カプグラのマリア
マルヤ六世
カプグラのマリア
「ねえ、和也。今日は何時に帰ってくるの?」
「……はぁ。だから、何回言わせるんだよ」
台所から急かされて味噌汁を啜る。近頃の母さんが作る味噌汁はちょっと味が薄い。米もいつもより柔らかめだし、鮭は少し焦げている。おかずの数も少ない。この朝食には違和感がある。でも、仕方がないことだった。
「和也、母さんはああだから、さっさと学校いきなさい」
向かいのソファで新聞越しに父がそう言う。違和感というのは無視したもの勝ちで、母がこんな風になっても父は変わらない。流し込むように朝食を終えた父は、そろそろ出勤するのだろう。
「母さん、ほら、医者に言われただろ。ご飯食べなくちゃ。それから薬。もう、頼むよ。俺、受験で忙しいのに」
兄貴が母に薬を飲ませている。医者がいうには、俺の母親はつかれているのだそうだ。そんなものを飲ませたって駄目だって俺はちゃんと言ったけど、俺だって信じていなかったのに、兄貴が信じるわけもない。
なにをしたって、もう無駄なのだ。優しくて多趣味で料理上手な母さんはどこにもいない。戻ってこない。
俺の母さんは、かわってしまった。
先週のことだ。
学校に母が来ていた。その時の俺は、のんきに進路についての面談かなにかだと思っていた。なんとなく母親が学校に柄もののスカーフを巻いてくるイメージがなくて、一瞬別人みたいに見えたことをはっきり覚えている。
でも、どう見ても俺の母親だったので声をかけた。
「母さん、わざわざ学校なんてきて。なにしにきたの? 恥ずかしいんだけど」
母さんの目はどこか虚ろで、からっぽの抜け殻みたいな顔をしてそこにいた。
「ねえ、和也。今日は何時に帰ってくるの?」
「部活あるから七時くらい。なんで?」
何時に帰ってくるか尋ねるのには何通りか理由があるだろう。
食事を支度する時間を決めるとか、用事があって留守にするとか。でも、その時は言外に早く帰るよう言われているみたいに感じた。早く帰って来いなんて、今まで言われたことはなかったのにそう感じたのだ。
「ねえ、和也。今日は何時に帰ってくるの?」
──学校の七不思議なんて知らなかった。
校内でたとえ母にそっくりな人を見かけても、違和感を感じたら無視しなければいけないなんて、そんな話は聞いたこともなかった。
そうしないと、母がかわってしまうなんて──そんな怪談話が自分の身に起こるとも思っていなかった。
母さんはあれから、あの日と同じスカーフを家でも巻いている。上から下まで全部同じ格好。声も髪型も表情も、しゃべる言葉も、毎食のメニューも同じ。けれど、それ以外はなにもかもが違う。
最初に気づいたのは食事の味付け。それから、毎朝のルーティンの、お天気占いコーナーを見ないこと。踊りのお稽古にも行ってないし、近所の猫にも声をかけない。食材は通販で同じものを注文していて、カーテンをしめきっている。
まるで充電しているみたいに昼寝をしていることが多くて、食事も食べさせなければ食べない。自分じゃ電話に出ないし、世話をしてやらないと人間みたいに生活できなくなっていた。
当然だ。多分、先週俺の母親は化け物にかわってしまったのだから。
俺はリュックを背負って、かわってしまった母親に背を向ける。
「ねえ、和也。今日は何時に帰ってくるの?」
母さんは同じことしか言わない。別人になってしまった。そんな話を誰も信じてくれるわけがないから、俺は母さんのフリをする偽物を今さらになって無視している。
「ねえ、和也。お母さん、つかれちゃった。もう、かわってもいい……?」
いつもと違う言葉だった。なんだよ、偽物のくせに。何が言いたいんだよ。鬱陶しく感じながら振り返って、俺は息をのんだ。
──母の後ろには、たくさんの母が並んでいた。
同じ髪型、同じ格好の母たちが大量に存在し、母の後ろから俺に向かって微笑みかけてくる。目の前の母がこんなにも苦しそうなのに、後ろに並んだ母たちは見覚えのある優しげな笑みを浮かべてゆらゆらと揺れている。
「この間から毎日、毎日、みんながいない時間にね。この人たちが家の外から代わってって言ってくるの。こわくて、こわくて、もう、つかれちゃった。なにもしたくないの、何を言おうとしたか、いつもわからなくなっちゃって、同じこと言っちゃって、ごはんも、めんどくさくて、ごめんね、お父さんはああでしょ。お兄ちゃんももう、受験で忙しいし、おかあさんはもう、眠くなっちゃったし……」
俺は──俺はとんでもない勘違いをしていた。俺が邪険に扱っていたこの人こそ俺の母さんで、そんな俺たちの態度がさらに母さんを追いつめたのだと、今の今まで気づけなかった。
ぼんやりとした表情の母さんの後ろから、穏やかな顔の母さんが顔を覗かせる。そうして、母さんを押しのけて、前に出てこようとした。
俺にはなんとなくそれが恐ろしいことのように思えた。あの大量の母さんの代わりが一人でも母さんより前に出たら、それで俺の母さんは本当にいなくなってしまうような気がした。
「……待って! 待ってよ! 代わらないで! 俺、家のこと手伝うし、ごめん、母さん! 今まで通りの味付けじゃなくていいよ! 毎日頑張ることないよ! だけど、母さんの交代は、しないで……! わがまま言ってごめん! でも俺は……俺は母さんがいいよ!!」
必死で、母さんの前に出てこようとする母さんたちを押し戻す。母さんと同じ顔をした人たちを突き放すのは心が痛んだ。けれど、俺はさっきまで本当の母さんに同じようなことをしていたのだ。この一週間、俺はなにをしていたのだろう。
俺はバカだった。
「頼むよ、頼むからかえってくれ! 母さんを代わらないで!」
無我夢中で母の偽物たちを押し戻す。母の代わりをしようとするそれらは、今までの優しくしっかりものの母さんの表情をしていて、それが俺には不気味で仕方なかった。
どれだけの時間そうしていただろうか。気づけばそこには、倒れた母さんと俺だけがいた。
細かいことは覚えていない。とにかく慌てて父と兄と救急に電話した。俺の声がよっぽど鬼気迫っていたらしく、父と兄はすぐ母が運ばれた病室に来た。仕事や学校を抜け出すタイプじゃなかったから、俺は正直驚いた。
母さんは点滴をつながれて、三日間も目覚めなかった。あの時のことは一切覚えていないらしい。
「夢の中で、目の前に手があったの。タッチしたら楽になれる気がしたのに……和也が泣いてる気がして、慌てて走ってもどってきたの」
「泣いては……いたかも」
母さんはしばらく入院して、今では回復したけど、やっぱりつかれやすいという。晩御飯が菓子パンのこともあるし、学校に提出する書類のサインを忘れることもあるけど、俺はそんなことくらい、どうだってよかった。
もしも、あの時俺がもう少し早く学校に行っていたら──もしも、母さんの言葉に違和感を感じてふり返らなかったら。
学校から帰って「いままで通り」の気が利くしっかりものの母さんにほっとしていたのかもしれない。
そう思うと、恐ろしくてたまらない。
カプグラのマリア マルヤ六世 @maruyarokusei
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