宵の飴色
霞 茶花
第1話
雲無く晴れた、満月と星が綺麗だった、夏のある夜のこと。一人の男があてもなく、森を彷徨っていた。その男は、吸血鬼の旅人だった。
外見は二十代半ばを少し過ぎたくらい。血色を欠いた灰に近い色彩の頬に、長い野宿によって形作られた、ぼさぼさの黒髪。体躯はひょろりと細長く、姿勢がやや猫背。纏う着衣も土と埃を被っていて、彼の姿は旅人というよりも、枯れ木か物乞いのよう。
しかし、深紅の双眸から迸る眼光だけは鋭く、貪欲な視線を周囲へ向けていた。
彼は、空腹だった。
吸血鬼として高潔でいたかった彼は、長い旅の中で、人血以外を啜ろうとはしなかった。森の恵みも、木々、花々の蜜も、全て嫌悪した。不運なことに、そして、森の中を出ようとしなかった彼には当然のことに、人と巡り合うことなどなかった。
そんな最中、男は森の入り口に小さな料理店を見つけた。満月が天頂に近い頃だったが、まだ店の中は明るく、窓へ近づくと、若い娘が忙しく後片付けに追われている様子が伺えた。
店は既に閉店済み。おまけにこの娘が一人で店を切り盛りしているようで、彼女以外の人影はない。
男は旅を始めた頃と比べれば、随分軽くなった体重で、軽やかに歩み、closedの札が掛けられた出入り口の扉の前に立った。ご機嫌なノックを三回。扉越しにパタパタという足音が鳴って、扉の取っ手が下に沈んだ。
来客を知らせる小さな鐘声と共に、娘が顔を出した。警戒というよりは、真夜中に訪れた旅人に好奇心を抱いているようで、大きな琥珀の眼が、無礼にならない程度に男を見つめていた。
男も娘を一瞥する。もはや屈む体制に近い猫背とはいえ、彼は長身で、娘は小柄だ。男は見下ろし、娘は見上げる状態で、互いの視線がぶつかり合う。
ふわりと小さな顔を包むは栗色の髪。唇は、陽だまりに咲く花を彷彿とさせる、柔らかな薄紅色をしている。動きやすく、余計な装飾の無いエプロン姿という出で立ちが、純朴な魅力に溶け込むように調和していて。
量は望めなさそうだが悪くないと、男は心の内で呟いた。
「旅の者だ。道に迷った。今晩泊めてくれないだろうか?」
「もちろんです! どうぞお入りください!」
微塵も娘は疑わず、男を店へ招き入れた。
無論のこと、店は客のいない、夜の森の伽藍堂だったが、染みついた料理の香り、喧騒の残り香、可愛げに活けられた野花の匂いが、温柔さで空間を満たしている。娘の優しい華やかさも相まって、共に寂寞を溶け消していた。
男は、座れば向かい合う形で椅子が置かれた、二人掛けの席へ案内された。すぐさま卓布が掛けられ、おしぼりが置かれて準備が整う。
「少しお待ちください! 当店自慢の『店主の気まぐれ具沢山スープ』を作ります!」
高らかな宣言の後、娘は勤勉に動き回り、洗い終わらなかった皿の山を流しの隅へ押しのけ、ひっくり返して乾かしていた大鍋を引っ張り出して、すぐさま調理に取り掛かった。手繰り寄せた籠には、多種多様の食材が詰め込まれていた。まさに、気まぐれなのだろう。
先に小鍋で湯を沸かし、沸かした湯を大鍋に注いで火をかける。籠から幾つか食材を取って、見て、嗅いで、確認してから器用に刻んだ。沸騰のコポコポという旋律に、ざくざくという陽気な律動を刻み込んで。娘は楽しそうに調理に興じていた。
充分に煮込んで、娘は大鍋から、これまた大きなお玉を使い、溢れんばかりの具と飴色の液体を掬いあげた。木製の器に手際よく盛って、満足そうに頬を綻ばせる。
「できましたっ!」
真昼の陽光を彷彿させる声で、娘は言った。跳ねるように料理を運び、湯気昇るスープを男の眼前に置く。
「……!」
男は思わず、深紅の双眸を見開いた。
鼻腔に満ちる、数多の食材と、ふんだんに、けれどきちんと食材を引き立て調和した、香辛料が織りなす濃密な香り。まろやかなそれを噛みしめて、男は口内に溜まった唾液を飲み込む。そうして、一呼吸遅れて驚いた。料理を食べたわけではないのに、と。
「今日はもう遅かったので、気まぐれといっても、残り物で申し訳ないですが……。頑張りましたよ! 冷めないうちに、どうぞ!」
正面を見れば、頬杖をついた娘と視線が重なった。どうやら、一口頂くまではこのままのようだ。
男は匙を、恐る恐る眼前のスープに浸す。すると、待っていたと言わんばかりに飴色が匙に滑り込み、続いて我先にと具材達が匙を取り囲んだ。ごろごろと主張する具材の中、とりわけ大きな一つを載せて匙を引きあげる。湯気すらも吟味するように、ゆっくりと口へ、今にも勝手に飛びついてしまいそうな、舌の上へ。
甘味が、旨味が、芳醇な衣が、口腔を満たして弾けた。砕けば砕くほどに溢れる味が。優しく味覚に訴える甘さに、
咀嚼して、嚥下して、もう一掬い。男は、何度も何度も口へ運んだ。
そんな一心不乱な男を、娘は楽しそうに眺めていた。
あっという間に器は空っぽ。名残惜しそうに最後の一滴を舐めとる男を見届け、
「どうでしたか?」
サナはにこやかに尋ねた。
「……悪くは、ない」
「おかわりまだあるけど、どうしま」
「くれ。全て」
夜も一層深くなり、満月が天頂に来る頃。
「ほっ本当に行かれるのですか? 泊まって行かれないのですか?」
「ああ。野宿はもう慣れたし、俺は夜目が利く。それに……いや、何でもない」
男は娘にそう答えた。既に男は店の扉の外側で、二人は扉の木枠を挟み、言を交わしている。
「とにかく、助かった。ありがとう」
頬を淡く桜色に染めて、娘は、
「いえ、お礼なんて……。私こそ、嬉しかったです! ありがとうございます!」
背を向け歩き出した男に届くように、精一杯叫んだ。
「私、サナっていいます! よければまた!」
身体の奥で流動する温かいものと、背中越しに伝うサナの声を感じながら男は闇夜の森へ消えていった。
それから毎夜。男は閉店後のサナの店に通うようになった。すっかり彼女の料理の虜となった彼は、次第に後片付けやら屋根の修繕等、食事の後には彼女を手伝うようになった。
比例して、二人が共に過ごす時間も長くなってゆく。男は閉店前から店に入り、客の視線を避けて支度することも多くなった。
吸血鬼界隈では、冷血のヴォルが人間の娘になびいていると、話題の種になっていた。
時期は秋の初め。その日は雷雨だった。朝から晩まで黒雲は天地を隔て、快晴続きの八つ当たりのつもりなのか、絶えなく雨粒を打ちつけていた。
店内に、サナを除いて人間はいない。因みに吸血鬼は、今日はまだ来ていない
「今日は、来れないよね」
サナはため息交じりに独りごちた。
窓を伝う雨粒の軌跡は途切れることなく。むしろ、夜に近づくにつれて激しさを増すように思えてしまって。
昼はとっくに過ぎているのに、今のところ今日のお客さんは、隣村の木こり二人だけ。やはり、暴雨掻い潜ってまで森の麓という辺鄙な地の店を訪れる物好きは数少ない。
でも、
「来てほしいなあ」
来客を告げる鐘声が、雨音に紛れながらもサナに届いた。うたた寝から飛び起きて、そのままの勢いで扉へ駆ける。
「いらっしゃいま、せ……」
立っていたのは、三人組の男だった。背丈は皆、サナより頭一つか二つ分だけ高いくらい。血色の無い肌、深紅の双眸。彼ではなかった。
三人ともずぶ濡れの黒の外套に、洒落たシルクハットという風体で。
真ん中の男が、へらへらと頼りない笑顔を、サナへ向けた。
「道に迷ってしまってねえ。少し、雨宿りをさせてもらえないかな?」
落胆の表情はほんの刹那。いつもの笑顔を咲かせ、
「もちろん、どうぞお入りください! ずぶ濡れですね……。何か温まるもの持ってきます!」
靴の泥を落とさせてから、案内した。
「ああ、ありがとうねえ」
三人が互いに目配せし合ったのを、深紅に宿る貪欲な光を、サナは知らない。
「はあ、今日に限ってこれか……」
なんとかサナの店の軒下に逃れたヴォルは、悪態交じりに独りごちた。水分を吸って重くなった外套を片手に預け、もう一方の手で外套の内側から小さな木箱を探り出す。全身で守ったお陰か、染み一つなく無事だったようだ。
「気に入ってくれたら、いいのだが」
扉の取っ手に触れて、いざ開けようとしたその時。聞き覚えのある野太い笑い声が、扉を隔てて飛んで来た。
声の主は、彼らは、
吸血鬼。
はっと窓に視線をやった。確認できる人影は三人。小柄で華奢な、あの姿は無く。
「サナ!」
鐘声を掻き消して、無意識に声が出ていた。打ち破るが如く店内へ踏み入って、
「何故お前らがここに居る!」
一番手前で、電球をいじっていた一人を詰問する。
「だ、ヴォルの旦那あ。静かにしねえと」
「しなければ何だ。サナは、店主は何処にいる?」
「落ち着いて下せえ。別に、俺達は」
「……ヴォルさん?」
吸血鬼達の鋭い応酬を、鈴を転がすような可憐な声が遮った。
長椅子に横になっていたサナは、むくりと上体を起こすと、大きく丸い目をさらに丸くしてヴォルを見つめる。そして、
「ヴォルさんっ!」
声も身体も弾ませて、彼に駆け寄った。無邪気な笑顔で見上げるサナと、呆然と見下ろすヴォル。
「いらっしゃいませ!」
気が付けば、あの濃厚なスープの香りが既に鼻腔に満ちていた。四人掛けの卓には、完食された空の器が重ねられて。
彼らも同じように。彼女の料理に口説かれたのだ。
サナ曰く、彼らは料理のお礼として、手伝いを買って出たのだそうで。彼女が疲れ眠っている間に、電球の交換や店内の掃除をやってもらっていたという。
それ以来、吸血鬼をも虜にするサナの店の噂は広まり、夜の浅い時間帯まで営業が伸びた。
そして、より忙しくなったサナの店では、血色の悪い、黒髪赤眼、長身猫背の従業員が働き始めた。
不思議なことに、店主と彼の薬指には、看板料理と同じ色彩の、飴色の指輪が嵌められていた。
宵の飴色 霞 茶花 @sakushahosigumo
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