【KAC20225】ヨネさまのお迎え

井澤文明

88歳

88歳


「米家の8月生まれの子供は、88歳になる前の夜、『ヨネさま』が迎えに来る───」


 8月生まれだった米寿よねひさしは幼少の頃から、父母に、祖父母に、叔父叔母に、いとこに、親戚全員にそう言われていた。米家に代々伝わる、古い言い伝えだ。

 そんなことを思い出しながら、寿は老人ホームの自室の天井を、ベッドに横たわりつつ見つめた。


 ───俺は、今日死ぬ。


 87歳になり、8月4日生まれの米寿は、88歳を迎える。つまり、ヨネさまが迎えに来るのだ。

 寿は信心深い訳でもないし、昔から呪いや占いの類も信じていなかった。だから当然、ヨネさまも信じていなかったのだ。

 しかし、そんな彼がヨネさまの存在を信じ始めるようになったのは、同じ8月生まれの大叔母が88歳の誕生日の朝、布団の中で亡くなっている所を発見されたからだ。


 ヨネさまの言い伝えは本物だった───


 寿は自分の上にかけられた薄い毛布を握りしめる。心臓の拍動が早くなる。彼は自分の心臓の鼓動が身体中に響き渡っているように感じた。冷えた汗がとめどなく流れ出し、体を覆う。

 寿が利用している老人ホームでは、窓は簡単に開かないようになっており、また夜中はカーテンがかかっているため、外の景色は分からない。

 だが外は強い風が吹き荒れ、木々が揺らされていることだけは分かる。

 窓ガラスに木の枝が当たり、大きく音が鳴るたびに、彼は飛び上がり、布団の中で縮こまった。あらゆる音が、影が、小さな動きが、彼の心を小さくした。


 米寿は、老人ホームの一室で一人、眠れない夜を過ごした。

 ヨネさまが迎えに来るのではないかと、その瞬間をから今か今かと待ち続けていたのだ。そしてヨネさまが、一体どんなに姿形をしているのか、あれこれ考え始めると、死の恐怖が彼を襲い、余計に眠れなくなる悪循環に陥っていた。

 しかし、結局、彼の前には誰ひとり現れず、寿は待ち侘びていた朝を迎えた。


 彼は、この馬鹿げた一夜の出来事悪夢を老人ホームで仲良くなった、将棋仲間の田中さんに伝えた。


「───ということがあったんだよ。心臓発作で死ぬかと思いましたわ! 怖がって損した〜」


 田中さんは将棋盤に駒を並べつつ、感心したように言葉を返した。


「それは災難やったなあ、米さん。じゃあ、今日が誕生日なんかい?」

「ああ、そうだね。8月4日に生まれたんだ。特別暑い日で大変だったと母に言われていたよ」


 田中さんは駒を置く手を止め、老眼鏡をかけた細い目で寿の顔を見つめた。


「今日は3日やで、米さん。4日は明日や」


 翌日、米寿はベッドの上で眠るように亡くなっている所を発見されたと言う。

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