あれは3月、菜虫が蝶となる日

「なむし、ちょうとなる? お父様、それ、どういう意味?」

「ああ、君は、七二候って知っているかい? 1年を72の季節に分ける」

「? 季節は、4つでしょう?」

「いやいや、もっといろいろな区分があるのさ。二四節気というものもある。たとえば、立春、啓蟄とか」

「ああ、それは、聞いたことがあるわ」

 正直、『けいちつ』はよくわからなかったけれど、そう応えてみた。でもお父様、まだ答えていらっしゃらないわ。なむしって、何?


「菜虫は、青虫。それが蝶々になる季節ってことだよ」

「…そう。でもどうしてそれを今、おっしゃったの?」

「うん? そうだね。今日がちょうど、その季節に当たるはじまりの日だってこと、あと、この新しい転機が、何か大きな変化をもたらすかな、と思ってね。蛹が蝶々になって、空に高く舞い上がるような、変化をね」

「はつみさんのこと? はつみさんが、青虫なの?」

 そう言うとお父様は笑って、うん、あの人も、君もね、と言った。


 私が、青虫。お父様は、こんな風にときどきおかしなことを言う。


        ***


「ようこそ、九条家へ。来てくれて嬉しいよ」

 いそいそと階下に降りたがお父様が、玄関先で初海さんを迎えて言った。ずるい! 私が一番に出迎えたかったのに! 追いかけて、並んで、負けじと声を上げた。

「私も! 私も、初海さんのことを、ずっとずっと待っていました! これからよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします。えっと、貴禰おじょ…」

「あのね、お嬢様なんて、ゆめゆめ呼ばないでくださいね」

 これだけは最初にしっかり伝えないと! そう思って、勢い込んで被せるようにそう言うと、初海さんは戸惑った顔をした。慌てて言葉を継いだのだけれど、

「私のことは、名前で呼んでください。たかねさん、て。私もあなたのことを名前で、はつみさん、とお呼びしたいと思います。よろしいかしら?」

 この口調が、まるでお嬢だわ。緊張のあまり変なしゃべり方になってしまったんだけれど、初海さんはそんなこと知らない。これが私の普通と思われたらどうしよう、と焦っていると。


「僕のこともね、旦那様なんて、ゆめゆめ呼ばないでくださいね」

 …お父様の、声。茶目っ気たっぷりに初海さんにウィンクして、人差し指で眼鏡を押し上げる。初海さんの緊張が、緩んだのがわかった。私の緊張も、氷解

 お父様のそばに歩み寄って、腕を組み、かけてもいない眼鏡を押し上げるしぐさをして見せた。と、ぷっと小さく初海さんが噴き出して―。それから、それからね。

 3人で、声を上げて笑っちゃったのよ。


 飛んだ失礼を、と笑いを収めた初海さんは言ったけれど。失礼なんかじゃないわ、壁を作られちゃう方がよっぽどいや、と言うと、ああ、そうですね、とまた笑った。


 こうして私たちの関係は(少なくとも私にはそう思えたのだけれど)、上々の滑り出しを見せたというわけ。

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