七. 最後に見た六文銭

 翌朝。5月7日。


 すぐにでも戦が始まるだろうと予想していた阿梅の心とは裏腹に、戦はなかなか始まらなかった。


 すでに、大坂方は、大坂城の南側、岡山から天王寺、その先の茶臼山付近にかけて布陣。対する徳川幕府軍も紀州街道、天王寺付近、奈良街道に分かれて布陣を完了していた。


 徳川家康は、奈良街道から少し外れた中洲付近に、将軍の秀忠は奈良街道に布陣していた。


 総兵力は、徳川方が約15万に対し、豊臣方は約5万。単純計算で、3倍の開きがある。しかも籠城戦ではなく、野戦である。


 万に一つも大坂方に勝ち目はなかった。


 朝。

 黒い南蛮胴具足を着て、「愛宕山大権現守護所」と書かれた前立ての兜をかぶった小十郎重綱が、寝所を出た。その背中に阿梅は続いて声をかけていた。


「小十郎様」

「何だ?」


 振り返る小十郎は、甲冑姿ということもあり、余計に凛々しく、阿梅の目には見えていた。


「わたくしも戦場で、父の最期を見とうございます」

 冷静に考えると、とんでもない発言ではあった。


 当時は、「女」が戦場に出ること自体を「忌み嫌う」風潮があった。阿梅の発言は、それらを覆す、あまりにも常識外れな世迷言に過ぎない。


 だが、重綱は何を思ったのか、

「そなた。馬には乗れるか?」

 とだけ聞いてきた。


「はい」

 かつて、九度山で、父に暇つぶしに教えてもらった乗馬が、こんなところで役に立つとは阿梅は思わなかった。


「ならば、ついて来るがよい」

 あっさりと認められていた。

 「鬼」の猛将と言われた割には、阿梅の目から見える重綱は、物静かで、口数が少ない、冷静な男に映っていたし、ある意味、全然猛将らしくはなかった。穏やかなところは少しだけ、父にも似ている部分があると感じていた。


 しかも、片倉の陣の中央。陣幕まで行くと、阿梅は今度は、甲冑まで与えられていた。男物の余り物だったため、明らかに身体に合っていない、ぶかぶかの黒い具足を着けさせられていた。


 重綱が言うには、

「ここは戦には巻き込まれることはなかろう。故に大事ないとは思うが、念のために着けておくがよい」

 とのことだった。


 しかも、見た目にも美しい阿梅は、一端いっぱしの若武者に見えるから、かえって安全だという話だった。


 今度は、部下に手伝ってもらい、馬にまたがる。女性にとっては、この重い甲冑を着て、一人で馬に乗ることなど到底できないからだ。


 馬上からは、地上よりも当然、「高く」見えるため、戦場の様子がよく見て取れるように感じられた。


 そのことを察してか、阿梅の馬の近くにやって来た重綱は、阿梅を陣幕の外に案内した。


 そこは、少しだけだが、小高い丘のようになっており、彼方には大坂城の天守閣が見えていた。


 その天守閣の南側。茶臼山の辺りに、一際目立つ「赤い」具足の集団が見えた。同時に六文銭の旗が翻っていた。


(父上だ!)

 すぐに気づいた。


 しかも、伊達の陣からこの茶臼山までは、目と鼻の先くらいに近い。


 それ故、阿梅は心配になった。

 思わず、隣の重綱に問いかけていた。


「小十郎様。真田の陣と、かように近いのですか? 誠にここは大丈夫でしょうか?」

 父は、片倉の陣に娘がいることは知っているから、攻めてはこまい、と思いながらも、部下が勝手に攻めてきたら、という思いも彼女にはあった。


 だが、重綱は、主の言葉を借りて伝えていた。

「大事ない。我が主が申すには、真田殿のお立場なら、恐らく捨て身の攻めを行うだろうとのこと。我らに構っておる場合ではないのであろう」

「と、申しますと?」


 阿梅の言葉に、重綱は、答える代わりに、左手に持った扇をはるか東の彼方に向けた。そこにあるのは、葵の御紋を持つ大部隊だった。総勢数万はいる。


「大御所様の首。恐らくそれだけを狙うであろう」

(まさか)


 阿梅には、その重綱の言葉さえも信じられなかった。


 なお、真田信繁はこの時、茶臼山に約3500の兵と共に布陣。すぐ近くの天王寺付近には、彼の盟友でもある毛利勝永が6000あまりの兵と共に布陣していた。


 実はこの時、真田信繁は、毛利勝永、明石全登、大野治房らと、ある作戦を立てていた。それは、「右翼として真田隊、左翼として毛利隊を天王寺・茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・横撃させる」というものだった。まさに一発逆転の策だった。



 ところが、正午頃。

 一発の銃声から、不意に戦は始まってしまう。

 この時、「抜け駆け」は禁止されていたが、毛利勝永の寄騎よりきが先走り、物見に出ていた幕府方の本多忠朝ただとも勢を銃撃した。


 それを合図に、一斉に法螺貝ほらがいの音が、響き渡った。

 この時点で、もう信繁らの「策」は破綻している。

「始まるぞ」

 冷静に、小高い丘の上から戦況を眺めていた重綱のすぐ隣で、馬上の阿梅は見守る。


 まるで地鳴りでも起こったかと思うほど、地面が揺れているように感じる。


 両軍合わせて15万人の馬蹄の音、怒号、喚声、鬨の声が満ちる。男たちの生死をかけた血みどろの戦いが始まる。


 それはまさに、戦国時代の最後を飾る決戦だった。


 戦場はあっという間に、混乱に満ちていた。

 毛利勝永の正面に布陣していた、本多忠朝。徳川家の猛将、本多忠勝の次男で、父に劣らない勇猛な武将だったが。


 実は彼は、大坂冬の陣で、酒を飲んで不覚を取り、敵に猛攻されて敗退していた。それを家康に咎められており、この夏の陣で、汚名返上を狙っていたらしい。


 ところが、毛利勝永隊の猛攻は凄まじく、その本多忠朝を討ち取って、徳川家が誇る、精強な本多勢を壊滅に追い込んでしまう。


 鬨の声がこだましており、まるで大合唱のように、天地を覆っていた。


 さらに、本多勢の救援をしようと駆けつけた、小笠原秀政、忠脩ただなが勢には毛利勢に追随する木村重成勢の残余兵である木村宗明むねあき等が、側面から攻撃を加えた。

 忠脩は討死、秀政は重傷を負い、戦場離脱後に死亡した。


 圧倒的な優勢だったはずの幕府軍は初手から崩れていた。


 木村宗明等の隊はその後、さらに丹羽長重にわながしげ隊に突撃を敢行。

 丹羽隊もまた毛利勢に突破される。


 さらに、二番手の榊原康勝、仙石忠政せんごくただまさ諏訪忠澄すわただずみたちの軍勢も、しばらくは持ち堪えたものの、混乱に巻き込まれ壊滅。その上、これらの敗残兵が雪崩込んだ三番手も同様の事態に陥ったことで、家康本陣は無防備となった。


 よく間違われるが、「大坂夏の陣」で活躍したのは、真田信繁はもちろんだが、実はこの毛利勝永の奮戦が凄まじかったという。


(勝永様。凄まじい戦ぶりじゃ)

 その中に、あの勝家がいるのか、と思うと、阿梅には複雑な思いが去来していた。実際に、この時、勝家は父に従って戦っていた。しかも敵将の首を取って、父・勝永が「惜しきものよ」と言ったというが、間もなく人生が終わることを覚悟した言葉だろう。



 そして、ついに「真田の赤備え」が動き出す。


 真田信繁は指揮下の兵を先鋒、次鋒、本陣等数段に分け、天王寺口の松平忠直勢に突撃した。


 松平忠直は、家康の次男・結城ゆうき秀康の子で、家康の孫に当たる。その兵力は1万5000。真田隊の3倍以上。


 ところが、阿梅は、信じられないものを戦場に見る。


(赤い花が荒れ狂っている)

 六文銭の旗が、戦場に乱れて、咲き誇るような勢いの、そう思うほどの凄まじい突撃だった。


 真田隊の行く手を遮る者は、まるで「台風に遭った小枝」のように吹き飛ばされているかのようにも見える。


 赤い六文銭の旗が翻る度に、怒号と歓声が溢れ、瞬く間に、松平勢の「葵」の旗指物が崩れていく。真田隊は、まるで初めからそこに何もなかったかのように、一直線に突破し、突き進んでいた。


 遠目で、よくわからない部分があったが、

(あの前線では何が起こっておるのじゃ)

 そう阿梅が不思議に思うほど、真田隊の突撃は凄まじいものだった。


 実はこの時、松平忠直勢は、大坂城に真っ直ぐに向かっており、丁度入れ替わる形で、真田勢が突破してしまう。


 その後ろには、いくつかの小部隊がいたが、勢いづいた真田の敵ではなかった。

 あっという間に突破すると、今度は毛利勢がすでに突撃していた、徳川家康の本陣に突撃を敢行。


(誠に大御所の本陣を狙った……)

 重綱の主、伊達政宗の言葉通りになっていた。


 しかもそこからはさらに凄まじかった。

 当時、「三河武士は精強」と言われていた。その「強い噂」のある徳川家の本陣が、文字通り「蹂躙じゅうりん」されていた。


 「葵」の旗指物はもちろん、陣幕も、さらには、隊の象徴とも言える「馬印うまじるし」までもが倒れており、本陣を守るはずの、言わば親衛隊である旗本や重臣たちまで、背を見せて逃げる始末。

 中には、三里(約12キロ)も逃げた旗本までいたという。


 戦というのは、「多勢」が勝つように見えて、時としてそうではないことがある。それは「多勢故の油断」があるからだ。


 幕府軍は「どうせ勝つ」とわかっている上に、勝っても豊臣家を滅ぼしただけで、大した恩賞も土地も与えられないことがわかっている。


 つまり、「士気」の問題があった。


 対して、豊臣方には、もう「後がない」状態だ。言わば、「捨て身」で「命懸け」の戦いが出来る。その違いがあった。


 この時、総大将の徳川家康まで逃げ出し、逃げる途中で「自害する」と口走り、家臣に止められたとも言われている。


 それくらい、真田の勢いは凄まじかった。


 真田勢は、徳川家康本陣に二度、突撃を敢行。

 三方ヶ原の戦い以来、一度も倒されたことがなかった「馬印」まで倒れるほどの大混乱ぶりを演出。


(まさに、父上が申した通りの「修羅」の戦いじゃ。普段は優しい父上が、かような戦をなさるとは……)


 阿梅にとっては、あくまでも「心優しい」、「穏やかな」父・信繁。その最期に「命の炎を燃やす」ような、苛烈すぎる戦いぶりを見せていたことに、阿梅は、自分の目を疑うほどに驚愕していた。


 だが、さしもの「真田」もここまでだった。

 所詮は、数が違いすぎる。


 やがて、徐々に立て直し、反逆してきた徳川軍。


 一つ、また一つと戦場の中に「六文銭」の旗が没して行った。それは「紅蓮の花」が散るようにも阿梅には見えたのだった。


 幕府軍は一斉に前進を開始。真田勢は、松平忠直勢と再び交戦していたが、徐々に数を減らしていき、そこにさらに救援に駆けつけた、井伊直孝勢が横から襲いかかった。


 井伊隊もまた、「赤備え」を装備していたが、井伊の旗は、赤地に「井」の文字が描かれている。それがまさに真田の「赤備え」を覆い尽くしていた。


 すでに、疲弊していた真田勢は、あっという間に崩れていった。

 その「六文銭」が一つ、また一つ消えていく度に、阿梅は胸が締め付けられるような思いを抱いていた。


 そして、ついに最後の一つの「六文銭」が戦場から消えた。


「父上っ!」

 溜らず叫び声を上げて、阿梅は涙を流し、乗っていた馬が驚いて、いななき声を上げ、前足を上げているのを、慌てて重綱が抑えていた。


 父がどこでどう死んだか、最期を迎えたかまではさすがに阿梅は知らない。


 一説によると、突撃に疲れ果て、天王寺近くの安居神社で休んでいた真田信繁は、松平忠直配下の西尾宗次にしおむねつぐに討ち取られたとも、生國魂いくくにたま神社と、勝鬘院しょうまんいんとの間の高台で休んでいた時に、西尾宗次と交戦し、槍で討ち取られたとも言われている。


 真田信繁。享年49歳。


 戦国時代の最後の大戦は終わり、「戦国の仇花あだばな」は散った。


 戦後、このあまりにも苛烈な戦いぶりが衝撃的だったのだろう。多くの同時代人が、書物に記している。その多くが真田信繁の戦ぶりを称えるものだった。


 中でも、有名なのが九州の島津氏が残した一節だ。


「真田日本ひのもと一のつわもの」。

 大坂夏の陣は終わり、やがて、大坂城に火がかけられた。

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