八. 伊達政宗という男

 戦は終わった。


 最後はあっけないものだった。

 正午頃に始まった戦は、午後3時には豊臣軍が壊滅。最後まで残っていたのは、あの毛利勝永の兵だったが、敗残兵をまとめて大坂城に退却した。


 真田隊を壊滅させた松平忠直の越前勢が一番乗りを果たしたのを始めとして徳川方が城内に続々と乱入し、火を放ち、栄華を誇った大坂城はあっという間に灰燼かいじんと化していた。


 7日、午後4時頃に、大野治長は家臣の米倉権右衛門を使者として遣わし、家康の孫で、秀頼に嫁いでいた千姫を脱出させた上で自身以下が切腹する替わりに秀頼と淀殿の助命嘆願を行う。


 家康は秀忠に判断を任せたが、翌日8日に秀忠は秀頼らに切腹を命じて、秀頼らが籠もる山里やまざと丸にある焼け残りの蔵を包囲した井伊直孝勢が、8日の正午頃に鉄砲を放つことでこれを伝えた。これにより秀頼や淀殿ら32人が自害をし、後に蔵内から火が挙がったという。


 なお、毛利勝永とその子、勝家は、主の秀頼に最後まで仕え、共に自害している。勝永は享年37歳、勝家は享年15歳。真田信繁の長男・大助幸昌もこれに従い自刃。享年16歳という。


(勝家様。どうか安らかに)

 天を焦がすようになおも燃え盛る、大坂城を眺めながら、阿梅は祈っていた。


 そして、そんな阿梅は、この後、不思議な運命を果たす。



 戦が終わって、即席とはいえ、伊達軍では簡易的な「論功行賞」が行われることになり、片倉重綱も、主の伊達政宗の元に出向いた。


 その時、何を思ったのか、重綱は阿梅を連れて行った。その裏には、「政宗が重綱に阿梅を連れて来い」と命じたという背景があるが、もちろん阿梅は知らない。


 実際、難しい論功行賞など聞いても、阿梅にはつまらないし、彼女は「伊達政宗」という男を、噂程度にしか知らなかったが、「片目がない、鬼のように怖い人」だと聞いていたから、片倉重綱と会う時以上の「恐怖」に似た感情を抱きながら、渋々ながら、重綱に従って出向いていた。その噂の中には、政宗は激情家で、簡単に人を殺すというものもあった。


 実際には、阿梅は論功行賞の間は、陣幕の外で待たされていた。もっとも、論功行賞と言っても、最後の天王寺での戦いでは、伊達政宗隊はあまり積極的には戦ってはいない。その後方にいた片倉重綱隊もまたほとんど戦いに巻き込まれていなかった。そのため、阿梅は助かっていたのもあった。


 代わりに、伊達政宗は、味方の神保相茂じんぼうすけしげ隊、約300人を味方でありながら銃撃して壊滅させ、それが問題になっていたが、それはまた別の話になる。


 そして、四半刻(30分)後。阿梅はようやく呼ばれて陣幕に入った。陣幕には、片倉家と同じく九曜紋が描かれてあった。


 そこには、甲冑を着た、大勢の武将に囲まれて、床几に座っている男が一人いた。


 頭の左半分から包帯のような白い布を巻き、右目を隠しているようだが、それは恐らく幼い頃に「疱瘡ほうそう」により失ったというものだろう。三日月形の前立てのついた、特徴的な兜をかぶっており、黒光りする南蛮胴の鎧を着ていた。何よりも、見開いているようにも見える左目が、鷹のように異様に鋭く、威圧感すら感じる。なお、右目を眼帯で覆っていたというのは、後世の創作である。


 やはり噂通り、「怖い人」だと思った、阿梅は、重綱の説明を聞きながら、ひたすら恐縮して平伏していた。


 もちろん、彼が伊達政宗だった。この時、49歳。


 一通り、重綱から説明を聞いた後、政宗はおもむろに床几を立ち、阿梅に近づいた。


(殺されるやもしれぬ)

 一瞬、そう思うほどの威圧感と、殺気に似た気配すら感じる阿梅。左目だけで強烈に睨まれているようにも感じる。


「して、おぬしが真田殿の娘御むすめごか?」

 そう、低く唸るような重い声で、政宗は呟き、彼女に顔を上げるように命じた。


 見ると、父と同年代とは思えないほど、精悍で若々しさを保ったような、壮年の男性だった。何よりも、父よりも筋肉質で、いかにも強そうな荒武者に見えた。


「は、はい」

 ひたすら恐縮していた阿梅が恐る恐る答える。


 ところが、この後、政宗は、阿梅が思いも寄らぬ行動に出る。

「そうか! よう来てくれた!」

 突然、豹変したように明るい声を上げた。破顔した顔は、むしろ親しみやすさすら感じる、少年のような男にも見えた。


 逆に驚いて、どうしたらいいか、わからず戸惑っている阿梅に対し、政宗は笑顔のまま意外なことを口走った。


「実はな。わしは、昔から真田殿には一目いちもくを置いていたのだ」

 そう語る政宗の話は、続いた。


「もっとも、わしとそなたの父には、ほとんど交流などなかったが。わしは、そなたの父と同年。しかも、あの安房守あわのかみ殿の御子息。いずれ大きなことを仕出かすに違いないと見ていた」

 安房守とは、信繁の父、真田昌幸に当たる。


「それがどうだ。此度こたび大戦おおいくさ。真田殿の戦ぶりは見事の一言に尽きる。わしは誉田で実際に戦ったからこそわかるが、あれは誠の強者つわものよ。あれほどの戦ぶり、わしは見たことがない。古狸ふるだぬきもさぞ肝を冷やしただろうなあ」

 そう言っては、政宗は大袈裟に笑い声を上げていた。

「お館様。それくらいに……」

 古狸とは、徳川家康のことを指す。もちろん、蔑称だった。さすがに大っぴらに主君の悪口を言う主に、部下たちは、畏れ多いと声をかけていたが、政宗は気にする風が全くなかった。


(面白い方)

 一目見て、阿梅はこの政宗を気に入ってしまった。

 豪放磊落らいらくにして、性格は明るい。豪傑のように見えながら、冗談まで言う。父とはまるで正反対だと思いながらも、政宗を直感的に、根っこの部分では「父に似てる」という「雰囲気」すら感じていた。つまり、世間の噂とは逆に全然「怖い人」には見えなかったのだ。


「阿梅と申したな」

「はい」


「片倉の屋敷を、我が家と思って、ゆるりと過ごすがよい」

「ありがとうございます」


 しかも、それだけではなかった。

 実はこの時、政宗の陣には、さらに真田の縁者が到着していた。彼らが武将に伴われ、陣幕に入ってきた。

 阿梅にとって、それは幼い弟や妹たちだった。その中には、4歳になった大八も含まれている。恐らくは父か母が指示したのだろう。


 阿梅は思わぬ形で、幼い妹、弟たちと再会し、彼らを抱きしめていた。


 ところが、さすがに、これだけの真田の縁者を前にして、伊達家の家臣たちは色を失い、一斉に政宗に対し、不満を述べ始めた。


 その多くが、政宗と同年代か、それ以上の言わば「老臣」たちであった。

「お館様。一体何を考えておられるのですか? 仮にも逆臣の身内をかくまうなど」

「左様。このことがもし、ご公儀こうぎに知られたら、どう申し開きをするので?」

 口々に老臣たちが反対の意を述べるが、それも当然のことで、当時は、「権威」「権力」が絶対のため、幕府の意に逆らうように、逆臣の縁者を抱えては、当然、公儀、つまり幕府に睨まれることになる。


 だが、伊達政宗という男は、「常識」には捕らわれないところがあった。


「くだらん」

 と、老臣たちを一蹴してしまった。


「何がくだらないのですか、お館様」

「もし、ご公儀より詮議でもあったら伊達家は取り潰しになるやも……」


「実にくだらん!」

 今度は、大きな声で、一喝してしまい、老臣たちは、恐縮して黙ってしまった。


「ご公儀? 詮議? そのようなもの、片倉の子あるいは、公儀側にいる真田の縁者とでも誤魔化しておけばよい」

「しかし……」

 なおも食い下がる老臣の一部に対し、政宗は今度は阿梅や幼い子供たちを見ながら、力強く言い放った。


「よいか。わしは左様にくだらん世間体より、真田の血が途絶えることの方が怖い」

 そう言って、政宗は阿梅の方を見て、わずかに微笑んで見せた。新たな主、伊達政宗。父と同年代の彼によって、阿梅と真田信繁の縁者たちは救われることになる。


 実際に後に、真田守信が伊達家に仕えた時、幕府より「逆臣の子を登用しているとは何事か」と、仙台藩に詰問状きつもんじょうが届いたという。


 その頃、政宗はすでに亡くなっていたが、伊達家はこの時、「この子は、真田信尹のぶただの次男の子」と説明している。信尹は真田家一族だが、幕臣として仕えていたから、おとがめはなかった。

 もちろん、そんな説明は「真っ赤な嘘」である。


 政宗とはそういう男だった。言わば「反骨精神」に溢れている。若い頃には、最後まで豊臣秀吉の惣無事令そうぶじれい(秀吉の許しなく、勝手に戦をすることを禁じた命令)を聞かず、奥州で暴れ回り、20代前半の若さで奥州を席巻せっけん

 遅れて小田原に参陣し、危うく豊臣秀吉に殺されかけている。

 それ故に彼は「生まれるのが早ければ天下を取れた」とまで言われている。


 結局、政宗は、伊達の陣に連れてこられた、阿梅の幼い弟や妹たちまで、すべて「片倉家預かり」として、保護することを一方的に決め、そのことにもはや反対する重臣は誰もいなかった。


(信州にいると聞く、会ったこともない叔父上おじうえよりも、面白いやもしれぬ)

 阿梅は、内心、そう思って、むしろ肉親だが、義理の母の竹林院以上に、この政宗に好印象を抱いてしまう。


 彼女には、信州松代まつしろにいる、信繁の兄の信之という叔父がいるし、そこには従兄弟もいるが、ずっと九度山にいた彼女は、会ったことすらなかった。


 「遠い肉親より、近い他人」に心強さを感じてしまうのは、人の世の常だ。


 こうして、阿梅と、幼い弟や妹たちは、片倉家に預けられ、大坂からはるかに遠い奥州白石の地へと行くことになった。


 なお、信繁の正室・竹林院は、別の道で逃げており、やがて捕まったが、解放され、京都で暮らして、最期を迎えている。

 

 阿梅は、連れてこられた白石で、やがて片倉重綱と結婚。側室となる。その時期は定かではない。

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