昼下がり、ワンルームにて。
永富
昼下がり、ワンルームにて。
共働きの両親のもとで育った。学校を終えて夕方に家に帰ると、いつも祖母が台所に立っていた。私がランドセルを置いて「ただいま」と声を掛けると、「おかえり」と米を研ぎながら返事をしてくれていたのをよく覚えている。
いつからか無くなっていたが、たしかその頃、祖母は米を炊くときに少しだけ日本酒を入れて炊いていた。そして、小さな小さなグラスにも、ときどき日本酒を注いでいた。今にして思えば、あれはキッチンドリンカーというやつだったなあ、と少しひやりとする。なんでお酒を飲むのと聞いた私に、「料理の途中が一番美味しいのよ」と祖母は笑っていた。
私はワンルームに備え付けられた小さなキッチンの前に立つ。
久しぶりに自炊をする。仕事でむしゃくしゃすることがあったから。どう対応すればいいか皆目見当もつかず、自分がぐらぐらと揺れているのが分かる。何を選べばいいのか迷っている。何かをしていないとそのことばかりを考えてしまうので、自炊は気分転換のようなものだ。
炊飯器に米を3合セットする。醤油味のものが食べたいので、煮物を作ることにした。材料はじゃがいも、にんじん、ごぼう、だいこん、それからタンパク質っぽい何か。鶏肉でもいいし、薩摩揚げでもいいし、ちくわでもいい。鶏肉が余っていたので、鶏肉を入れよう。
今日の煮物は「ばあちゃん風の煮物」だ。うちには、ばあちゃん風の煮物と、母さん風の煮物がある。野菜を全部小さめに切って、うすくち醤油とみりんと砂糖と白だしで味をつけるのがばあちゃん流だ。祖母は鶏の皮を全部剝いでいたけど、私は皮が好きなのでそのままにしておく。
祖母は煮物が得意だった。母もよく煮物を作ったが、食卓に並ぶとすぐにどちらが作ったものか分かった。祖母の作った煮物は、食べるとなんだか懐かしい気分になるのだ。子どもの頃に祖母が作った煮物のほうをよく食べていたからかもしれない。
先日、私はついぽろっと母にそのことを言ってしまった。母は幼い私のそばにあまりいられなかったことを気にしているので、しまった、と思ったが、母は「母さんも」とあっけらかんと言った。
「母さんもおばあちゃんの味を食べると懐かしいって思うよ。仕事から帰ってきて毎日食べてたからかな」
もう実家にいた時より長い間一緒にいるしね、と私が生まれる前から義母と同居している母は軽やかに笑った。彼女たちにもいろいろあったのだということを知ったのは、つい最近のことだ。
私は、実家にある鍋よりもずいぶん小さな、しかし、この家の中で一番大きな鍋の中で鶏肉を炒め、そのあとに野菜を入れてさらに炒める。火が軽く通ったら、あとは調味料を入れてふたをするだけだ。
私はインスタントのみそ汁を棚から取り出しながら、祖母のことを考える。祖母はどうして料理をしながらお酒を飲んだのだろう。祖母は日本酒が好きだったが、それほどたくさん飲む人ではなかった。みんなで乾杯するときだって、せいぜい小さなコップの半分くらい、それぐらいのビールしか飲まなかった。
ケトルにお湯を注ぎながら、私は記憶を掘り返す。
「疲れてもうダメっていうときに飲むと、気合が入るのよ。毎日飲んでた時もあった」
祖母がぐっとコップを傾けた時の、喉のしわが伸びる様子を思い出す。彼女のまっすぐに伸びた背、包丁を握るしわだらけのごつごつとした手を。いつも気合の入った人だった。りんごの皮むきテストが家庭科の授業であると言ったら、包丁で芽が生えたじゃがいもを6個も剥かされたのを思い出して、ふふふ、と思わず笑い声が漏れる。テストよりもよほど難しい課題だったが、祖母は自分がやる何倍も時間をかけてじゃがいもを剥く孫娘を忍耐強く待った。優しさというのはきっとこういうことだ、と今頃になって私は思う。
「なんでもできて困ることはないのよ」
彼女の声が耳の奥によみがえる。ピーラー使えばいいじゃん、と言った私を祖母はそう言って嗜めた。今こうしてピーラーのない家に住んでいるわけだから、祖母の言うことはおおむね正しかったのだろう。
私はさらに思い出す。実の息子である父に少し気を遣う姿。ああこういう風に家族を立てて暮らしてきたのだ、と思ったのもやっぱり最近の話だった。私は少しだけ祖母がお酒を飲んだ理由を分かった気になる。
台所は、きっと祖母の休憩所であり、戦いの場所だったのだ。家族の毎日の生活を守るために、祖母が必死に戦った場所のひとつに違いない。ひとり気ままに暮らす私は、祖母にならってビールでも開けようか、と冷蔵庫からビールを取り出した。プルタブを引こうとして、今度は母の言葉がよみがえる。
「お父さんに似てお酒弱いんだから、すきっ腹に飲まないようにね」
いや、もう大人だし、好きにするし、と思いながら、プルタブから手を離す。煮物ができたら飲もう、つまみなしで飲むのは好きじゃないし、と言い訳のように思って。いつまでも母の言うことが頭をよぎる。なんだか大人になりきれていないようで、私はいつもそれが少し恥ずかしい。
何度も鍋のふたを開けたり閉めたりしながら、ようやく煮物が出来上がる。火を止めてふたを開けると、出汁と醤油のいい匂いが広がって、腹の虫が小さな声で鳴いた。
それを皿に盛る前に、プシュッとプルタブを引いた。まずごくごくと祖母の真似をしてビールを飲む。それから、母の言いつけを守ってじゃがいもを口に入れた。出来立てにしてはしっかり味が染みているんじゃないだろうか、と自画自賛する。
私はもう一度ぐーっとビールを飲んでから、部屋の小さなローテーブルに食事の準備をする。炊き立てのごはんと、ばあちゃん風の煮物と、インスタントのみそ汁。その横に飲みかけのビールを置いて、座った。
「いただきます」
口の中で呟くように食前の挨拶をして、箸を取った。改めて煮物を口に運ぶと、なんだか祖母の味と少し違う。もっと大雑把で、米の進む味だ。慣れ親しんだ味には違いない。私は少し考えて、思い当たる。仕事から帰った母が大急ぎで作ってくれた煮物の味に似ている。
私は急におかしくなって、ひとりでにやにやと笑う。私は祖母の料理を作るつもりで、母の料理も作っていたのだ。それは間違いなく私の中に刻まれた、彼女たちの歴史だった。私は多めに白ご飯を頬張って、煮物を口に入れる。中途半端な味だ。しかし、これがやがて私の歴史の味になるに違いなかった。口の中にある米とごぼうと鶏肉を噛みしめる。タフにいこう、と私は決めた。
昼下がり、ワンルームにて。 永富 @nagatominaga
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