は、どこかすがるような目つきで私の顔を見つめてきた。
「千夏ちゃんも小さい頃に、お父さんを亡くしてるんでしょ? そのときは、やっぱり悲しかった?」
「え? ええと、どうだろう……昔の話だから、よくわからないや」
「そっか……普通は家族を亡くしたら、悲しいものだよね。でも、兄さんや父さんは悲しむよりも怒ってばっかりで……特に兄さんは、ずっと様子がおかしいんだ」
その発言が、ひそかに私の胸を騒がせた。
それは――母親を殺した後ろめたさから生じる変調なのだろうか。
「そ、それはまあ、やっぱり動揺してるんじゃないのかな。怒ってるように見えるのも、悲しい気持ちの裏返しかもしれないし……気持ちが落ち着くまで、そっとしておけばいいと思うよ」
私はなるべく当たり障りのないことを言ったつもりであった。
しかし、静夫の瞳は暗く陰ってしまう。
「僕もなるべく刺激しないように気をつけてるつもりなんだけど……でも、昨日の兄さんを見たでしょ? 僕、千夏ちゃんが殴られちゃうんじゃないかって、気が気じゃなかったんだ。女の子にあんな乱暴な真似をするなんて……よくないよ、絶対」
「静夫くんが止めてくれたから、私は平気だよ。……でも本当に、あのときのお兄さんはすごく怖かったね」
「お兄さん? ……いつもは、隆介くんって呼んでるよね?」
私は思わずたじろぎかけたが、すぐさま取りつくろってみせた。
「あんな怖い顔を見せられたら、気安く隆介くんなんて呼ぶ気になれないよ。私自身、殴られるんじゃないかって思っちゃったもん」
「そっか。そうだよね」と、静夫は弱々しく口もとをほころばせた。
私は安堵の息を噛み殺しつつ、麦わら帽子で顔を仰ぐ。
「楽しい夏休みのはずが、それどころじゃなくなっちゃったね。夏休みの宿題なんて、やる気にもなれないんじゃない?」
「ううん。他にやることもないから、ほとんど終わっちゃった。……千夏ちゃんは高校、楽しい?」
「うーん、ほどほどかなぁ。静夫くんは?」
「僕は、別に……でも、卒業したら、学校が恋しくなるのかなぁ。僕はやっぱり、高校には行けないだろうから……」
「え、そうなの?」
「うん。体がもう少しよくなるようだったら、検討しようって話になってたけど……今のままだと、駄目だと思う」
そのように語りながら、静夫はとても切なげに息をついた。
「だから兄さんは、僕のことを嫌うのかな……兄さんみたいに体が丈夫だと、僕みたいにひ弱な人間は見てるだけで苛々しちゃうのかもね」
「そんなの、静夫くんのせいじゃないよ。ちょっと病弱でも立派な人なんて、いくらでもいるじゃん。そんなことで人を見下すなんて、絶対に間違ってるよ」
本来の私は静夫のほうに近いタイプであったため、ついつい言葉に熱がこもってしまった。
静夫は「ありがとう」と透き通った微笑みをたたえて――道の向こうに流れる川面のほうへと視線を飛ばした。
「……母さんが見つかったのは、ここからもうちょっと下流のあたりだって話だったよね」
静夫の唐突な発言に、私は思わず息を呑んでしまう。
静夫たちの母親は――この川で溺れ死んでしまったのだろうか?
「母さんは、どんな気持ちだったんだろう。このあたりは街頭もないから、真っ暗な水の中でもがき苦しんで……意識が途切れるまで、いったい何を考えていたんだろう」
そんな風に語る静夫の瞳が、どんどん暗く陰っていく。
私は無意識の内に、「やめなよ」と口走っていた。
「そんなことを考えるのは、よくないよ。静夫くんもまだ気持ちが落ち着いてないんだろうけど……」
「うん、ごめん。でも……僕の家は、これからどうなっちゃうんだろう。兄さんも父さんも、あんな風におかしくなっちゃって……僕は、兄さんとも父さんとも仲良くしたいのに……」
静夫はそこまで言いかけてから、ふいに激しく咳き込み始めた。
作り物のようになめらかな顔に、ぶわっと汗が浮かびあがる。静夫は身を折り、口もとに手をやって、何度も苦しげに咳き込んだ。私が背中に手をやると、痙攣するような震えが伝わってきた。
「だ、大丈夫? 喘息の発作?」
私がそのように呼びかけても、静夫は答えることすらできなかった。
顔色は紙のように白くなり、固くつぶった目もとには涙が浮かべられている。そして何故だか、右の脇腹をかばうように左手で押さえつけていた。
私はどうすることもできないまま、ひたすら静夫の背中をさすり続ける。
そのとき――目の前の細い道に、白い軽トラックが通りかかった。
「し、静夫くん? 大丈夫かい?」
急停止した軽トラックの運転席から、ひょろひょろとした人影が飛び出してくる。それは銀縁眼鏡をかけた、痩せぎすの男性であった。
「こんな日差しの強い日に出歩いちゃ、駄目じゃないか! ほら、ゆっくり息をして……もう大丈夫だよ。何も心配はいらないからね」
「よしおか……せんせい……」
咳の間にそんな言葉を振り絞りつつ、静夫はその男性の手をつかみとった。
その男性もまた石段に膝をついて、静夫の華奢な肩を抱え込む。そうすると、静夫の発作は少しずつ収まっていった。
「君は体力が落ちてるんだから、こんな暑い日はゆっくり休まないと。……ああ、いいから楽にして。無理にしゃべらなくてもいいんだよ」
銀縁眼鏡の向こう側の目をとても優しそうに瞬かせながら、その人物はそのように言いつのった。
白髪まじりの髪を無精にのばした、四十代の半ばぐらいに見える男性である。面長で、頬がこけており、ともすれば病人に見えそうなぐらい痩せ細っていたが、その眼差しや表情はとても温かかった。
「まだ往診の時間には早かったけど、手が空いたから静夫くんの家に向かうところだったんだよ。たまたま通りかかって、本当によかった」
そんな風に言ってから、その男性はようやく私のほうに目を向けてきた。
「ああ、君は……蓮田さんの娘さんだね。僕のことを覚えてるかな? 診療所の、吉岡だよ」
「あ、はい。ええと……お医者さん、ですよね?」
「うん。僕をあんまり知らないってことは、健康な証拠だね」
吉岡と名乗ったその男性は、私にも温かい笑顔を向けてきた。
とても善良で、優しそうな笑顔だが――しかしどこか、寂しげな色がにじんでいる。それは、静夫が時おり浮かべる表情とも少し似たところのある笑顔であった。
「静夫くんは具合が悪いみたいなんで、僕が家まで送ることにするよ。申し訳ないけどあの車は二人乗りなんで、君は自分の足で戻ってもらえるかな?」
「は、はい。私の家は、すぐ近所なので……」
私がそのように答えると、吉岡なる人物に肩を抱かれた静夫が涙に濡れた目で見つめてきた。
「ごめんね、千夏ちゃん……せっかく会ってくれたのに……」
「そんなの、いいよ。元気になったら、午後からまた遊ぼうよ」
私がそのように答えると、吉岡医師が申し訳なさそうに微笑みかけてきた。
「残念だけど、今日はもう外に出ないほうがいいだろうね。静夫くんはちょっと、体調を崩してるところだから……」
「それじゃあ、お見舞いに行きます。……それも駄目ですか?」
私の返答に、吉岡医師はきょとんと目を丸くした。
そしていっそう優しげに、にこりと微笑む。
「そういうことなら、大歓迎だよ。なんて、僕が言うような話じゃないけど……静夫くんも、それでいいよね?」
静夫は子供のように「うん」とうなずいてから、涙目のまま微笑んだ。
「ありがとう、千夏ちゃん……家で待ってるから……」
「うん。静夫くんは気にせず、ゆっくり休んでね。もし寝ちゃっても起きるまで待ってるから、大丈夫だよ」
そうして私は吉岡医師と二人がかりで、静夫を軽トラックの助手席まで運ぶことになった。
ドアを閉めて、窓ごしに笑顔を送ると、静夫ははかなげに微笑み返してくる。まだ顔色は悪かったが、その表情はとてもあどけなかった。
「それじゃあね。昼には、診察も終わるはずだから」
吉岡医師もまた温かい微笑を残して、軽トラックを発進させた。
未舗装の細い道を、軽トラックは安全運転でゆっくりと走り去っていく。それを見送りながら、私は深々と息をつくことになった。
(ああ、びっくりした。静夫くんは、本当に病弱なんだな)
あれでは本当に、高校に進学するのも難しいのかもしれない。
そして静夫は心のほうも繊細にできているようなので、余計に痛ましくてならなかった。
(でも、前回のあのときは……あんなに大人しい静夫くんが、あのおっかない兄貴に怒鳴り散らしてたもんな。それだけお母さんのことが、ショックだったんだ。まあ、自分の兄貴が母親を殺したなんて思ったら、ショックなのが当たり前だけど……)
だからやっぱり、静夫は母親の日記帳など読んではいけないのだ。
だから私は静夫を安心させるために、この後も会う約束を取りつけることになってしまったのだった。
(それじゃあ、お昼までどうしようかな。まだけっこう時間は余ってるはずだし……)
そこまで考えて、私はふっと嫌な予感にとらわれた。
私と静夫は出会ってから、まだ三十分も経っていない。ということは、時刻はいまだ午前の十時半頃であり――前回の、静夫と私が殺される時刻にも達していなかったのだった。
(……まさか、あんな状態で日記帳を探そうとしたりはしないよね)
私はそんな風に考えたが、いったん訪れた嫌な予感はなかなか消えてくれなかった。
もしも静夫が日記帳を探そうとしなくとも、たまたま発見してしまったなら――前回と同じ結末になってしまうのではないだろうか?
根っこが悲観的である私は、どうしてもそんな想念を拭い去ることができなかった。
(とりあえず、家まで様子を見にいってみよう)
そう決断した私は、ひとりで野々宮のお屋敷を目指すことになった。
また隆介と出くわしてしまったら面倒なことになりそうだが、それでも静夫や自分が死ぬことになるよりはましだ。祖母の肉体が持つ生命力と、こんな人生はどうなってもかまわないという放埓な心地が、私の背中を押してくれた。
五分ほど歩くと、祖母の家が見えてくる。それを素通りして、私はさらに無人の道を突き進んだ。
野々宮のお屋敷は、ここからさらに十分ていどだろう。吉岡医師の軽トラックはもうそろそろ到着している頃合いかもしれないが、そのていどのタイムラグで止めることのできない運命であったなら、もう私の知ったことではなかった。
容赦なく照りつけてくる日差しに、手足や背中がじっとりと汗ばんでくる。
しかし、祖母の強靭な肉体は、そのていどでめげたりはしなかった。
そうして私は合計十五分ほどの時間をかけて、野々宮のお屋敷に到着した。
古びた門の手前には、さきほどと同じ軽トラックが停められている。静夫と吉岡医師も、無事に到着したようである。
日中でも、どこかどんよりと澱んでいるように感じられる、古びたお屋敷だ。
私は念のために表札の名前を確認してから、門柱の内側へと踏み入った。
四十年後には雑草の生い茂っている前庭も、この時代はほどほどに手入れされている。しかし、決して平常の状態ではないのだと主張するかのように、どこか荒んだ雰囲気であった。
敷石に沿って突き進むと、行く手にガラス戸が見えてくる。
そして私がそちらに近づいていくと――くもりガラスの向こう側に、長身の人影が浮かびあがったのだった。
(うわ。もしかして、人殺しの兄貴かな?)
私は思わず立ちすくみ、身を隠すための物陰を求めて、左右に視線を走らせる。
そこに、ガシャンッというけたたましい音が響きわたった。
人影が、向こう側から勢いよくガラス戸にもたれかかったのだ。
それと同時に、赤い手形がガラス面に浮かびあがった。
私がその意味を悟るより早く、ガラス戸が乱暴に開かれた。
そこからまろび出てきたのは――やはり、静夫の兄たる隆介だ。
しかし隆介は、頭から大量の鮮血を噴きこぼしていた。
「た……助け……」
かすれた声でうめきながら、隆介はがっくりとくずおれた。
赤い血が、敷石にぼたぼたと滴り落ちる。そして隆介は、真っ赤に染まった手の平を私のほうに差し伸べてきたのだった。
「ど、どうしたの? いったい何が――」
私は反射的に、隆介のほうに駆け寄ろうとした。
すると――隆介を追って、新たな人物が現れた。
「逃がさねえぞ……手前だけは、絶対に許さねえ……」
しわがれた声でつぶやきながら、その人物が隆介の背後に忍び寄る。
それは焦げ茶色の和服を着た、恰幅のいい壮年の男性だった。
隆介と同じように浅黒い肌をしており、隆介と同じように背が高い。そしてその目には、私と静夫を殺したときの隆介と同じぐらい、憎悪と狂気の炎が渦巻いていた。
「よせ……やめてくれよ、親父……」
地面にへたり込んだ隆介は、弱々しい挙動で背後に向きなおる。
それを見下ろす男の右手には、血に濡れたゴルフクラブが握られており――逆の手には、赤いノートが握られていた。
「やめろだと……? どの口が抜かしやがる……母親を殺す人でなしなんざ、生かしちゃおけねえ! くたばりやがれ、このロクデナシが!」
男は容赦のない勢いで、隆介の頭にゴルフクラブを振り下ろした。
赤い血が、大輪の花のように弾け散り――隆介は、棒のように倒れ込んだ。
私はわけもわからぬまま、隆介を追うようにしてへたり込んでしまう。
すると、狂気の眼差しが私のほうに向けられてきた。
「見たな……?」
鮮血にまみれたゴルフクラブが、高々と振り上げられる。
それをつかんだ男の顔は、私と静夫を殺したときの隆介と同じぐらい、ぶざまな表情を浮かべていた。
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