88

直木美久

第1話

 この歳になると自分の年齢なんて覚えていない。

 でも今朝、デイケアに行ったら、

「愛花さん」

とスタッフの大沢君が椅子に座る私の隣にしゃがみこんで、そう私を見上げた。

 おそらく耳に聞こえやすいよう隣にやってきて、上から見下ろさないようにしゃがみこむように指導されているのだろう。

 最初はひどく違和感を覚えたが、ここに通うようになって、多分十年くらいが経ち、さすがに慣れてた。

「今日はお昼ご飯のデザートにケーキがつきますよ。明日はお誕生日ですから。デイケアのない日で残念です。」

 私はゆっくりとうなずく。

「あぁ、そうでしたか。三月ですものね。すっかり忘れていました」

 大沢君はまだ若く、三十手前くらいだろうか。笑うと鼻の頭にしわが寄る。私のお弟もそうだった。去年亡くなってしまったけれど。

「米寿なんですね。盛大にお祝いしないと。息子さん、来られるんですか?」

「週末に遊びに行くって、電話をもらいました」

 私も思わず微笑む。

「誕生日だなんて、忘れてましたけど」

 米寿か。

 大沢君はニコニコ笑って、寒くはないですか?と確認してからスタッフルームに戻っていった。

 それからお昼のお弁当と、ケーキも一口だけ食べた。熱はないが、朝からひどく体がだるかった。

 いつも通り、帰ってきたのは三時。バスからは下校途中の制服姿の高校生が歩いているのが見えた。まだ桜は咲いていない。

 88年。

 長い人生だった。

 私にも確かに、あれくらいの頃があったのだ。

 あの制服は私が学校に行っていたころと全く同じ制服だ。髪型もスカート丈もあのころとは違うのに、服だけはそのままだった。

 紺色のベストにスカート。白いワイシャツは母がいつもきれいにアイロンを掛けてくれた。私が53歳のころ、母は亡くなった。83歳だった。

 母の年齢も追い越して、私はこうしてぼんやりと送迎バスに乗っている。週に三回のデイケア。

 学校みたいなものだ。

 そう思って一人、思わず微笑んだ。人間は生まれて、大人になって、また子供に戻っていく。祖母の介護をしていた母の言葉だ。

 家に帰るとひんやりとした空気の家が待っている。

 三十年ローンで買った家。60歳で夫が他界するまでは二人で住んでいた。その前、息子が25歳で一人暮らしを始めるまでは、三人で住んでいた。

 今は、私が一人で住んでいる。

 誰もいない家は、時間が止まっているかのように、空気が冷たい。

 私は身震いをして、エアコンを入れ、仏壇に一度、手を合わせる。

 何をするわけでもない。

 四時にお弁当宅配サービスがやってきて、受け取り、お風呂に入ってから、その弁当を食べ、七時には就寝。

 毎日、毎日、同じことの繰り返しだ。

 何か趣味でも持てばよかったと、痛感している。仏壇の前に座り込んでいると、様々な思い出が押し寄せてきた。

 夫はクラシックギターが好きだった。今でも寝室のクローゼットに二本眠っている。

 ただいま、と彼の声がする。

 おかえりなさい。あら、ギター買ってきたの?

 そう、君もやったらいいと思ってね。

 突然どうしたの。私、音楽苦手よ。

 彼はしかし、週末私にギターを持たせて説明し始める。まだ息子の康二がハイハイをしていた。

 ねぇ、だめよ。やっぱりできないわ。

 大丈夫だよ。すぐにできるようになるから。君も少し趣味を持った方がいいよ。

 あら、趣味は読書よ。

 それだけじゃない。何か一緒にできることがあれば、老後楽しめるでしょう?


 夫には、リタイア後、楽しむ時間もほとんどなく亡くなった。趣味の多い人だったのに。

 まぁデイケアというものがあって、私は助かっている。


「この家にいても誰とも話すことないもんなぁ。」

 それにね、今日いた大沢君ってちょっとあなたの若い頃に似てるのよ」

「18だったっけ?僕たちが出会ったのは」

 そう。私、あの日お誕生日だったの。嬉しくて朝からワクワクしてたのに、定期落とすなんて。

「でも僕がすぐなら届けたから、よかったでしょ?」

 学校で気付いて、帰りの電車までとても辛くて重い気分だったわ。定期の落とし物がないか確認しに駅長室にいったら、あなたが持ってきてくれてて…

「ああいうのを、運命っていうんだよ」

 どうでしょうね。でも、色んなことがあったわね。

「そうだね」

 あなたは特にチャレンジ精神旺盛だから。

「そうかな?」

 あなたより、私が先に逝くべきだったわね。

「どうして?」

 だってもっとやりたいことがたくさんあったでしょう?私にはないもの。

「そんなことないと思うよ」

 何も持たずに87まで生きてしまったわ。明日で88ですって。

「末広がりだね。めでたいよ」

 ねぇ、10代の頃、自分がおじいちゃんになるって、あなた考えたことあった?

「全く」

 あなた、おじいちゃんになる前に亡くなってしまったけど。

「そう言うなよ」

 気の遠くなるような年月よね。

「本当に」

 あなたが逝ってから、康二も結婚して、孫が産まれたの。私、おばあちゃんよ。

「うん、見てたよ」

 孫の杏奈も結婚するらしいから、今度はひいおばあちゃんかしら。

「あっという間だろうね」

 特別長生きしたいだなんて思ったことなかったけど、まぁ色んなことがありすぎて、いいとも悪いとも言えない人生だわ。

「悪い?」

 少なくとも悪くはないかしら。あなたがずいぶん早く逝ったことを除けばね。

「悪かったなぁ」

 いいえ。でも、もうそろそろ、私も行こうかしら。なんだか疲れたの。だって、あなたの声がするし………



 ベッドから飛び起きて、洗面所にむかう。

 あぁ。よかった!

 そこにいるのは確かに18歳の私だった。

 夜中に何件かハピバLINEの返信をして、スマホを握ったまま眠ってしまった。

 今日は私の誕生日。18歳の、パジャマ姿の私はいつもと変わらない顔をしている。

 ダイニングでは食器のカチャカチャという音が聞こえる。もう父も母も、朝ご飯をたべているんだろう。弟の芳樹はまだベッドから出てきてないだろう。

 あいつはねぼすけだから。

 ………しかし、変な夢だった。はっきり思い出せないけど、夢の中では私は88歳のおばあちゃんだった。

 まだ心の中に侘しさというか切なさというか、どうにもならない心細さが残っている。

 あれはまさか、本当に70年後の私だったのだろうか?

 おばあちゃんになった私なんて、正直想像もつかないけど。

 愛花、起きたのー?

 お母さんの声がする。

 起きてるよー!

と私は怒鳴り返し、二階へ向かう。

 手早くパジャマを脱ぎ、ぱりっと糊のきいたワイシャツに袖を通し、紺色のダサいスカートをはく。ベストを着て、鏡の前に立つと、やっぱり昨日と大して変わらない私がそこにいた。

 17歳から18歳になっただけ。それはそうなんだけど、なんだかやっぱり誕生日って特別だ。

 素敵なことが起こるといいな。

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