六. 片倉の陣

 5月6日。

 片倉の陣に、阿梅と佐助が到着したのは、もう日付が変わろうとする深夜だった。


 しかも、驚くべきことに、この「佐助」なる老人は、阿梅が驚愕するほどに、洞察力と判断力に優れていた。


 夜目が効くのか。大坂城郊外、紀州街道の先に陣取る、伊達の陣までは、隠れながら進んでいたが、その間、明日の決戦を前にすでに徳川幕府軍の兵士が多く集まって、陣を敷いていた。


 にも関わらず、佐助は、見張りの兵士を一人一人、回避し、ついには一度も見つかることなく、片倉の陣に到着していた。


(この男、何者だ? 忍びか?)

 阿梅は、もちろん真っ先に、その足運びや、異常なまでに鋭い感覚に疑いを持ったが、どうせもう会うこともないだろう、と深く詮索はしなかった。


「何者だ!」

 当然、片倉の陣に着くと、見張りの兵士に囲まれていた。

 槍の穂先が、阿梅の鼻先近くまで届いており、さすがに彼女は戦慄を覚え、死をも覚悟する。


 だが、老人佐助は、冷静だった。

 平伏し、

「主、真田左衛門佐様より、片倉小十郎様への書状にございます」

 そのままうやうやしく、文を差し出していた。


 片倉軍の兵士たちは、さすがにいぶかしむ。しかも、若い阿梅を見る目が、いかにも怪しい。


 戦場とは男ばかりの世界のため、男たちは皆、女に「飢えて」いる。襲われたら一たまりもない、と阿梅は危機感を抱くが。


 一人の若い男が陣幕の中から出てきた。騒ぎを聞きつけてきたらしい。見事な南蛮胴具足をまとっていた。


「何事だ?」

「はっ。この者が、真田の文を持ってきたと。間者かんじゃやもしれませぬ。斬りますか?」

 兵士が男に問いかける。


(斬られるのか)

 もう阿梅は、自分の運命を受け入れるしかない、と覚悟を決めていた。


 男は、兵士から文を受け取ると、その文の題字だけを見て、即座に、

「しばし待たせろ。殿を呼んでくる」

 そう言って、あっさりと奥に消えた。


 その間、佐助は、

「大丈夫です、阿梅様。何かあれば、それがしが命に賭けてもお守り致します」

 その言葉は、これまでの短い道中での、佐助の動きを見れば、「心強い」と阿梅は思っていたが、かと言って、何かあることだけは起きて欲しくはなかった。


 見張りの兵士たちに槍の穂先を向けられながら緊張した時を過ごす。しばらくして、陣幕から先程の男が出てきた。


「入れ」

 その命に従い、兵士たちは槍を元に戻し、阿梅と佐助は陣幕に入った。


 そこには、赤く輝く篝火かがりびに照らされた、床几しょうぎに腰かけた、若い武将がいた。陣幕には、九曜くよう紋が描かれた旗指物が翻っていた。


 甲冑は着ておらず、寝間着のような、薄くて白い着物をまとっていた。年の頃は20代後半から30代前半くらい。


 眉目秀麗びもくしゅうれいで、鋭い切れ長の目を持つ、美男子でもあった。

「こんな夜更けに何事だ?」

 だが、明らかに「機嫌が悪い」。恐らくもう就寝していたのだろう。


 しかも、明日は決戦になる。気が立っていてもおかしくはない。

 先程の甲冑武者が、その男に文を渡す。


 その間、阿梅と佐助は、ひたすら平伏していた。

 裁きが下される前の罪人のような気分だ、と阿梅は思いながら、その「時」を待つ。


 男は、文を受け取って、封を開け、それを丹念に読み始めた。そして、見る見るうちに表情が変わっていく。


 平伏しながらも、わずかに目だけで阿梅が見ていると、男が相当、驚いていることだけはわかった。


「そなたら。誠に真田の手の者か?」

「はっ。こちらにおわしますのは、主、真田左衛門佐様の三女、阿梅様にございます」

 恭しく、佐助が答える。


 男は、しばらく考え込んでいるようだった。その間、夜の闇に漂う篝火だけが赤く輝いている。


 まるで男が地獄の「閻魔えんま様」のようにすら思い始めてきた阿梅。

 だが、一向に男は口を開かない。


 さすがに気になって仕方がない阿梅が、堪えきれずに声を発していた。

「あの……。その文には何と?」

 当時、武家の主の言葉は絶対だ。部下も、肉親ですら、その主が書いた文章を勝手に読むことは許されていないため、阿梅も佐助も中身を知らない。


 ややあって、男は静かに口を開いた。

「そなたを、我が片倉の陣で預かって欲しいと書かれてある」


(やはり)

 賢い阿梅は、もちろん父の言葉ぶりから、このことは察していた。だが、その次の言葉は、さすがに予想外だった。


「それと、出来ればそなたをわしの妻としてめとって欲しい、と」

「えっ」

 思わず声を発し、慌てて口を噤んでいた阿梅。


 同時に、頭の中には、あの若武者の毛利勝家のことが浮かんでいた。


「申し遅れた。わしが片倉小十郎重綱だ」

 小十郎景綱の息子、重綱。この時、31歳。彼はすでに針生盛直はりゅううもりなおの娘、綾姫を正室に持ち、娘をもうけている。


 だが、かつては「美少年」として知られ、男色のがあった、小早川秀秋に追いかけられた、という過去も持っていた。


(鬼の小十郎様が、こんな美男だったなんて……)

 父からは「鬼」と聞いていたため、阿梅はさぞや恐ろしい人だと思っていた。だが、そう思いつつも、やはり阿梅には、あの勝家のことが忘れられなかった。


「しかし、わたくしにはすでに心に決めたお人が……」

 つい、そんなことを漏らしていた。


 だが、男は驚くことも、悲しむこともなかった。ただ、冷静に静かに、まるで阿梅を気遣うかのように、


「残念だが、今、大坂城にいる男たちはもう助かるまい」

 そう言葉を下していた。


(やはり……)

 薄々、阿梅も感じていたことだった。


 すでに、大坂城の間近にまで幕府軍は迫り、その数は15万以上とも言われている。数が違いすぎる。万に一つも助からないだろう、とは思っていた。内心、思いたくはなく、勝家には生きて欲しいと願っていたが。


「そなたを妻にするかどうかはともかく、預かることはうけたまわった。この小十郎。命に賭けて、阿梅殿をお守りする、と主殿にお伝え願いたい」

 しかも、小十郎はわざわざ「小者」とも言える佐助にまで深々と頭を下げて、阿梅を「守る」ことを約束してくれた。


 そのため、阿梅は安堵すると同時に、この美男子に、胸が高鳴るような気持ちを抱いてしまう。


 我ながら、「美男子には弱い」と苦笑しながらも、その間、佐助は、

「はっ。主も喜びます。それでは、それがしはこれにて」

 あっさりと背を向けて立ち去ろうとしていた。


「待て、佐助殿」

 その背に慌てて阿梅が声をかける。


「何かございましたか?」

「いや。その。ありがとう。それと、どうか無事に帰って、父上に伝えて欲しい」


 それが、佐助とかわした最後の言葉になった。


 頷き、去って行く佐助。その後、彼がどうなったのかは誰にも知らない。後年、「真田十勇士」に猿飛佐助なる忍者が出てくるが、この佐助が同一人物かは定かではない。


「さて」

 小十郎重綱は、自ら発した言葉を忠実に実行してくれた。


 即ち、彼女に説明をしてくれたのだ。

 曰く。明日はもう決戦となる。どこにも逃げ場がないし、今、逃げるよりはこの陣にいた方が安全だ、と。


「しかし……」

 阿梅の心中では、屈強な男たちが多いこんな「男の檻」の中に、放り込まれ、襲われでもしたら、という気持ちがあった。


 それを察していたのか、小十郎は約束してくれるのだった。

「案ずるな。そなたには、絶対に誰にも手出しはさせん。わしの寝所の近くを与える。今宵こよいはそこで寝るとよい」

 わざわざ、小十郎は彼女のために「寝所」まで用意してくれた。


 逆に言えば、主のすぐ傍にいるのが一番安全ということになる。


 阿梅は、その寝所で眠りに就いた。もちろん、戦場に仮設で用意されたとはいえ、「将」である重綱用には建屋に近い建物が用意され、阿梅はそこで、簡易的な御座の上に寝るという境遇で、一般の足軽などの兵士よりも余程好待遇だった。


 だが、それでも彼女はなかなか眠れない。明日は、決戦の大一番。


 父の言葉を思い出していた。

―父はあの戦場に『修羅』を生み出してみせる―


 確かにそう言っていた。だが、


(いくら何でも無茶です、父上。一体どれだけの兵力差があるとお思いですか)

 阿梅は、もちろん戦も知らない女だが、それでもこの戦において、豊臣方に「勝ち目」がないことくらいはわかる。


 それも、相手は圧倒的な兵数。大坂方はあまりにも頼りない。

(すぐに踏みつぶされてしまうに違いない。いくら父上が強くても、真田丸の時のようにはいくまい)


 冷静で、かつ男勝りなところがある阿梅は察していた。真田丸のように、小さいながらも砦に籠っていれば、「引きつけて」敵を討つことも出来る。


 だが、大坂城の南はもはや「平原」に等しい。堀が埋められ、そこに幾重にも連なる幕府軍が布陣している。


 5月7日。阿梅は17歳の誕生日を迎えた。その日が、「運命」の決戦の日となる。

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