7
雛守駅の一駅ほど前で、スマートフォンに連絡が入った。母からで、帰りに買い物をしてほしいという。母馴染みの店が指定してあった。了解の返事をする。
電車を降り、ロータリーの植え込みに目をやった。そういえばここも、季節ごとに様相を変えるのだったと思い出す。夏ならば提灯がずらりと並ぶし、冬ならばもっとも背の高い欅の木がクリスマスツリーと化す。しかし今はなにもなく、ただ平坦な景色が広がっているばかりだ。
商店街に足を向ける。立ち寄るのは本当に久方ぶりだった。私の知る店の大半はまだ残存していたが、お世辞にも賑わっているとは言いがたい。色褪せた無数の看板の前を行き過ぎながら、目的の店へと向かう。
ふと目の前をなにかが転がっていったような気がし、一瞬ののちに青褪めた。鞄に付けておいた〈コタンこ〉のコノハが落下した可能性に思い至ったのである。慌てて確認すると、やはり消えている。それなりにしっかりしたチェーンだからと過信したのが失敗だった。
幸いにして、近くに落ちていた。息を吐いて屈み込む。危なかった。
安堵したのも束の間、予想外の事態に見舞われて私は悲鳴をあげかけた。路地の暗がりからするりと伸びてきた手が、先んじてぬいぐるみを拾い上げたのである。「やあ、また会ったね」
「あなたは――」
「久しぶりだね。ぼちぼち心が決まったので、こうしてやってきたんだ」
ユイガミさん、と呼びそうになり、すんでのところで思い止まる。〈むすび丸地蔵〉の前で出会った、あの奇怪な男性だった。コノハを掌に収めたまま、薄笑いを浮かべて立っている。
「君も私を、忘れてはいないようだね」
薄闇のなかから、爛々たる光を宿した双眸がこちらを見据えていた。私は慎重に、「取引をするかどうか、ですか」
「ああ。話を持ち掛けた時点では、なにを貰おうか迷いに迷っていたんだが、ここ数日で劇的な変化が認められてね。今なら一択なんだ」
「よかったですね。ところで話をする前に、それを返してもらえませんか」
「これか?」言いながら、コノハをしげしげと眺める。「こいつはずいぶん、愛嬌のある顔をしているね」
「早く返してください。大事なものなんです」
唐突に彼が笑い出した。「大事なもの――ね」
「ええ。ただのぬいぐるみに見えるでしょうが、私にとっては大切な――」
自分の言葉が耳に入ると同時に、水でも浴びせられたかのような気分になった。相手を見返す。細まったふたつの目、そして満足げに湾曲した唇。
「――もちろん、そうだろうとも」
「コノハは渡せません」
腹部に力を込めて告げると、ユイガミはゆっくりと視線を動かしてから、
「思い違いをしているようだ。欲しいのは物じゃない。それを介して生じる感情、あるいは磁場、とでもいえば伝わるかな。私たちが糧とするものは、人間の目には映らないんだよ」
蟀谷が熱くなった。なにが言いたいのか、やっと分かったのだ。
私は反射的に、相手の手からコノハをもぎ取っていた。まったく衝動的な動作だったにもかかわらず、驚いた様子はまるでなかった。平然たるその笑みに、ますます胸中を乱されて、
「取引なんかしません。もう私に構わないでください」
ほう、と彼は唇を窄め、「がっかりする者がいるのではないかな」
「構わないで。もう私にも小町にも近づかないでください。さよなら」
激情任せに言い放つと、コノハを胸元に抱えてその場を走り去った。相手もさすがに、追いかけてはこなかった――。
家に辿り着いたときには、すっかり息が上がっていた。ドアノブに手を掛けた瞬間、頼まれた買い物を忘れていたことに気付く。
とてもではないが、引き返す気力は起こらなかった。自室に引き上げようと、のろのろと階段へ向かう。上り切る直前、後方から、
「お姉ちゃん。絵、見せてくれた?」
小町だ。軽快な足取りで近づいてくる。二階の廊下で私に追いつくと、
「なんか言ってた? 私、今日学校でね、楓ちゃんと〈夜行〉が来るかどうか賭けをしたんだよ。駅前の飾り付けがまだだから来ないって楓ちゃんは言ったけど、私は――」
「来ないよ」
「え? なんで?」
小町が顔色を変えたのが分かった。私は吐息を聞かせたあと、
「来ないから来ないの。そもそも〈夜行〉なんて化物なんだから、来たってなにもいいことなんかないんだよ。今年も来年も、その先も来ない。忘れちゃったほうがいい」
「でも――」
「でも、じゃないよ。友達ね、今はコンクールに出す絵を描いてるの。環境問題のポスター。小町のこと筋がいいって褒めてたから、今度はそういうのを描いたら?」
彼女は視線を下げた。黙って床を見つめている。
「別に怒ったんじゃないよ」
「ごめんなさい」
「怒ってないってば。小町ももうすぐ四年生だし、そろそろ――」
慌てて取り繕いながら、自分で自分が情けなくて堪らなくなった。高校生にもなって、幼い妹を相手に当たり散らしている。
ごめんなさい、と小声で繰り返してから、小町は私の横を擦り抜け、自分の部屋へと飛び込んでいった。こういうとき、泣いたり母に言いつけたりといった手段を、彼女は決して取らない。ただ呑み込んでしまう性格なのだ。
すぐに詫びるべきだと分かっていたが、私はそうできなかった。自室に戻り、ベッドに身を投げ出す。直感は、確信に変わりつつあった。
物体を介して生じる感情、あるいは磁場、とユイガミは言っていた。すなわち彼らが奪おうとしているのは、私と莉央との縁なのだ。ここ数日で急激に状況が変わったとの弁を踏まえると、間違いはあるまい。
思い返せば、最初からできすぎていた。人付合いを苦手とするこの私が、秘かに恋心を抱いている相手と、そう簡単に距離など詰められるはずもない。人ならざる者が外部から操作し、私たちを近づけたのだ。思いが強まれば強まるほど、取引で得る糧は大きくなる。なにもかも計算の上だったに違いない。
いったいなにが悔しく、なにが腹立たしいのか、自分でもよく分からなくなってきた。枕に顔を押し付けると、じわりと涙が滲んだ。
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