6
戸を引き開けるなり、絵の具特有の匂いに迎えられた。キャンパスやスケッチブックに向かっていた美術部員たちが一瞬だけ視線を上げ、またすぐに自身の作業へと戻っていく。私はおずおずと頭を下げてから、来栖さんの姿を探した。
いた。資料やら用具やらが雑多に詰め込まれた壁の近くにある、大振りな机の前に陣取っている。彼女も私を見とめ、立ち上がって手招いてくれた。木製の作業椅子を引き、座るよう促す。「悪いね、時間取らせて」
モデルと言われたときにはたいそう困惑したが、よくよく話を聞いてみれば、さまざまな角度から手を描きたいとのことだった。目下取り組んでいる水彩のポスターに、そうしたモチーフを使用するという。過剰にどぎまぎした自分を恥じた。モデルすなわち肖像画、というわけでは当然なかろうに。
来栖さんはすでに準備を整えていた。鉛筆を握ったまま、
「少し右手を上げてもらえる? 下から大きな球体を支えるようなイメージで。うん――いい感じ」
実際に描かれるのは手だけとはいえ、じっと視線を注がれるのは緊張した。彼女が私を、いまこの瞬間は私だけを見ているのだと思うと、どうしようもない切迫感ばかりが胸に込み上げる。このまま石になってしまうような気さえした。
「趣味は?」と不意に問われた。「なんか喋ってたほうが、気が紛れるでしょ?」
「ごめん、ポーズが不自然?」
「そういうわけじゃないよ。退屈かなと思って。音楽鑑賞? クイーンが好きなんだっけ」
「うん。あとはデヴィッド・ボウイとか」
「好きなアルバムと、そのなかでお気に入りの一曲は?」
「クイーンなら二枚目、曲は〈オウガ・バトル〉。ボウイは『ハンキー・ドリー』で〈チェンジス〉かな。最初に聴いたのは『ジギー・スターダスト』で、そっちも名盤だからお勧めだけど」
「調べてみる。いま欲しいものは?」
「お金で買えるものだったらギター。フェンダーのテレキャスター」
「弾けるの?」
「叔父さんに教えてもらおうかと」
「いいね。お金で買えないものなら?」
何気ない質問だったのだろうが、私は答えに詰まった。生来、適当にごまかすということが苦手な質だ。まして――。
「妹さんは、普段から絵を描くの?」私の混乱ぶりを察してか、来栖さんは話題を変えてくれた。「美術――小学生じゃ図工か。やっぱり得意なの?」
「あんまりそういう印象はないな。見様見真似だと思う。絵を見せてくるなんて初めてだったから、私も驚いた」
「じゃあ、よっぽどあれが描きたかったんだね。熱の込められた、いい絵だよ」
「伝える。きっと喜ぶ」
「そうして。絶賛してたって言っておいて」
来栖さんは手許に視線を落とし、それきりしばらく声を発さなかった。下手に動いて集中を散らしてしまっては申し訳ないので、私もできる限り同じ姿勢を維持するよう努める。
ややあって彼女は鉛筆を置き、
「やっぱり、今日はこのくらいにしようかな。あんまり長居させても悪いし」
「私のことなら、気にしなくていいよ」
うーん、と来栖さんは自分の顎を摘まんだ。「なんていうか――呼びつけておいて本当に勝手なんだけど、今日は調子が」
「そういう日もあるよ。帰るなら、途中まででも一緒に帰ろう。あ、その前に、どんな感じになったか見せて」
「私、あんまり上手くないよ」
言いながら、こちらにスケッチブックを差し出す。まだ下書きの段階だが、明確に技術のある人の絵なのだと分かる。感嘆して見入った。
地球を支える無数の手、といった趣向である。やや下から仰ぎ見るようなアングルで、画面の上方には淡く光が射している。標語を入れるためだろう、左上には空白が取られていた。
「上手いよ。環境ポスターだよね。これだけ描ける人、なかなかいないと思うよ」
来栖さんは漫然と頷くと、荷物を纏めはじめた。お疲れ、と周囲に声をかけ、美術室を出ていく。お邪魔しました、と言い置き、私もそのあとを追った。
校門までの道々、彼女は溜息交じりに私に告げた。「私、今ちょっとスランプなんだ。だからつい、人に頼りたくなっちゃって」
「私で役に立つなら、頼って。たいしたことはできないけど」
「自分の絵が、どうにも面白くなく思えてさ。技術を向上させれば解決するのかもしれないけど、それもつらくて。一本、新しい線を引くたび、自分の至らなさを実感する」
私は言葉を探したが、この場にふさわしいと思えるものはなにも浮かびはしなかった。ただ、自分にはまるで到達しえない感覚だ、と漠然と察したのみだった。
「自分の駄目さを引き受けて、這ってでも最後まで行き着くしかないんだって分かってはいる。分かってはいても、心がついていかないの。周防さんの妹さんの絵を見て、羨ましいなって思った。すごく生き生きして、楽しそうな絵だったから」
そこまで発したのち、彼女は短く笑い、
「ごめん。愚痴っちゃって格好悪いね」
「凹むときには、凹んでもたぶん大丈夫。私はただ――来栖さんには自分の好きなものを信じつづけていてほしいと思う。迷ったり妥協したりしても諦めさえしなければ、絵は待っててくれるはずだから」
不意に来栖さんが手を伸べてきて、私の腕に触れた。軽く揺さぶりながら、「こんなにいい手をモデルにして、描けないなんて申し訳ないね。少し考えてみるよ。私は私なりに、ちっぽけな自分と向かい合って描いていくしかないからね」
そうだね、とやっとのことで応じる。とてもではないが顔を上げられず、私はただ自分の足許ばかりを見ていた。黄色に染まった落ち葉を、風が路上へと散らす。
永遠のような一瞬のような時間ののち、手が離れた。
「私、あっちだから」
ちょうど校門に辿り着いたところだった。来栖さんの家は駅とは反対方向にある。
「うん。また明日」
「あ」方向を変えようとした私に、彼女はふと思い付いたように、「さん付けじゃなくて、名前で呼んでもいい?」
「――いいよ」
「じゃあ紬で。厭じゃなければ、私のことも莉央で」
頷いた。「分かった、そうする」
「いろいろ、付き合ってくれてありがとう。〈コタンこ〉のことも、絵のことも。明日ね、紬」
「またね――莉央」
できる限り自然に聞こえるよう、それでいて渾身の勇気を奮い起こしてそう告げると、私は彼女に背を向けて歩き出した。莉央、という二音を、幾度となく反芻する。
トパーズ色の陽光が、見慣れた歩道を明るく輝かせていた。ホームで待つあいだ、電車に揺られているあいだ、有頂天な気分を乱すものはなにひとつとしてなかった。この瞬間を小箱に封じ込めて、いつまでも仕舞い込んでおきたい気分だった。
イヤフォンを嵌め、デヴィッド・ボウイの『ハンキー・ドリー』を再生した。アルバムタイトルの意は「万事快調」。
軽く目を閉じて座っていると、正面に人の気配を感じた。べつだん混んではいないのに、なぜわざわざ――と少し訝しんだが、そう気にすることでもないと思いなおした。音楽に意識を集中させる。
アナウンスが響いてきた。電車が減速し、やがてドアが開いた。顔を上げる。私の正面にいた人影が素早く車両を降りていくさまが、ちらりと映りこんだ。
不思議な既視感をおぼえた。どこかで会った人――そんな気がする。しかしどれだけ記憶を手繰ってみても、これといった答えには辿り着けなかった。
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