それはただの麺です
@dondream
第1話
ちひろと付き合うようになったきっかけは、彼女が作るナポリタンがおいしかったからだ。
確かに「こいつとは話が合うな」とはちひろのことを思っていたけれど、まだまだその頃は、大学に入学したての18歳からつきあっていた彼女がいた。彼女の名前は奈々子という。確かにお互い就職して仕事に慣れるまでの間、ついつい会うのがおっくうになり後まわしになりがちではあったけれど、やっぱり奈々子の顔立ちがそのものずばり好みだった、ということが大きい。別れるつもりなんて、これっぽっちもなかった。それだけど、なぜか同期のちひろとついうっかりそういうことになってしまったのは、トラブルで休日出勤になってしまったむしゃくしゃと、無事に仕事を終えたという解放感が大きい。
いざ仕事をしてみると、それは意外にもスムーズに終わり、同じようにたまたま昨日までの仕事が終わらず出勤していた、吾妻ちひろが「せっかくだからごはん食べて帰らない?」というものだから、浩紀も「おう、そうするか」と気軽に受けた。日曜日は半分近く終わってしまったものの、まだ1時を半分ほど回ったばかりだ。せっかくの休みを取り返したい、という気持ちもちょっとはある。いそいそと身支度を終えて、駅に向かう途中で不意にちひろが言った。
「あ、やっぱり帰らなきゃ、うちに宅急便届くんだった」。
「まじかぁ」。
じゃあラーメンでも食べて帰るか、と思っていたら思いがけず
「あ、うちこの沿線だし、よかったら寄ってけば。20分くらいのとこだし」。
とちひろが言う。
いやそれは、と断ろうとしたら、浩紀の気持ちに反して、ぐう、と大きな音をたててお腹が鳴った。
そういえば、朝、パンを一枚かじったきりだ。
まずい、という浩紀の表情を見ながら「まぁまぁ。いいよ、軽く作るからおいでよ」とちひろが笑いながら言う。確かにちひろはボーイッシュなタイプだ。奈々子とは違う。男友達も多いのかもしれない。迷っていると、かえって妙に意識した感じになりそうで、たぶんちひろ自身は深く考えていないのだろう、そう浩紀は思った。
けれど、後から思えば、それはぜんぶ後づけの言い訳だ。
そこからのほろ酔いの白ワインとちひろが作ったナポリタンの味が、浩紀の脳天を突き抜けるようなうまさだったからだ。
ケチャップはもちろんベースとなっているが、そこにほんのちょっとだけトマトジュースと隠し味になにか。玉ねぎは透きとおり始めたその瞬間でちょっとだけ生っぽくもあり、細く切ったソーセージがところどころに入っていて(まぁ、これは普通。他のナポリタンと変わらない)、ピーマン(これも当然)、ちょっと変わっているのは熱々の鉄板に薄い卵がしいてあり、それを崩しながら食べる、というところだった。
「うちの育った街のほうじゃ、ナポリタンと言えば絶対に薄焼き卵がセットなの」。
目の前に出されたその鉄板を見て、確か前にGWにみんなでバーベキューをしたときにそんなことを言っていたな、と思い出した。
同期を中心にしながらも、2、3個上ぐらいまでの先輩を何人か交えて、親睦の集まり、というようなことだったと思う。浩紀とちひろが焼きそば係で、ソース派か醤油派か、マヨネーズは辛子入りがいいのかどうか、というような話を延々する中で大きな鉄板の上で麺をぐるぐるかき混ぜながらちひろがぽつりと言った。
「へー、珍しいな。そもそもナポリタンって家でしか食わないし」。
奈々子が作ってくれたことがあっただろうか、とぼんやりと思いながら反射的にあいづちを打つ。
「え、そおお? 喫茶店とかによくあるメニューだったから、私にはなじみ深いの」。
「喫茶店? 喫茶店そのものもあまり行かないし。なんか土曜の昼ごはんって感じ。よく高校生ぐらいまで食ってた」。
「そっか。なんかけっこうやんちゃかと思ったけど、おうちでちゃんとお昼を食べてたなんて可愛いね」。
かわいい、なんてちょっと大人のような口ぶりとくすくす笑い。そのとき見下ろした首筋の白さとほのかに汗じみた髪からほのかに甘い香りがして、浩紀はちょっとだけくらっとした。思えば、あのとき、すでにそんな気配はあったのかもしれない。
実際に目の前に出されてみると、それは音も匂いも鮮やかであまりにも蠱惑的だ。
「はーい、これは”しょんぼりナポリタン”です」。
テーブルの上に木の小さな鍋敷き、その上に小さなフライパンのようなものがあり、ケチャップ色のスパゲティがこんもりと盛られている。薄い黄色の卵は、半熟だけれど、縁だけはしっかりと火が通ってパリッとめくれあがっていた。
「しょんぼりナポリタンって何?」。
思いがけないネーミングにあきれたように、それでも浩紀は内心可愛いな、なんて思いながら聞く。
「いや、あのね、しょんぼりしたときにね、ついつい作っちゃうの」。
そう言いながらちひろは、ちょっとだけ照れたように笑う。
落ち込んだときにこれを食べてるのか、と思うと妙に健気な感じもして浩紀は思わずちひろの表情を盗み見た。と、すると、実はちひろがナポリタンを巻き付けたフォークを今にも口に運ぼうとしている浩紀の様子をうかがうように上目遣いで見ていることに気づいて、お、おう……と思わず手を止めてしまう。
けれど、それも一瞬のこと。そんな戸惑いをさとられたくないのと、妙などきどきを抑えようと、浩紀は思いっきり口いっぱいにスパゲティをほおばった。途端、口の中にあふれる甘みとほんのり焦げたような香り。そこにかすかな玉ねぎの青くささとピーマンのぴりっと感が加わり、卵がいい仕事をして優しいまろやかな後味になっている。
「何これうまっ!」
思わず出てきた言葉にちひろはにっこりと笑う。そうすると小さく右頬にえくぼができる。
「わぁ、うれしいな」。
そう言いながらはにかむようにまつ毛を伏せた。
「うま、すごい。確かに薄焼き卵がないとダメだよな、これ。っつーか、わざわざこのためにちっこいフライパンとか持ってんの?」。
「スキレット」。
「え?」
ちひろが言った言葉の意味がわからず浩紀が聞き返す。
「スキレットって言うの、この小さなフライパン」。
「へ、へぇ」。
知らない言葉が出てきた戸惑いと、ちひろのくすくす笑いにすっかり浩紀はやられてしまう。
何よりも熱々の鉄板の上で湯気を立てているナポリタンは美味い。そのおいしさを途切れさせたくなくて、口の中でずっと味わっていたくなって、そしてほんのちょっと恥ずかしくて、浩紀は次から次へとナポリタンをひと口、またひと口と食べ続ける。
なぜか目を合わせらない。ちひろはそんな様子を見ているのか、いないのか、ただじっと黙ってそばにいる。
不意に何かが浩紀の頬をかすった。それはちひろの指だった。そのまま、その白い指は浩紀の唇の端からほんの5ミリほどのところを通って、今度はちひろの唇の中に。
ぺろり、と人差し指をなめながら「ケチャップついてた」と今度は浩紀の目をしっかりとのぞき込んだ。それですっかりダメだった。やられてしまった。
浩紀の食べ慣れたナポリタンと、それは違う。
ほんの少しだけ黒胡椒が効いていて、トマトの気配がちらちらとのぞく。だけどやっぱり甘くて。口の中の水分を持っていかれるようなふにゃふにゃの麺で、だけどちょっとパリッともしていて。油をたっぷり吸った卵の黄色ともったりとした舌ざわり。もっともっと食べたくなる。
その日、まだ温かな陽射しが窓から注いでいるというのに。ほんの少しだけ日が落ちかけたばかりだというのに、すぐにそういうことになって、そのまま浩紀は奈々子に別れを告げてちひろとつき合い始めた。
しばらく経つと、浩紀はちひろが料理自体がそこまで得意なわけではない、ということに気づいた。まずいというわけではないけれど、普通。可もなく不可もなく。けれど、どういうわけかしょんぼりナポリタンだけは特別だ。確かに食べていると、何もかもがどうでもよくなってくる。ただ、目の前にあるナポリタンだけを食べていたくなるし、不思議と悲しみとか戸惑いとか、苛々した感情とか、複雑なものが消えていくのだ。
「あれ? 太った?」
食後のコーヒーを飲もうと社内のカフェコーナーに寄ったところ、隣の部署にいる3つ先輩の橋本に言われて浩紀はぎくり、とした。確かにスーツのズボンを留めるベルトの穴はだんだんと外側へとずれて行き、いつの間にか買い替えないときついかも、と思うようになっていたのだ。
「わかります?」
「気をつけろよ。25過ぎるとあっという間にすぐおっさんっぽくぷくぷくになるぞ」。
「まじですか?」。
「しかも痩せにくくなる」。
「俺……やっぱりやばいですかね。確かにこの2カ月で4キロ近く増えちゃって」。
「うーん、まぁぎりぎり? 踏みとどまれるなら今かもな」。
そういう橋本はこのところすっきりとして、着ているスーツにもシワが寄らない。以前も太っていたわけではないが、なぜかもったりと動作が鈍い印象があったのだ。
「橋本さん、なんかすごいシャープになりましたよね。ダイエットですか?」
何か秘訣があったら知りたい。
「や、別にダイエットとかじゃないけどさ」。
そう言いながらも、橋本はまんざらでもなさそうだ。
「やっぱり付き合っている子とかで変わるわけだよ。メシとか行くじゃん? 今の彼女はさ、どっちかというとヘルシー志向っつうか、なんかあれこれオーガニックカフェとか調べて行こうとか言うわけ。たまにはがっつりこってりしたもん食べたくなるんだけど、まぁそれはヤロウ同士のときに限るっていうか、彼女だとせいぜい小ぎれいな焼き鳥屋ぐらい?しかつきあってくれないわけ」。
「へぇ。なんか意識高い系なんですね」。
相づちを打ちながらも、なんだか面倒くさそうな女の人とつきあっているんだな、なんて浩紀はのんびり思う。同時にちひろのちょっとぽったりとした二の腕なんかを思い浮かべる。ちょうど、ちょっとのびかけたスパゲティのような白くふにゃふにゃの頼りない感触。
「前の彼女はさ、何かっつーとナポリタンとかばっか作るわけ」。
「……へぇ」。
思い描いていたことを言い当てられたようで、一瞬、あいづちが遅れた。
「落ち込んでるときとかさ、すぐパスタとか茹でてくれて。うまいんだよ。それがすっごく。まぁ確かにうまいんだけど」。
「な……なんかでも前の彼女さんもいい人っぽいじゃないですか?」。
「あー、うん。もちろんすっごいいい子だし、好きだったよ。でもさ、仕方ないじゃん、他に好きな男ができたって言うわけだからさ」。
「……」。
「なんとか立ち直ったけれど、たまにむしょうに食べたくなったりもするけどな。喫茶店とか見つけたら食べるんだけどさ、なかなかあんなにうまいのないんだよな。ちょっと変わっていてさ……」。
浩紀の目の前が不意に暗くなる。橋本の口がぱくぱくと意味のない言葉を紡いでいる。輪郭が薄くかすんでいくように見える。
「やば、すんません。俺、1時にアポ入ってるの忘れてました」。
慌てて時計を確認した振りをして、浩紀は小走りにその場を立ち去った。
ちひろとどのようにダメになっていったのか、正直あまり覚えていない。橋本さんと付き合ってたの?と聞いてしまえばよかったのだけれど、それはできなかった。だって、本当に同じナポリタンを食べているのかどうかはわからなかったから。
疑問が出てしまうと、もうその先はあっという間だった。ちひろの言葉のひとつひとつが揺らいで聞こえて、どうしようもなかった。ほんの少しだけ醒めて見てしまえば、二人の始まりだってそんなに気軽に誘うのかよ、という呆れるようなものでしかなかったし、思い切って勇気を出して家に招いてよかった、というちひろの言葉すらうすっぺらく聞こえてしまった。気づいてみれば、面白いと思う映画、行きたいという場所だってぴったり合うわけでもなかったし、タイミングだって微妙にずれがちだ。始まりと同じようにふにゃっと手ごたえのない、あの料理そのもののような終わり方だった。
まずくなりようがない料理だっていうのに。
目の前にある山盛りのナポリタンを見て、浩紀は怒りに震えた。そもそも、ナポリタンなんて浩紀の母親が小さい頃からさんざん作っているように、たっぷりケチャップを惜しまず、ちゃんと強火で炒めさえすれば、そこそこおいしくなるはずのものなのだ。
だというのに、このナポリタンはまずい。
営業の帰りに入ったカフェで、「レトロメニュー」と書かれたナポリタンを見て、思わず注文してしまった。このあたりでは珍しく、ちゃんと鉄板に薄焼き卵を流し込んだスタイルなのも気を引かれた理由の一つだ。もはや、浩紀だって30歳も近い。転職をして、すっかり前の会社のことは忘れていたつもりだった。ナポリタンを注文したのも、ほんの気まぐれのつもり。
だというのに、運ばれてきたナポリタンは、見かけこそ本格的なレトロスタイルのように見えて、なぜか鉄板は熱し切っておらず、卵はいつまでたっても半熟のぬるぬるとしたまま、麺自体は逆に茹できらずに芯がしっかりと残り、決定的にケチャップの味が薄い。玉ねぎもピーマンもけちってほとんど味わいがなく、ウィンナーに関していえば姿形も見当たらない。
先ほどまでの営業先での軽んじられた対応とナポリタンのまずさがタッグを組んで入り乱れ、絶望感が湧いてくる。たぶん数年ぶりのナポリタン。しょんぼりしたときのあのほのかに甘くまろやかで優しい味わい。
「すみませんでした」と頭を下げても、あのN商事の部長はいつまでもねちねちと嫌味を言い、打って変わって出てきた年下の担当者もあきらかに浩紀のことをこばかにして無理な納期を言ってきた。浩紀も社内のあちこちに電話をして、なんとか明日打合せてがんばってもらう約束を取り付けたばかりなのだ。
なんだってこんなときに思い出してくるんだ。
しょんぼりナポリタン。ふわふわの舌触り。
まずさと情けなさ、そしてあの頃から変わっていない自分に思わず目の奥から何かが出てきてしまいそうになる。
食べたい。
湧き上がってきたのは、どうしようもない衝動だ。あのいつまでもずっと口の中でほおばっていたい味わい。
浩紀は胸ポケットから携帯を出して、見覚えのあるラインのアイコンをタップした。
そうして今、浩紀はもう一度彼女といる。
ナポリタンを作るのは浩紀の役目だ。ニトリで買った安物のスキレットだけれど、ちゃんと手入れをして強く熱しておけば大丈夫だ。
「ねぇ、早く作ってよ」。
ほんの少し甘えるような舌ったらずの声。けれども、目の前にはすっきり髪を切った彼女がいる。わがままを聞くのがいつの間にか得意になった。
「もうすっごく忙しくごはんもろくに食べられなかったんだから」。
そう言いながらもソファの上でごろり、と横になっている。
「ちょっと待って」。
そう言いながら支度をする。疲れているときにナポリタンを作る。それを食べる彼女を見るのが好きだ。
ずっとロングヘアがトレードマークだった奈々子だけれど、浩紀と離れている間に留学をしたり、いろいろと自分の道を探す中でずいぶんと見た目も中身も変わっていた。
同期の結婚式で再会をしたことをきっかけに、再び会うようになった。
食べたいものは、欲しいものはちゃんと自分で作ればいいのだ。
浩紀はそう思う。
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