まだ半分しか生きていない

味噌わさび

第1話 老人と中年

「……はぁ」


 俺はベンチに座って肩を落としていた。


 最近、何をやっても上手くいかない。上司からは怒られるし、同僚からは馬鹿にされる……44歳になっても、なんだか自分に自信が持てなかった。


「どうしたね。兄ちゃん」


 と、いきなり話しかけられた……ような気がした。俺は声のしたように顔を向ける。


 いつのまにか、隣に高齢らしい男性が座っていた。


「え……あ、あの……」


「あぁ、別に気にせんでええよ。私は暇な老人だから」


「はぁ……えっと……どうしたと聞かれても……」


 いきなり話しかけられて、見ず知らずの老人に何を話せというのか。俺は戸惑ってしまった。


「兄ちゃん。何歳だい?」


「え? 44歳ですけど……」


「なんだ、まだ44歳か。若いな。私は兄ちゃんの2倍生きてるぞ」


 老人は得意そうな顔でそう言った。88歳……にしては、若々しい老人だった。


「何か、困っとるのか?」


「あ、いえ……最近、なんというか……あまり上手く行かないことが多くて……」


「上手くいかない? そりゃあ、そうだろう。私だって88歳になっても上手くいかないことがあるんだ。まだ私の半分しか生きていない兄ちゃんにだって、当然あるだろうな」


 ……老人は別に俺の相談に乗ってくれるというつもりではないようだ。かといって、不快な気分ではなかった。


 と、老人はゆっくりと立ち上がった。


「明日も、ここに来るから。兄ちゃんも来なよ」


「え……ちょっと……」


 俺がそう言い終わらないうちに、88歳とは思えないほどの軽々しさで老人は歩いていってしまった。


 それから、俺と老人は毎日ベンチに座って会話……というより、老人の説教のような話に、俺が付き合う感じとなった。


 会話自体はほんの数分くらいだったが、いつも老人は満足そうな笑顔で立ち上がり、軽やかに去っていく。


 そんな日がずっと続く……と思っていた。


 しかし、ある日を境に老人はベンチに来なくなってしまった。


 何かあったのか……と思っても、俺には老人と連絡する手段がない。


 俺はひたすらベンチに座って、老人がやってくるのを待つしかなかった。


 いつしか、自分が上手く行かないことなどどうでもよくなっていた。


 老人の言う通り、上手く行かなくて当たり前なのだ。


 俺はまだ、あの老人の半分しか生きていないのだから。


 そして、それから、数日経った、ある日のことだった。


 俺はベンチで老人を待っていた。老人は今日も来ない……そう諦めていた時だった。


「あの……」


 と、誰かに話しかけられた気がした。見ると、大学生くらいの女の子がそこに立っていた。


「え……何か?」


「……お祖父ちゃんと話していた人、ですよね?」


「え……お祖父ちゃんって……もしかして……」


 俺が驚いていると、女の子は申し訳無さそうに頭を下げる。


「……お祖父ちゃん、この前、亡くなって……入院したあと、ずっと話してたんです……ベンチの兄ちゃんに申し訳ないって……」


「あ……そ、それは……ご愁傷さまです……」


 衝撃的な展開に俺はまだ現実を捉えられていなかった。


 あの老人が亡くなった……信じられないことだった。


「その……お祖父ちゃん、何の話をしてたんですか?」


「え……いや、特には……」


 すると、女の子は泣きそうになりながら、俺のことを見る。


「教えて下さい……私、ずっと引き籠りで……もう22歳なのに……お祖父ちゃんにもずっと心配かけてたから……でも、全然、色々、上手く出来なくて……」


 それを聞いて俺は思わず22歳という年齢に反応してしまった。


「……まだ、自分の半分しか生きていない」


「え……?」


 俺は少し照れくさいとは思ったが、正直に言うことにした。


「まだ、自分の半分しか生きていないって言われましたよ。お祖父ちゃんには。俺、44歳なんで」


「44歳……あ……」


「えぇ。だから……君も上手く行かなくて当然なんじゃないですか。まだ、俺の半分しか生きていないんだから」


 女の子は目を丸くして俺のことを見ている。


 その表情はまるで……老人に初めて話しかけられた時の俺のようなのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

まだ半分しか生きていない 味噌わさび @NNMM

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ