8
数日前の予報では雨模様だったが、実際に訪れてみれば土曜日は快晴だった。少しだけ肌寒いことを除けば、文句のない天気である。
友達と遊びに行く、としか母には伝えなかった。あまり穿鑿してくるタイプの親ではないので、ああそう、行ってらっしゃい、と言われたのみだった。私のことよりも、ここ数日少し塞ぎがちになった小町を気にかけているように見えた。
機会を見つけて仲直りをしようとしたのだが、なんとなくうまくいかなかった。謝罪じたいは済ませてあり、小町も「いいよ」と応じてはくれたものの、元どおりに戻れたとは言いがたい。喧嘩が続いているわけでも、互いを避けているわけでもないのに、微妙な居心地の悪さが拭いきれないのである。
時間が解決してくれるだろう、とひとまず思い込むことにした。大事な日なのだ。
真新しい、しかし鏡の前で何度となく見え方を確かめたカーディガンを、お気に入りのブラウスに重ねて出掛けた。電車の中で呼吸を整える。いちおう鞄に文庫本を入れてあったが、けっきょく開くことのないまま目的の駅に着いてしまった。
待ち合わせ場所である〈翼ある乙女の像〉へと向かう。十五分ほど余裕を見ていたので、てっきりまだだろうと思い込んでいたのだが、莉央はすでにそこにいた。
「ごめん、待たせた?」
「ううん、勝手に早く来ただけだから」と笑顔を覗かせる。「知ってる? このあいだ話した〈らふらん〉のコレクターに聞いたんだけど、ここで待ち合わせすると、たまに不思議なことが起こるんだって」
「どんな? 待ち合わせスポットとしてはけっこう有名じゃない?」
「人によるらしいよ。なにも起きない人には起きない。でもすごく素敵で特別なことが起きる人もいる――なんて言われてさ。ちょっと期待しちゃうじゃん、そういうの」
今日の莉央はデニムジャケット姿で、シンプルながらよく似合っていた。さらりとでも言及できればよかったのだが、彼女が先んじて、
「じゃあ行こうか。そろそろ開店だから」
前回と同じ駅ビルのファンシーショップは、休日ということもあって多少混み合っていた。今回はぬいぐるみを二体、買い足すことにする。コノハの隣に並べれば、ずいぶん賑やかになることだろう。
「これ、可愛いよね。いつも見ちゃうんだ」
宣伝用のパネルの上方に備え付けられた画面で、〈コタンこ〉たちの短いアニメーションが流れていた。忍術を仲間たちに披露するコノハ。秘かに特訓した甲斐あって、なかなか見事な腕前だ。一人前の忍者を目指すべく、次なる修行に取り組む……。
忍者なのにちっとも忍んではいない。むしろ誇らしげだ。己の信じる華麗さや格好良さへの率直な憧れを、物怖じせずに発露している。
他の〈コタンこ〉たちにもそれぞれに特技や目標がある。いずれも個性的――すなわち趣味嗜好はばらばらなのだが、誰かが軽んじられることはない。どのキャラクターが主役の回であっても、存分に自分自身を発揮できるようなストーリーが用意されている。
トラすけの姿が大写しになった。画家を志す〈コタンこ〉だ。生まれつき悪い視力を、眼鏡でカバーしている。普段は仲間たちの絵を描いているが、今回は新たなモチーフを探し、森の外へ冒険に出掛けようとしているらしい。
「私、コンタクトなんだ」と莉央が自分の顔を指差して言う。「裸眼だと、視力検査のいちばん上も見えない」
「知らなかった」
「子供の頃からずっと悪いの。でも眼鏡って顔に合わない気がして」
「似合うと思うけどな。気分や用途で使い分けるとか」
「あるといいかなって思うんだけどさ、ほら、鏡で見てみても自分じゃ似合ってるのかよく分からないでしょう。店員さんに聞けばいいのかもしれないけどね」
「このあと、眼鏡屋さんを覗いてみる? 私じゃあんまり当てにならないと思うけど――」
おずおずと提案すると、思いがけず莉央は乗り気の様子で、
「ほんと? 選ぶの、手伝ってくれると助かる」
グッズの入った袋を提げたまま、別フロアの眼鏡店へ入った。莉央が細身の一本を掛けて鏡を覗き込み、続いて私のほうを向いて、
「どう?」
精緻でいて凛々しいイメージが増したと感じたが、なるべく客観的な意見を述べたほうがいいだろうと思いなおし、「けっこうシャープっていうか、かっちりした感じ」
「なるほど」彼女はその眼鏡を外した。「掛けた自分に慣れてないから、つい目立たないのを選んじゃうな。紬はどういう感じがいいと思う?」
私は厳格に棚を精査し、やや丸みを帯びたクラウンパントのフレームを選び出した。全体としてはクラシカルな印象だが、僅かに今風な雰囲気を含んでもいる。色は顔に馴染みやすそうなブラウンにした。
「どう?」と再びこちらに顔を近づけてくる。「似合う?」
「――可愛いと思う」
偽らざる本音がついに零れた。取り繕いようもない。気恥ずかしさのあまり、つい視線を伏せた。
「じゃあこれにする」と莉央は笑った。「ありがと」
視力を測定した結果、レンズの在庫がまだあるとのことだった。その場で受け取り、店を後にする。この時点で午後一時というところだった。
やや遅い昼食のため、最上階のレストランへと移る。向かい合って席に着いた。
「――妹さん、あれから新作を描いた?」
雑談のつもりで発したのであろうその問い掛けに、私は頬を張られたような気になった。俯き、えっと、と言い澱むと、莉央は穏やかに、
「喧嘩でもした?」
「喧嘩というか――」
「もし厭じゃなかったら、話して。今日の紬、少し淋しそうだよ」
顔を上げた。「そう?」
「うん。最初は退屈させちゃってるのかなって思ったけど、それとも少し違いそうだし。なにか悩みがあるのかもって、ちょっと気になってた」
私は頷き、ことの次第を語った。〈夜行〉のこと、ユイガミとの取引のこと、小町の絵を否定してしまったこと。ただし「大切なもの」の正体に関してだけは、曖昧にぼかすに留めた。
「妖怪と取引だとか、馬鹿みたいって思われるかもしれないけど――」
莉央はかぶりを振り、「ぜんぜん、そんなことない。信用するよ。信憑性があるかどうかより、ただ私が信用したいから。面白いじゃない、そういうの」
「これまでの話が真実だとして、どうしたらいいと思う?」
彼女は少し考えてから、
「〈夜行〉が来なければ妹さんはがっかりして、友達との賭けにも負ける。でも紬の大切なものは守れる。普通なら迷う余地がないよね、重さがだいぶ違うもん。それでも悩んでるのは、紬が妹さんを思ってるからだよね。ひとりの人間として尊重しようとしてる」
「小町のことは、もちろん大切だよ。なんで〈夜行〉にあそこまで惹かれてるのかは、よく分からないけど」
「〈夜行〉は悪い存在ではないって、小町ちゃんは分かってるんじゃないかな。善性の塊ではないにしても、邪悪ではない。絵を思い出してみて。〈コタンこ〉や飼い犬を妖怪と一緒に描いたのも、その表れじゃないかな」
予想外の返答と感じ、私はやや口調を強めて、
「だけど、人間から大切なものを奪うんだよ」
莉央は小さく笑った。「頑丈な橋を架けてやる代わりに目玉を寄越せと鬼に言われたとする。どうする? 渡す?」
その話は知っている。『大工と鬼六』だ。「どこからか聞こえてきた歌に出てきた名前を言う」
「でしょ。鬼は橋渡しの名人として名前を残すのが目的なわけ。目玉を奪えなくてもいい。つまり紬も、取引しない方法を選べるはずだと思わない?」
私は腕組みした。莉央の言葉にも一理あるような気がしはじめていた。相手が超自然的な存在であるからこそ、かえってその種の理屈が通用するのかもしれない。
「――方法って?」
「ユイガミは言ったんでしょう、人間の祈りや信仰が弱まって難儀してるって。それを取り戻してやればいいんじゃないの? つまり雛守の街じゅうが、〈夜行〉を待ちわびるようにするの」
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