五. 父との離別
5月1日。
大坂方は出陣した。
軍は大きく2つに分けられた。
一つは、
もう一つは、
迎撃するにしても、明らかに人数が不足しており、勝敗は明らかだと思われた。
豊臣軍では、後藤又兵衛らの前隊6400人が、その後毛利勝永、真田信繁ら後隊1万2000人が大坂城を出発した。
5月5日、大坂城の真南の天王寺に布陣した真田、毛利勢は、後藤又兵衛が布陣した摂津の南東端に位置する平野まで出向き、翌払暁に
そして、これが「運命の分かれ道」になる。
5月6日、払暁。
後藤又兵衛は
しかし、後藤隊の他にはまだ誰も、後隊はおろか前隊さえも到着していなかった。そして、又兵衛は幕府軍が既に国分に展開していることを知る。
作戦が既に破綻していることを認めた後藤又兵衛は、石川を渡り
後藤又兵衛基次。元は黒田長政の配下の武将だが、主と喧嘩し、出奔したという経緯を持つ。野武士風の、いかにも戦国時代を体現したかのような「豪傑」だった。この時、56歳。
もちろん、彼は「死ぬ」つもりだった。何しろ、周りの徳川軍は2万を越えている。
午前4時。又兵衛は松倉重政、奥田
奥田は討死、松倉勢も崩れかかったが、水野
小松山を包囲した幕府軍は、伊達政宗、松平
後藤又兵衛の勇名は、すでに幕府軍にも知られていたこともあり、幕府軍は思わぬ苦戦を強いられる。
だが、それにも限界があった。又兵衛は負傷者らを後方に下げ、小松山を下り、幕府軍に最後の突撃を敢行した。敵数隊を撃退するも
正午頃。約8時間の戦闘の末、後藤又兵衛はついに討死、後藤隊も壊滅した。
一説には、この時、又兵衛を討ち取ったのは、片倉重綱と言われ、その猛将ぶりから「鬼の小十郎」と呼ばれることになったという。
この頃になって前隊の残り、薄田兼相、明石全登、山川
そこへ後隊の毛利勝永が道明寺に到着、真田信繁らは後退してきた兵を収容し誉田村付近に着陣した。
信繁は、愕然としていた。
「まさか、後藤殿がすでに……」
後藤又兵衛が突出してしまい、それを救うことも出来ず、「見殺し」にした形になってしまっていた。
もっとも、この時「遅れた」原因は、発生した「濃霧」によるものと言われている。それで、後藤又兵衛以外の諸将は、出だしが遅れ、ある者は道に迷っていたという。当時は、天候に大きく左右されることが多々あった。
そして、これを見た伊達政宗配下の武将、片倉重綱が、真田勢を見るとこれに対して、果敢に攻め寄せてきた。
片倉重綱は、父の景綱が病床に臥せり、出陣出来なかったため、代わりに出陣したが、「鬼の小十郎」と言われた、若き猛将となっていた。
彼は部隊を前後2隊に分け、左右に騎馬鉄砲隊を展開させた。
伊達軍は、馬上から鉄砲を撃ちながら突撃するという、この「騎馬鉄砲隊」をよく使ったという。
これに対し真田勢も鉄砲で応戦しつつ、兵を伏せ片倉勢の接近を待って迎え撃つ。
片倉重綱自身が馬上4騎を切り伏せたと言われるほどの激戦が展開されたが、真田勢が伊達勢を道明寺辺りまで押し込んだ後、自身は藤井寺まで後退し、毛利勢と合流した。
幕府軍は道明寺から誉田の辺りで陣を建て直し、豊臣軍は藤井寺から誉田の西にかけて布陣、両軍が対峙し、膠着状態になった。
午後2時半頃。大坂城から河内路方面で展開された、八尾・若江の戦いの敗報と退却の命令が豊臣軍より伝えられた。豊臣軍は真田隊を
しかもこの時、真田勢は、追撃する伊達勢と合戦になり、これを打ち破って、無事に撤退を完了している。
この時、信繁が、
「関東勢百万と
(「関東武者は百万あっても、男子は一人も居ないものだな」)
と言ったとされているが、恐らく後世の創作と思われる。
そして、この時に、信繁は、一つの「決意」を固める。
阿梅はもちろん、この戦を間近で見てはいない。だが、城に戻ってきた父の噂はすでに聞こえていた。唯一、徳川勢を破った、という噂だった。元々、牢人衆の中でも真田は、信繁の兄、信之が徳川方についていた為、軽んじられていたが、もう誰も真田を悪く言う者はいなかった。
5月6日、夜。大坂城。
真田勢が割り当てられている、一角に信繁は、家族を集める。
そして、
「皆、逃げよ」
と妻と子供たちに命じた。ただし、大助を除いて。
妻で正室の竹林院は首を振り、
「あなた様の最期を見届けてから、城を退出します」
と言って、頑なに断っていた。
同時に、阿梅もまた、
「わたくしもです!」
と、決意を固めていたが。
その阿梅の前にしゃがみ込んだ信繁が、不意に不思議なことを口にしたのだ。
「阿梅。お前には、別のところに行ってもらう」
「別のところ? 母上とも大助とも違うのですか?」
「そうだ。お前は、片倉の陣に行け」
「片倉様? えっ。伊達家の、ですか?」
「そうだ」
だが、そんな言葉も、今となっては阿梅には響かないし、納得はいっていなかった。
「
一気に、まくし立てるように話す阿梅。
相変わらず、「気が強い」と、信繁は思ったのか。不意に、彼女の頭を撫でながら、
「わしに考えがある。片倉殿の息子なら、きっとお前のことを大切に扱ってくれる」
「嫌でございます」
阿梅の心には、一瞬、毛利勝家の姿が浮かんでいた。ここを離れたくはない、という思いが勝る。
だが、頑なに拒絶する娘に、鋭い声をかけたのは、義理の母に当たる竹林院だった。
「阿梅。父上を困らせてはなりません」
「母上」
「そなたも、武家の娘。父の命に従いなさい」
母は、阿梅にとって、血は繋がっていなかったが、大谷吉継の娘であり、武家の娘として、誇り高い、厳しい面があった。そのこともあってか、阿梅は義理の母より、父に懐いていた。
返事を渋る阿梅に、その父が優しい声をかけていた。
「
そう言って、信繁は、一人の老兵士を呼んだ。
「佐助!」
やがて、どこからともなくやって来たのは、背の小さな老人のような、兵士だった。
「この文を持って、阿梅を連れて、片倉の陣に行け。頼むぞ」
「はっ」
老人は頭を下げて、信繁から文を受け取っていたが。
(何じゃ、この汚らしい老人は)
阿梅には不快に思えるくらい、その老人が不気味に思えていた。
年の頃は、父より上の60歳くらい。腰は曲がってはいなかったが、背は低く、顔の皺も多く、何より格好がみすぼらしい、農夫のような男だった。とても侍には見えない。
「父上。このような小者に、わたくしを託すなど……」
抗議を遮ったのは、思いの外鋭い、父の一言だった。
「佐助は小者ではない。こう見えて、いくつもの修羅場をくぐってきた男だ。たとえ途中で敵に見つかっても、必ずそなたを逃がすであろう」
その一言を聞いて、「父の言葉に嘘はない」と、もはや阿梅は「信じるしかなかった」。
そして、離別の時が来る。
「父上……」
阿梅にとって、信繁は「戦の鬼」でも、「猛将」でもない、ただの優しい父に思えた、信繁との別れが、彼女には何よりも辛いものだった。
すでに、阿梅の実の母である、高梨内記の娘は、九度山で亡くなっている。しかも阿梅の上の次女の市は、九度山で早死にしている。
思わず父に抱き着いて、涙を流していた阿梅に対し、信繁は、別れ際に不思議なことを呟くのだった。
「阿梅。片倉の陣からよく見ているがいい。父はあの戦場に『
5月6日深夜。愛用していた薙刀を置き、佐助という老人に守られるように、阿梅は大坂城をひそかに脱出していた。
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