行きつ戻りつ88歳 米寿のお祝いおめでとう

椎楽晶

行きつ戻りつ88歳 米寿のお祝いおめでとう

その日、彼は幸福な気分で寝床に入った。

明日は自身の88歳の誕生日。米寿べいじゅの祝いの日だ。



今は亡き妻との間に2人の息子。

それぞれが結婚し、孫が生まれ、その孫も結婚し、ひ孫も1人2人いる。

普段は離れて暮らしているが、今回は一堂に会しお祝いをしてくれる予定になっていた。


医療の発達した現在、平均寿命は伸び、老人でも無理のない運動ができる環境も整い、老いはしても矍鑠かくしゃくとし結婚後に妻と二人三脚で購入した場所で、今も1人で住んでいる。


流石にバリアフリーの行き届いた家にする、と数年前に立て直しをしたし

行政や息子たちの手配してくれた介護サービスに助けられているが、病院への付き添いや、買い出しの代行くらいなもので

1人で出かけるし、外食もするし、老後の生活を満喫していた。


孫やひ孫たちの様子が見れる映像通話が何よりの楽しみにし、

共通の話題作りのために、漫画やらゲームやらを嗜んでいるので

同じ歳のジジイ共に比べれば、電子機器にも強い方だった。


彼は、歳に似合わずアグレッシブで柔軟な思考をしており、物事を俯瞰ふかんで見ることのできる老人だった。


明日は、待ちに待った家族が集まる日だ。

この日のために、漫画や小説を読み込み話題作りの予習をしてあるし

各部屋の掃除は済ませ、なんなら布団も何組か干して宿泊の準備もしている。


老人は、ウキウキとした気持ちで非常に興奮していたが、

布団に入った途端に眠気が襲いかかってきてまぶたが重く、閉じていった。


そして、気がついた時、暖かくふくよかな胸にいだかれていることに気がついた。



88歳を前に、妙齢の女性の胸に抱かれているなど…普通に犯罪的な状況に驚愕し、離れようとするも柔い胸を押すだけでビクともせず、上げようとした謝罪の言葉は言葉にもならず『うあぁ〜』と不明瞭な音になっているだけだった。


「あらあら、起きちゃったの〜?」


と、優しく語りかけてくる女性の声は…忘れて久しい、母の声に似てはいないだろうか!?

驚いて顔を上げるが、逆光になっているのか鮮明には分からない。

しかし、込み上げてくる涙は一体、なぜなのだろう。

縦に揺すりながら、トントンと優しく背中を叩かれ安心するのに、どうしようもない懐かしさと切なさが心を支配して、全く思い通りに行かずに大声をあげて泣いてしまっていた。


88歳になるジジイだと言うのに…。その恥ずかしさで更に泣けてくる。



次に目が覚めたのは、布団の中だった。

今からは考えられないほど寝心地の悪い、薄い敷布団で畳の硬さで背中が痛む。


薄っすら暗い部屋の中に、細く長い光がさしており

それが少しだけ空いた襖の隙間の光だと理解し、無言で起き上がりそ〜っと近寄って隙間の向こうを伺う。


男と女。記憶の向こうに微かに覚えのあるその背中は、おそらく両親のもの。

卓袱台ちゃぶだいに向かい合い、静かに話をしている。

何かの記入が終わったのだろう、母が頭をあげて指から何かを抜き、傍においていた旅行鞄を掴むと静かに部屋を出ていった。

わずかの後に、玄関引き戸がガラガラと音をたて開いて、同じくガラガラと音を立てて閉められるのが聞こえた。


母が出ていったのだ。父と自分と、妹を残して。


突然の虚無感…いや、違う。これは一度体験した虚無感だ。

悲しいのか悔しいのか、置いていかれて捨てられていきどおっているのか…自分の感情を持て余し、処理しきれず遅いくる眠気に身を委ねようと、そ〜っと襖から離れ、布団に潜り込んだ。



次に目が覚めた時は、また少し大きくなったのだろうか?

視界に入る腕がまとっているのは、おそらく学生服の黒。

ならば、中学生か高校生か…目線の高さから中学生だろう。


目の前には、ボコボコに殴られた顔を更にドス赤くした父親が、酒臭い息を吐きながら喚き散らしている。

自分の胴には妹が必死にしがみ付き『殺したらいけん!殺したらおにいが捕まってしまう!!』と涙ながらに訴えていた。


思い出した、これは中学3年の秋。

必死に新聞配達と親戚の店の小遣いで貯めた高校進学と妹の中学制服のための金を、母と別れてからすっかりすさんで飲んだ暮れていた父に、酒とギャンブル代に盗られたと判明した日の出来事だ。


あの日、怒りで我を忘れた自分は止める妹も放り投げ、ひたすらに父親を殴り続け

ついには近隣住人に通報され補導されたのだ。

今では子供の貯金を盗むなど考えられないし、子供の稼ぎで家計が成り立っているなんて児童相談所の案件だが、当時は違った。

父親を骨折するまで殴る自分が補導され、前科が付き、結局高校には通えなかったし妹とも離れ離れになってしまったのだ。


飲んだくれの父親と前科持ちになった兄のいる妹、と言うことで爪弾きにされた妹は、そのまま世間に馴染めず…身を売りながら男の元を点々とし、若い身空で死んだのだ。違法な薬物の過剰摂取が原因だった。


ずっと心残りだった妹の存在。今ここで引けば補導はされないのではないか?


夢だと思いつつも、もしかしたら!?の感情に突き動かされ、しがみつく妹の手を掴み、煩く喚く父親に背をむけ家を出た。

秋の日暮れはすでに寒く、上着もなく飛び出したので指先から徐々に体温が失われていく。それでも、妹と繋いでいる手のひらは暖かった。



次にいた世界は、見たことのない世界だった。

知らぬ青年たちに囲まれ、過ごした記憶のない…テレビなどで見た大学の教室のような場所にいた。


『寝ぼけてんなや』と、笑いながら小突く隣の男。


あぁ、そうだ。

あの日、父親と決別し逃げ込んだ親戚の家に妹と共に引き取られ、高校・大学に通うための支援をしてもらえたんだ。


『もう就職も決まった優等生様は余裕やな〜』と目の前の男が嫌味たらしく笑うが、その顔には目出度い!と祝ってくれているのが分かる。


そう…祝ってくれている…祝って…。


「あぁ、ダメだ。これではダメだ」


突然に立ち上がった自分に、友人たちが不審の声をあげる。


しかし、それどころではない。

このままでは、自分は孫やひ孫どころか、


なぜなら、妻に巡り会えないからだ。


前科持ちゆえ、真っ当に職につけず、各地を転々としながらたどり着いたあの場所。あの家。あの家族だった。


義父が転勤と同時につい住処すみかにするために購入した家で、他県の大学に通っていた妻は就職を機に両親の居る土地に移ったのだ。


今、会いに行っても見つけられないし、それ以前の居場所は知らない。


過去を変え、今はとても良い状況だった。

妹は高校に通い友人に囲まれ毎日楽しそうにしている。

居場所を求めて、非行を繰り返し若くして死んでしまった運命から脱せたのだ。

前科もなく非行に暮れる兄妹ではないので、親戚との関係も良好だ。

最近は出ていった母親を探してくれて、たまに会うようになった。


心残りだった全てが良い方向に向かっていた。

しかし、あの日あの時の自分でない以上、妻に会えないかもしれない。


目の前が静かに真っ暗になり、倒れて気を失おうとしている自分に向かって『大丈夫か!?』『しっかりしろ!!』と、声をかけてくれる友人たち。

あの時の自分では、こんな気の良い真っ当な友人は出来なかった…。





怒鳴り声が聞こえて、力一杯にしがみつく細い腕の感触がする。

ゆっくりと目を開くと、ボコボコに殴られた顔を真っ赤にした父親が尻餅ついた状態で自分を見上げていた。


あの、全てが上手くいった状態の大学で、妻に会えない可能性に、息子にも孫にもひ孫にも会えない可能性に気がついて、必死に対策を練り実行した。


事前に出会った職場に就職したり、その土地の大学に入学して就職よりも前から待っていたり…出会った時と同じ時期に、引っ越しと転職をして、同じ流れで出会えるようにした。


しかし、どれもダメだった。

出会わなかった。出会っても付き合えても結婚できなかった。子供が生まれなかった。他の男と結婚した。その子供は、息子に似ていた…。


結局、ここに戻るしかなかった。

中学3年の秋。父親を殴りに殴り補導され、妹とは離れ離れになり親戚中から白い目で見られ、母とは2度と会えない。


必死にしがみつく妹を引っぺがし、涙を流しキツく唇を噛みながら夢中で父親を殴った。

パトカーのサイレンが遠くから聞こえる。大勢の靴の足音がして、何人もの大人の男に押さえつけられ拘束された。


妹は死に、父親は行方不明の後にどこかのアパートで孤独死していたと連絡があった。2人とも、引き取りは拒否した。

親戚からは白い目で見られ、援助もされず寒くひもじい思いで砂を噛むように身を引きづり生きた。結婚報告もしなかった。


息子が生まれた。成長し、独り立ちし、嫁をもらい子を授かり…孫やらひ孫やらが生まれた。


その途中で妻は体を壊し『子供たちの行く末を、いつか教えてください』と言い残して帰らぬ人となった。

細くなったその手を握り、楽しみにしておけと絞り出すように言った返事は

聞こえただろうか?




聞き馴染んだ目覚ましの音が聞こえ、窓の外ではスズメがさえずっている。

カーテンの隙間からほっそり見える光の線は、かつて見た襖の隙間の光だ。

寝ながら泣いていたのだろう、瞼は腫れ塩気でバリバリと皮膚が張り付く感じがする。


今日は息子やその嫁、孫にひ孫が米寿を祝って集まってくれるのだ。

泣き腫らした顔では出迎えられない。しっかり冷やさなければ。


父と妹。何かや誰かの犠牲で今の幸福を享受している。

まだまだ、その人たちの代償にするには幸福が足りない。


100歳まで生きてやるとも!!

妻への土産話は、大いに越したことはないのだから。




「…お祖父ちゃん、このお仏壇の写真の人たちだぁれ?」

「それか?それはジイちゃんのお父さんとお母さんと妹だよ」


妻と並べる、かつての家族の写真。

いつかはここに自分も並ぶ日まで、幸福に生きる責任がある。

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