2
翌朝――私は目覚まし時計のベルによって叩き起こされることになった。
スマホのアラームではなく、金属のベルが乱打されるアナログな目覚まし時計である。そのけたたましい音色によって、私はこの悪夢が終わっていないことを再確認させられたのだった。
枕もとの目覚まし時計を止めた私は、ねぼけまなこで時間を確認する。
時刻は、九時三十分。昨晩セットした通りである。私は腹の上に掛けていたタオルケットをはねのけて、煎餅布団の上に半身を起こした。
他人の匂いがする、四畳半の寝室である。
私はやっぱり、祖母である蓮田千夏のままであった。
ダイニングのほうに出てみると、テーブルにはすでにメモ用紙と五百円紙幣が準備されている。幸いなことに、本日も祖母の母親と顔をあわせずに済んだようだ。
と、いうか――本日もへったくれもない。私はこの世界で二度目の朝を迎えていたが、それはどちらも同じ日であるのだ。新聞にも、「昭和五十七年八月十日」という日付がはっきりと記載されていた。
令和の時代から四十年前の世界に引きずり込まれたことと、同じ日を二回も繰り返すことの、どちらがより突拍子もない事態であるのか――そんな不毛な想念にひたりながら、私はガステーブルでお湯をわかすことにした。
(とりあえず、十時からお昼までは静夫くんの相手をしないといけないわけか……それはそれで、憂鬱だなぁ)
しかし静夫を放っておいたら、またひとりで母親の日記帳を探し出したあげく、兄の隆介に殺されてしまうかもしれない。それでもしも静夫のほうが私の祖父であったなら、私も母親も産まれてこないことになってしまうのだから――私はいちおう自分自身の運命を守ろうとしていることになるのかもしれなかった。
(本当にわけがわかんないな。私をこんな目にあわせた神様だか何だかは、私に何を期待してるわけ?)
わいたお湯でカップラーメンを作りあげ、それで胃袋を満たしながら、私はなおも考えた。
そうすると、昨晩にはすっかり失念していたひとつの事実が頭に浮かびあがってきたのだった。
(静夫くんは、兄貴のことを人殺し呼ばわりしてた。あの日記帳に、そういう内容が書かれてたってことだよね。まさか……本当にあの隆介ってやつが、自分の母親を殺したってこと?)
それに、私の母親が土蔵で言っていた言葉――この肉体の本来の主である蓮田千夏は、彼らの母親が自殺をするような人間ではないと言い張っていたようであるのだ。
彼らの母親、野々宮由梨枝。静夫とそっくりの繊細な顔立ちをした、色が白くて綺麗な女性だ。あの女性が家族を残して自殺してしまったのか、それとも息子に殺されてしまったのか――その真相が、あの日記帳に記されているのだろうか。
(そんなの、絶対に読みたくないな。誰でもいいから、さっさと処分しちゃってよ)
カップラーメンを食べ終えた私は、だらしくなく椅子に座ったまま壁の時計を確認する。時刻は、まだ九時四十七分であった。
そこで私は、ふっと自分の現状を顧みる。前回は入浴や着替えの手間もはぶいて散歩などに興じてしまったが、今日は静夫と会うのである。いかに自棄的な心地であっても、これではあまりに非常識ではないかと思えてならなかった。
(なんだよ、もう。面倒だな)
それに私は、この家の風呂の使い方がわからないのだ。
私は大慌てで寝室に舞い戻り、箪笥をあさって手頃なタオルを引っ張り出した。開け放しの窓にはカーテンを閉めて、野暮ったいワンピースを脱ぎ捨てたのちに、濡らしたタオルで全身をぬぐう。それで判明したのは、祖母が私と大差のない体形をしているというどうでもいい事実であった。
手足は小麦色に焼けているが、胴体のほうは本来の私と同じように生白い。肩にはくっきりとスクール水着の日焼け跡が残されており、いくぶん皮が剥けかけていた。
それに――体形そのものには大きな差もないのに、やはりこの体には力が満ちている。きっと運動不足の私とは異なり、健康的な日々を過ごしているのだろう。腕にも足にも胴体にも、私には馴染みのないしなやかな筋肉の弾力が感じられた。
脱いだ衣服は洗濯機にまとめて放り込み、私はもっとも小綺麗に見えた白い下着とワンピースを身に纏う。
そして――私はこれまでずっと避けていた行為に及ぶことにした。
洗面台の鏡にて、祖母の顔を確認してみたのだ。
祖母はやっぱり、私に生き写しであった。
髪は短くて肌は日に焼けているが、顔立ち自体はそっくりだ。
しかしそれでも、まったく同一であることはありえない。特に顕著であったのは、目もとだ。本来の私よりも黒みが強いように思えるその瞳には、いかにも意志の強そうな光が瞬いており――それが細くてくっきりとした眉と相まって、とても果断な性格であるように感じられた。
(私がこんな状況でもへこたれずにいられるのは……お祖母ちゃんの強さなのかな)
そんな想念を抱きながら、私は生ぬるい水で盛大に顔を洗ってみせた。
そうしてタオルで顔をぬぐったところで、ブザーのような音が鳴る。思わず悲鳴をあげそうになってしまったが、それは来客を告げる報せであるようだった。
インターホンなどという文明の利器は見当たらなかったため、私は小走りで玄関に向かう。
果たして、そこに待ち受けていたのは野々宮静夫に他ならなかった。
「遅れちゃって、ごめんね。これでも、急いできたんだけど……」
そんな風に言いながら、静夫ははにかむように微笑んでいた。
今日も白い開襟のシャツで、足もとはぶかぶかのデニムパンツである。そして、いかにも田舎っぽい麦わら帽子が、この繊細な面立ちをした少年には意外に似合っていた。
「こっちも準備に手間取ってたから、ちょうどよかったよ。……ええと、うちはせまいから、外で話そうか?」
「うん。今日は日差しが強いから、千夏ちゃんも帽子をかぶったほうがいいと思うよ。日射病になったら大変だからね」
私は寝室に引き返しながら、心の中で(日射病って何だろう?)と小首を傾げることになった。四十年前には、熱中症がそういった名前で呼ばれていたのだろうか。
学習机の脇に小ぶりの麦わら帽子が掛けられていたため、私はそれを手に玄関口へと舞い戻る。静夫は同じ場所で同じようにたたずんでおり、それは何だか飼い主に忠実な子犬を連想させてやまなかった。
(この子は本当に、お祖母ちゃんに懐いてるんだな)
私は昨日も履いていたサンダルをつっかけて、陽光の降り注ぐ外界へと足を踏み出した。
前回と同じように、今日も好天だ。空は果てしなく青く、入道雲は作り物のように立体的だった。
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