第二の死

 …………ケテ……


 どろどろに溶け崩れた世界の向こう側で、誰かが何かを叫んでいる。

 私の周囲に渦を巻くのは、セピア色の奔流だ。狂犬のごとき眼差しをした少年によって絞め殺された私は、再びこの得体の知れない空間に放り込まれてしまったのだった。


 五体の感覚は失われて、自分がどのような姿をしているのかもわからない。私の意識は頼りなくゆらめいて、恐怖や不安や困惑の思いまでもがセピア色に塗り潰されたような心地であった。

 ある意味で、それは安息に満ちた世界であったのかもしれない。何もできないということは、何もしなくてもいいということと同義であるのだ。私は人間としての苦悩や責務からも解放されて、ただ圧倒的な力の奔流に押し流される、ちっぽけな塵芥そのものであった。私のように怠惰な人間には、このような世界がお似合いであるのかもしれなかった。


 ただし、セピア色の奔流に翻弄されながら、私の心は安息と無縁である。

 それは、この世界に満ちみちた誰かの悲痛な叫び声のせいであった。


 何を叫んでいるのかは聞き取れないのに、ただその声音に悲痛な思いが宿されていることだけは、はっきりと知覚できる。それが密度を失った私の心の隙間に入り込み、感情の共有を強制してくるのである。


 だから私は、悲しい気持ちだった。

 こんなに悲しい声をあげている誰かの心を、何とか慰めてあげたかった。

 しかし、肉体も精神もまともな形を成していない私には、どうするすべもなく――

 そんな中、突如として別なる声音が私の意識に割り込んできたのだった。


「千夏ちゃん、本当に大丈夫? なんだか、顔色が悪いみたいだけど……」


 私は愕然と、その声の主を振り返った。

 まるで世界が大慌てでその場に再構築されたような心地であった。


 繊細で、女の子のような面立ちをした少年が、心配そうに私を見つめている。

 それはついさっき兄の手によって絞め殺されたはずの少年であった。


 私が呆然となって周囲を見回すと、そこに待ち受けていたのはオレンジ色に染まった夕暮れ時の風景である。

 私は死んだはずの少年とともに、川沿いの道を歩いているさなかであったのだった。


「やっぱり、兄さんに怒鳴られたせいなのかな? 本当にごめんね。無理を言って手伝ってもらったのに、あんな目にあわせちゃって……」


 色の淡い髪を夕陽に透かせた少年が、心配そうに声を投げかけてくる。

 それはまぎれもなく、死んだはずの野々宮静夫であり――そしてその口から語られるのは、昨日の夕暮れ時に聞かされた言葉の数々である。

 私は、悪夢の中で悪夢を見ているような心地だった。


「でも、千夏ちゃんは本当に兄さんと仲良くなかったんだね。それがちょっと意外だったよ」


 はにかむように微笑みながら、静夫はそのように言葉を重ねた。


「実は、僕……千夏ちゃんは兄さんを追いかけて、同じ高校に進んだんじゃないかって思ってたんだよね。去年の終わりぐらいまでは、千夏ちゃんも別の女子校に進むつもりだって言ってたから……」


 そんな言葉を聞かされて、私はぶるっと背筋を震わせることになった。


(そんなわけないじゃん! あいつは……あいつは、人殺しなんだから!)


 隆介は、私の目の前で静夫を殺したのだ。

 そして――その後には、私自身も殺されているのである。

 私の脳裏には、まだ隆介の泣き笑いみたいな表情がくっきりとこびりついていた。


「あ、もう着いちゃったね。……今日もおばさんは帰りが遅いんでしょ? 千夏ちゃんも毎日ひとりで大変だね」


 黙り込んでいる私の姿を不安そうに見やりながら、静夫は一人で喋り続けている。

 そして眼前には、トタン屋根の小さな家が迫っていた。


「それで、あの……よかったら、明日も会ってもらえないかなぁ? 日記帳を探すのは、もうあきらめたけど……せっかくの夏休みだし、もっと千夏ちゃんとおしゃべりしたくって……」


 橋の手前で足を止めた静夫は、そんな風に言いつのった。

 反射的に断りの返事を口にしかけた私は、すんでのところで別の言葉を口にした。


「うん、わかった……明日も、会おうよ」


「本当に?」と、静夫が瞳を輝かせた。

 私は内なる衝動のままに、静夫の白くて華奢な手を握りしめてしまう。


「うん、本当だよ。だから……ひとりで日記帳を探そうとしたりしないでね?」


「日記帳のことは、もうあきらめたよ。自殺の原因がわかったって、母さんが戻ってくるわけじゃないしね」


 静夫の目に寂しげな光がよぎったが、それでも彼は嬉しそうに微笑んだままであった。


「それじゃあ、どうしようか? うちだとまた兄さんに見つかっちゃうかもしれないから、町のほうに出てみる? ……ああでも、昼には吉岡先生の往診があるんだよね」


「往診? どこか悪いの?」


「うん。喘息のせいで、肺が痛くって……会うのは、お昼の診察が終わってからにしようか?」


 私は断固として、「いや」と言ってみせた。


「せっかくだから、朝から会おうよ。それでも遊び足りなかったら、また診察の後で会えばいいんじゃない?」


「本当に? 嬉しいな」と、静夫は目を細めて微笑んだ。


「じゃあ、僕が千夏ちゃんの家まで迎えにいくね。時間は、十時ぐらいでいい?」


 静夫が隆介に殺されたのは、十一時になる少し前ぐらいであったはずだ。

 それを頭の中で確認してから、私は「いいよ」と答えてみせた。


「でも、約束して。絶対に、日記帳を探したりしないでね?」


「うん、わかった。……でも、千夏ちゃんはどうして日記帳のことを、そんなに気にしてるの?」


 私は言葉に詰まりかけたが、すぐさま「別に」と答えてみせた。


「ただ、亡くなった人の日記帳を読むなんて、あんまりよくないのかなって思いなおしただけだよ。そこに何が書かれていたって……あんまりいい気分にはならないでしょ?」


「うん……そうかもね」と、静夫は寂しそうに笑った。


「それじゃあ、明日の十時に。約束、忘れないでね?」


「忘れないよ、絶対に」


 私がそのように答えると、静夫は最後にまた可愛らしい微笑をこぼして、来た道を戻っていった。

 私は大きく息をついて、川に渡された橋を踏み越える。そうして背後を振り返ると、静夫の姿はもう夕闇の向こうに溶けていた。


(きっと……これでよかったんだ)


 前回の静夫は、私が家に入る姿をじっと無言で見守っていた。その姿が、私にはどうにも不吉に思えてならなかったのだ。

 もしかしたら、静夫は私に遊びの誘いを断られたことで、鬱屈してしまい――それを、母親の日記帳を探し出そうという執念に転化してしまったのかもしれなかった。


(あの子が母親の日記帳を見つけたりしなかったら、頭のおかしな兄貴に殺されることもない。だからきっと、これでよかったんだ)


 無人の家に足を踏み入れながら、私はそんな風に考えた。

 静夫と隆介のどちらが私の祖父であるにせよ、こんな若くして死ぬことはありえない。彼らのどちらかは私の母親の父となり、もう片方は四十年後にも生き永らえているはずであるのだから――そんな運命は、絶対に間違っているのだ。


(いったいあれは、何だったんだろう。私が間違った選択をしたから、もういっぺんやりなおせってこと? ……そんなの、なんの意味があるんだよ)


 どうせ正しい運命を辿っても、私の祖父となる人間は交通事故で死に、もう片方は私の母親に恨み抜かれることになるのだ。そんな不毛な運命を辿りなおすことに、いったいどんな意味があるというのか。私には、さっぱり想像もつかなかったのだった。

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