運命の一皿

大京吉吉吉

失恋のハンバーグ

 恋愛ってなんだろう。

 また振られた。

 何回目だろうか振られるのは…もう覚えていないな…。

 そんなことを考えながら独り、霧に湿った夜の街を歩いていた。

 月に間違え照明に惹かれる馬鹿な蛾のように、明かりに惹かれショーウインドウの前で立ち止まった。磨かれたガラスに映る自分の貧相な顔、華やかな商品ディスプレイに相反し一層暗く貧相に見える。

 ガラスに映る自分の後ろを行き交う人々。カップルが通り過ぎていく。笑顔で楽しそうになんとも羨ましく腹立たしい。なんでこんなにも世の中は不公平なのだろうか。ショーウインドウを後に再び歩き出す。

 楽しそうに笑う声。なんで自分だけ。まったく恨めしい。行き交い、過ぎ去っていく人に負の感情をぶつけながら駅へ向かい歩いていく。

 何度も通ったことのある知っている道。そのはずなのになんだろうか違和感というか何かが引っかかる。何だろうか?ふと、裏路地に目が行った。

 あれ?こんなところに裏路地なんて在っただろうか?

 その裏路地が気になり覗き込んで見る。薄っすらと霧のかかった薄暗い裏路地、そこにオレンジ色の明かりに照らされた小さな吊り看板が見えた。黒い背景に白い字が電球の明かりに照らさて浮き出て見える。こんな所あっただろうか?覚えがない。

 路地の奥から何かいい匂いがしてくる。あの看板のある所からだろうか?と、匂いに誘われ、吸い込まれるように看板へと近づく。

 レンガ造りの倉庫のような建物の、重厚な木製の扉の横に看板がかけられていた。[霧雫 -roda-]と書かれている。ロダ?そう読むのだろうか。看板にはサビが浮いている。古そうだけどこんな店は以前から在っただろうか?

 それにしても、いい匂いがする。確実にこの店から漂ってくる。なんだか無性にお腹が空いてきた。

 店に入ろうか。

 しかし、入りづらい。扉にはOPENと掛かっているが、その扉は重厚で建物には窓もなく威圧感を感じる。

 しかし、この香り。食べたい。入りたい。

 店は店、何を恐れることがるのだろう、ダメそうなら帰ればいい。そう思いながら、重厚な扉を開き中へと入った。

 ランプの温かい光に照らされたシックな内装。カウンター席数席と、四人がけのテーブルが二組の置かた比較的こじんまりとした店内。BGMにピアノジャズが流れている。

 カウンターの向こうに黒いベストに蝶ネクタイの男が一人立っている。その男がいらっしゃいませの挨拶も、愛想笑いもなく、無表情でカウンター席に誘導するかのように手で席を指し示している。誘導されるがままに席につくと、男は無言でメニュー表を開き差し出した。そこには「当店は日替わりの一品メニューのみとなっております。本日の一皿はハンバーグとなっております。」と書かれている。

 ハンバーグ。大好物だ。値段も手頃だし、じゃあこれでと注文し、メニューを差し出した。

 男はコクリと頷き、メニューを受け取ると店の奥へと消えていった。

 それにしても一品のみとか面白い店である。いや、でもそうでもないか、日替わりのみって無いこともない。

 そんなことを思っていると男が戻ってきて、ワイングラスをカウンターに置いた。曇り一つ無い綺麗に磨かれたグラス、そこへ水がゆっくりと注ぎ、水を提供すると、男は無言のまま店の奥へと姿を消した。

 目の前に置かれた水を手に取り、一口含む。グラスと同様に綺麗に磨かれた水とでも言おうか、雑味がなく、体にスッと染み込んでくる。

 水を飲みながらなんとなく店を見回す。黒に近い赤いの壁紙。その壁には照明のランプの明かりが揺れている。アンティーク調のテーブルと椅子。自分が座っている椅子もアンティークっぽい。カウンターも角が削れていてふるさを感じる。カウンター側の壁には洋酒が並んでいる。そういえばドリンクを何にするか聞かれなかったけど、まあいいか。この水美味しいし。天井には換気のためだろうか?丸い中央に穴の空いた傘が取り付けられている、そこから壁へと管が伸びている。


 ほどなくすると、店に肉の焼ける香ばしい香りが漂ってきた。ああいい匂い。それと何だろうか?ソースなのだろうか?嗅いだことのない不思議な香り。いろいろなスパイスや調味料の混ざりあった匂いだろうか?でも、不思議な香りだけど、とても美味しそうで、それになんだか…

そんな香りを楽しみ酔いしれていると、店の奥から男が手に皿を持って音もなく現れ、そして無言のまま、その皿をカウンター席へ一切の音も立てずに置いた。

 つや消しの黒い皿の中央に真っ白で艷やかな丸々とした物が盛られている。

 これがハンバーグなのだろうか。

 この白い部分は何であろうか…分からない。しかし、とてもいい香りがする。先程香ってきた香りより更に凝縮されいい複雑で香りだ。ココナツのようなミルキーで甘い香りの中に、鼻の奥を刺すような擽るようなスパイスの香り。どこかで嗅いだことのあるような、心が踊るような、モヤモヤするようなそんな香りである。何の香りだったろうかと考え香りを楽しみ。

 皿の横に置かれたフォークとナイフを手に取ると、驚いた、凄くしっくりと手に馴染む、まるで食器が手の一部になったかのような感じにさえ思える。

 そのフォークを皿の上の純白の肌に当てる。指先にムチッとした感触が伝わってくる。フォークの先端で触ったはずなのに、指先で直接触れたような感じに伝わってくる。なんだか不思議な感覚である。それと同時に背徳的な感覚を覚えた。なんだろうか、何もやましいことはないのに。ただ単にハンバーグにフォークで触れただけである。なのになぜかいけないことをしているような、変な気持ちがする。フォークをゆっくりと滑り込ませていく、胸がドキドキする。柔らかく弾力のある肉にズブズブと滑り込んでいく、胸の高鳴りが止まらない。次にナイフを柔肌に当てる。柔らかさが指先に伝わってくる。そこで手が止まる。

 何故?

 躊躇しているのか?

 柔肌を切ることを躊躇している?

 ハンバーグを切ることを躊躇している?

 いやいや、これはただのハンバーグだ。なにを躊躇することがあるだろうか。そう思いつつも、胸の高鳴りが止まらない、さっきより更に高々と鳴っている。口の中に唾液が溜まってくる。これは空腹による唾液だろうか、それとも…

 何を考えているのだ。空腹で目の前に美味しそうな食事があれば唾液も溜まるだろう。

 唾液を飲み込み、意を決しナイフを滑らせる。白い肌に傷が入ると、赤い液体がゆっくりと染み出し、白い肌に一筋流れ落ちていく。その液体からだろうか、メープルシロップのように甘やかで、鉄のような酸味がある香りが漂ってくる。

 ナイフに着いた赤い液体を眺め、舌を出し、付着した液体をゆっくりと舐め取る。仄かな甘みと、少し金臭いような酸味を感じる、あとから渋みと苦味を感じる。ワインソースだろうか?

 ナイフを再び切れ目へと向け、ゆっくりと裂け目へ挿入していく。柔らかいが弾力のある肉、少しナイフが跳ね返えされながらナイフを肉へと差し込んだ。黄金色の汁が溢れてくる。それと同時に濃厚な香りが鼻の奥へと伝わってくる。脂の甘い香り、スパイシーで酸味と甘味を感じる麝香のような香り、その官能的で野性的な香りが本能を刺激する。

 唾液が漏れ出てそうなくらいに口に溢れてくる。やばい。我慢できない。今まで慎重に扱っていたナイフが荒々しく襲いかかるように、肉へと向けられ、ズブリと突き刺さった。ブシュッと溢れ出す肉汁。飛沫がキラキラ輝きながら顔へと飛び散る。ナイフが肉を切り裂き秘められた内部を暴き出す。ミッチリとした肉の間から肉汁がドクドクと流れ出てくる。

 肉の刺さったフォークを持ち上げ、肉を眺める。

 肉汁に濡れ、輝いている。

 なんとも…

 ああ、唾液が…

 生唾を飲み込み。口へと近づける。

 香りが鼻を貫き脳髄を刺激する。

 口の中へゆっくりと入れて行き、舌で優しく包むように迎え入れた。

 濃厚な肉汁が舌を伝い包み込んでいく。舌でゆっくりと潰すと、柔らかく弾力があり、ザラリしとした食感とともに肉汁が溢れ出し、濃厚な旨味を感じる。程よい塩味と甘みが広がる。それと同時に上顎を擽る感触。

 ネットリとした感触の奥からツルリと滑やかな感触が気持ちいい。あの白い部分だろうか。実にいい感触だ。

 舌を肉へと押し付け、感触を楽しみながら転がし歯へと運び、咀嚼する。

 肉の旨味。体に染み入るような程よい塩味。

 美味しい。心が踊り高揚してくる。咀嚼するたびに複雑な味と香りが感覚を刺激し、食べすすめる度に感じる味、感じる感情が変わっていく。

 胸がキュンと一瞬高鳴るような、メープルシロップのように甘やかで、鉄のような酸味がある香りと、果実のような酸味。

 心地いい幸福感のある、ココナツのような香りとミルキーでクリーミーな甘み。

 刺激的で性欲を刺激するような、スパイシーでエキゾチックな苦味と辛味 。

 それと、鼻に抜ける酸味と甘味を感じる麝香のような香りその官能的で野性的な香り。

 肉とソースが混じり合いった複雑な味が走馬灯のように記憶と感情を巡らせていく。

 それと同時に体から何かが抜け落ちて吸い上がられていくような…

 霧が晴れていくような…

 段々と心と身体が軽くなっていくそんな感覚…

 空腹という三大欲求の一つを満たしたからだろうか…

 皿が空になる頃には憑き物が落ちたように、体が軽くスッキリしていた。

 あれ?なんか店に入る前にモヤモヤしていたような。何だったっけかな?まあどうでもいいか、美味しい食事ができたし。

 満腹感のせいかな、なんか夢心地だ。

 さあ帰って寝ようかな。

 カウンター横のレジで代金を払い、重厚な扉を開けた。

 男がカウンターの奥から無言で見送っている。

 薄暗い裏路地へ出ると、扉が重い音を立てて閉まった。

 料理は美味しかったけど、男は無表情で無言だしなんだか不思議な店だった。

 さあ帰ろう。

 澄み切った空の夜の街を、行き交う人の間を颯爽と歩き家路についた。


 客の帰った店の奥。

 薄暗い部屋。

 壁から一本の管が突き出ており、それが蒸留器のような装置につながっている。装置の先からはポタポタと液体が茶色い小瓶へと滴り落ちている。

 その滴り落ちる様子を男が無表情で見ている。

 ポタリ…

 ポタリ…

 ポタリと、一滴ずつ溜まっていく。

 最後の一滴が落ちきると、瓶に蓋をし、紙のラベルを丁寧に貼り付けた。

 男は小瓶を手に取ると地下へと続く階段を降りていく。そこには金庫のように頑丈な鉄の扉が在った。

 男は取っ手に手をかけ重い扉ゆっくりと開いていく。裸電球に照らされた部屋には棚が並んでいた。棚にはラベルの貼られた小瓶がずらりと並んでいる。

 男はその棚の空いている場所に小瓶を置いた。

 その瓶のラベルにはFlavor Essenceフレーバーエッセンスと書いてあり、今日の年月日と客の性別、そして「失恋」と書かれいていた。

 重い扉が軋む音を立てながら閉まり、階段をゆっくりと上がっていく足音が暗い地下室に響いた、

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

運命の一皿 大京吉吉吉 @NNNTP

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ