第3話
カレーを食べる手が自然と止まった。
どうして…か、
どうしてだろう。
正直自分でもよく分からなかった。
「なんとなく、いつも歩かないような道を歩きたくなって、歩いてたら見つけた…って感じです」
こんな曖昧な説明で伝わるかな、と不安に思う。
でも私の心配を他所に、女の人は窓の外を見たまま柔らかな笑みで相槌を打ってくれた。
「そうなんですね。…なんでいつもと違う道を歩きたくなったんですか?」
えっ…
…
たしかに、何でだろう。
学校が終わって駅まで歩いている時は本当に家に向かう電車に乗るつもりだった。
でも、いざ電車の前に立ったら驚く事に、足が動かなかったのだ。
心にぽっかりと穴が空いたような、どことなく力が入らないような。
そんな感じがして「なんとなく」でただただここまで歩いてきた。
「…なんとなく、いつもの道を通りたくなくて」
また曖昧な返答になってしまう。
でも、自分でも理由がよく分かってないのだからしょうがない。
「そうなんですね」
女の人は窓の外を見たまま、優しく目を細めて穏やかに言う。
沈黙が来る。
会話が終わったと思って、またカレーを食べ始めた。
…美味しい。
本当にこのカレー美味しいな。
そう思った時、ふと本当に「なんとなく」で歩いてきたのかな、何か理由があるんじゃないの?と自分で自分に疑問を抱いた。
何で、いつもと違う道を歩きたかったのか。
カレーをゆっくりと噛みながら、理由を探す。
柔らかくて、少し大きいジャガイモを口に入れた時
あ、理由、分かったかも。
と、思った。
「たぶん…焦ってたんだと思います」
私が何の前触れもなく喋り出したのに、女の人はびっくりすることなく、ゆっくりと私の方に視線だけを向けた。
それを視界の端で感じて、私の声が聞こえている事に少し安心した。
目の前のカレーを見ながら独り言のように喋る。
「周りの子たちは、将来やりたい事だとか、将来就きたい職業だとか、何かしらの『将来の夢』を持っていて…」
ここまで喋って一呼吸置く。
次の言葉を言うのに少し躊躇したから。
気付きたくなくて、知らないふりをしていた事だった。
でも、この美味しいカレーを食べていたら、自分の心が見えてしまって気付いてしまった。
もうこれ以上「なんとなく」で誤魔化せなかった。
「…私『将来の夢』が無いんです。…将来なりたい職業もなくて」
言葉を一言、一言ゆっくりとカレーに落としていく。
「やりたいことが分からないんです。何をしたいか分からなくて。…どの道に進めば良いのか分からなくて、先が見えない毎日で、でも早く将来について決めないといけなくて。でも決まらなくて。…それで焦ってた、んだ。わたし…」
喋りながら、気が付いた。
私、どこに進めば良いのか分からなくて未来が見えなくて不安になってたんだ。
それで焦ってた。
どうして自分のことなのに、分からないんだろう。
どうして周りの皆んなは将来の夢があるのに、私だけ無いんだろう、って。
心にあった黒い塊の正体が分かって、少しスッキリする。
「そうだったんですね」
女の人の優しい声が降ってきて、カレーから視線をそちらに向けた。
女の人はさっき通りの穏やかな表情をしていた。
でも何故だかさっきよりも眉が少し下がっていて、そして本当に嬉しそうな顔をしていた。
この人の身に纏う空気とか、表情を見ていると心がとても落ち着く。
自分でも気が付かない気持ちを、自然とひきずりだしてくれるような。
そんな事を考えながら女の人の事をぼうっと見ていると、女の人が首を軽く傾げ、小さく口を開いた。
「やりたいことが無くても、『なりたい自分』があれば良いと思いますよ」
なりたい自分…。
でもそれって将来の夢とどう違うんだろう…?
私の抱いた疑問に答えるように女の人が穏やかな笑みを浮かべて言葉を続ける。
「『将来の夢』って言うと、大きい事に聞こえるけど、『なりたい自分』はもっとそれよりも小さい事で良くて。
例えば、優しい自分になりたいとか、今好きな趣味をもっと極めている自分になりたい、とか。
どんな小さな事でも良いから、どんな自分になりたいか。どういう風に生きたいか。
そういうのを見つけて、それに向かうように毎日を過ごしていれば、自然とやりたい事とか、夢が見つかるんじゃないかなって思います」
女の人の話を聞いて、
そんな考え方もあるんだ…
と思った。
『どんな小さな事でも良い』っていう考え方が。
「本当に、どんな小さな事でも良いんですかね…」
私がぽつりとこぼした言葉に、女の人がゆっくりと穏やかな口調で返す。
「私は良いと思ってます」
それを聞いて、心の底から自分の気持ちが一気に湧き出てきたような感じがした。
『なりたい自分』って聞いて、一瞬頭に浮かんだ言葉。
でもそれを言ったら馬鹿にされると勝手に思って、すぐに打ち消した。
だけど、今の女の人の言葉で、その打ち消した言葉がまた浮かんできた。
今度はさっきよりも強く。濃く。
きっとこの人なら私の小さな小さな『なりたい自分』を、馬鹿にしないと思ったのだ。
「私、あるんです。『なりたい自分』が…」
そこまで言って、軽く深呼吸をする。
自分の心の内を誰かに言うのはこんなにも怖いものなんだな、と思う。
それが大切な分、否定された時のダメージが大きいから、普段は隠している。
否定されて傷つくくらいなら最初から知らないふりをする。
そうやって私は今まで自分を守ってきた。
自分を誤魔化すことで、自分を守ったつもりだった。
でもそれは、守っているようで、同時に自分の本当の気持ちを蔑ろにして、自分を傷つけていた。
今その事に気がついた。
もう自分の事を誤魔化すのはやめる。
私の気持ちを言葉にするために、大きく大きく息を吸った。
「私、『すてきな人』になりたいんです」
言葉にした瞬間、心臓がバクバクと音を立てる。
バクバクし過ぎて、もう嫌だ、と思った。
でも、逃げない、ちゃんと言うんだ、と自分で自分に言う。
自分の事なんだから、自分が言わなきゃ。
「人に当たり前のように優しくて、それでいて可愛くて、あと何よりキラキラしてる。
あの、すごくこう漠然とした感じなんですけど、えーっと、…なんて言うか、自分も周りの人も笑顔にできるような。
そんな人になりたくて」
言葉にしていくとどんどん恥ずかしくなってきた。
だって、今の自分とはかけ離れてすぎていて、身の程知らずな気がした。
でも、これが私の『なりたい私』に変わりはないんだからしょうがない。
今から少しずつなっていけば良いんだ。
自分で自分を納得させるように心の中で言い聞かせる。
「…とってもすてきな夢ですね」
春の日差しを受け続けた花のような柔らかい笑顔で女の人が言う。
その瞬間、喉の奥に何かが込み上げて来た。
暖かくて、くすぐったくて、少し酸っぱくて、でもとても嬉しいような何かが。
目の方にも込み上げたらしく、目頭が少し熱くなった。
「それに、その夢、絶対叶いますよ?」
女の人が初めてイタズラをするような顔で笑顔になる。
初めて見せた表情と、確信したような言い方に驚いて思わず聞き返す。
「どうしてそう、言えるんですか?」
私が聞き返すと、女の人はまるで春の暖かい風のように微笑んだ。
「だってそのカレーの名前、『食べると夢が叶うカレー』ですから」
『食べると夢が叶うカレー』…
心の中でカレーの名前を復唱する。
…ぷっ、
…ふふふ、
思わず口から声が漏れた。
抑えようとして口元に手を当てたけど、かえってそれが声を増幅させたようでもう抑えきれなかった。
「あははは…!なにその名前…!あははは!!」
お腹の底の底から、笑いが溢れ出て止まらなかった。
こんなに心から笑ったのは本当に久しぶりだった。
「ええ、そんなに変な名前ですか?」
私が大笑いしているの事に女の人が戸惑っている事が、さらに私の笑いを誘った。
「だって…、ぷっ、ふふ、あははは!!」
笑い過ぎて涙が出てきた。
全然止まらない涙と、笑いとが合わさって弾ける。
窓から差し込む日差しが私の笑顔と、女の人の戸惑いながらも嬉しそうな顔を、穏やかに照らしていた。
「あはは…もう、そろそろカレー食べなきゃ冷めちゃうね」
カレーの事を思い出し、まだ笑いがちゃんと収まってないまま、カレーを食べ出す。
胸の奥から喉に込み上がってきていたくすぐったい何かと、カレーの味が混ざって、さっきと少し違う味に感じた。
少し酸っぱくて、甘くて、優しい味。
でも、とってもとっても美味しくて、あっという間に全部食べてしまった。
その間、どうしても笑いが収まらず、窓から差し込む暖かい日差しを感じながら私はずっと笑っていた。
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