ビヨンド・アンタークティカ
鳥辺野九
アンタークティカ・デストラクション
2023年10月、南極崩壊。
中規模隕石が南極を直撃して、アンタークティカ・デストラクションが発生した。婆さまが生まれた年だ。
「座標よし」
操舵室の
「エンジン停止」
船はビルに囲まれた海域に停泊。
「酒飲んでる王様の看板を探すぞ」
海面から突き出たビル群は静かに佇み、空は無風。潮の流れもきわめて緩やか。絶好のサルベージ日和。
「酔っ払った王様を探せー」
あまり乗り気じゃない復唱。そろそろあたしの出番か。黒パーカーを脱いでピンク色のウェットスーツのフロントファスナーを引き上げる。
「酔っ払い王様を発見! 水深1メーターくらい」
王様捜索開始直後、甲板でお子様らしくはしゃぐ妹。
「晩ごはんと思しきアジの群れも発見!」
水深1メートル。沈むビルの外壁に描かれた王様が藻にまみれてグラスを傾けている。王様というより溺れるおっさんだ。海中おっさんを横目にアジの群れが透明な水をかき分けて船の影に隠れた。
「よし。
海面に陽の光が差し込んではいるが、今日は海水温が少し低い。どうにも気分が乗らないが、婆さまの宝物のためだ。潜りますよ。
「夏空は?」
「夏姉ちゃんは?」
あたしと秋茜の合唱に夏空が操舵室からひょっこり顔を出す。
「私はアジを釣る」
船長は仕事をサボると宣言した。
アンタークティカ・デストラクション。隕石による南極崩壊は急激な海面上昇を引き起こした。
南極の氷はすべて融けて、氷の重さで沈んでいた大陸も隕石直撃で盛り上がって地球の海面は50メートル上昇した。婆さまが生まれた2023年、88年前の出来事だ。
秋茜が操縦するコウイカ型ドローンが壁看板の酔っ払い王様をくすぐるようにして潜航する。小さな気泡がコウイカボディからぷくりと浮いた。
あたしは足ヒレを揺らしてドローンをゆったりと追った。酔っ払い王様が流し目で見送ってくれる。
海抜の低い人口密集地はみんな沈んだ。市街地も海に飲み込まれて、かつては東北地方最大の歓楽街として繁栄したこの町も、今やビルの3階部分まで水没している。
10メートルも潜れば海底はかつての道路だ。透明度が高く、まだ陽の光がきらきらと余裕で届く深さで、沈んだ車から生えるように伸びる海藻が差し込む日光にふわりと揺らいでいる。
何台も固まって沈んでいる車を住処にしている根魚が秋茜のドローンから身を隠す。小魚の群れがドローンから逃れるように道路を真っ直ぐ泳ぐ。海底の道路は魚たちの楽園と化していた。
海面は波もなく穏やかに見えるが、海底道路まで到達するとそこそこ海流がある。
林立するビルの隙間。きっちり直線に敷かれた一車線道路と交差点。それらが不規則な水の流れを生み出して、ヘルメットからこぼれる短めの黒髪を右へ左へ揺り動かす。
『冬姉ちゃん、入り口見える?』
「うん、問題なく入れそう」
酔っ払い王様ビルの入り口は間口も広く、海藻も少ししか茂っていない。そこまでは問題ない。
通路を進めば奥に店の看板、右手にびっしり貝がへばりついたエレベータードア、左手には真っ暗い階段が地下に潜っている。問題はそこだ。
コウイカドローンの触腕の動きに合わせてヘルメットの水中インカムから秋茜のはしゃいだ声。
『このビルの地下だよ。奥から二番目のお店』
それが問題なんだ。階段を見やれば、さすがにビルの地下一階には陽の光も届かず、真っ暗な海水が渦巻いてるようで。
何もいないだろうが、何か潜んでいるようで、ちょっと怖い。いくら潜っても、真っ暗い地下は慣れないものだ。
『店の、名前は、バー・サイレン。婆さまの、お母さん、
インカムから夏空の落ち着いた低い声。きっとアジをサビキ釣りしながら喋ってるんだろう。奇妙なリズムを刻んでいた。
「暗くて怖いよ。秋茜、先導お願い」
『はーい』
コウイカドローンが触腕をぷりっと上げる。ジェット水流を噴き出す漏斗部位にある目玉ライトがぴかーっと白い光を投げかける。
ふわっ。暗闇を照らす白い線に何かが蠢いて逃げた。
「何かいた」
『そう? アカネは見てないよ』
イカはさらっと流した。
婆さまの宝物。それは宝の地図だ。婆さまのお母さん、あたしらの曾祖母さんから託されたものだ。
何か困ったことがあったら、このお店のものを使いなさい。海に沈んじゃったけど。
曾祖母さんはからからと笑って、店の住所を記した古地図と店の鍵を渡してくれたらしい。
あれから世界はがらりと変わってしまった。人が大勢住む都市の大部分が海に沈んだ。平均気温も上がり、生態系が大きく組み替えられる。かと思うと、今度は気温が下がり始めた。アンタークティカ・デストラクションで人もたくさん死んだ。
それでも、婆さまは88年間も宝の地図と鍵を使わなかった。守り通した。
アンタたちが使いなさい。
婆さまはけらけらと笑って私たちに宝の地図と鍵を託してくれた。今度は私たちの番だ。
婆さまは死んだ。
「この鍵を使おう」
婆さまが死んだ夜、夏空は泣きながら宝の地図を開いた。
「ダメ。これくらいしか持ち出せなかった」
私の細腕じゃ抱いて泳ぐのが精一杯。アルミニウム製のボックスケースを一個、ようやく甲板に引き揚げてもらう。
「他のはさすがに腐食が酷くて動かせない」
まるで誰かの忘れ物みたいに。
まるで誰かが来るのを待っていたように。
アルミニウムの小振りなケースはバーカウンターにひっそりと置かれていた。
フジツボやらカラス貝やら、とにかくびっしり貝で埋め尽くされ、それがかえって海水による腐食を防いでくれていたのかも。88年間よくも海の中で私を待っててくれたものだ。
夏空も秋茜も甲板に集まって、フジツボだらけのアルミケースをじっくり観察。
88年間。よくよく考えてみれば途方もない時間だ。婆さまの人生まるまる使って海の底で独りぼっち。いまここに太陽の光を浴びていることが奇跡のようだ。
「よし、開けよう」
少し迷っていた夏空が、うんと頷く。ケースの隙間から透明な海水が流れ出るのを待って、ぱちん、留め金を外す。ケースの中身をぎりぎり守っていた小さなパーツが弾けて飛んだ。さすがに限界だった。
夏空、あたし、秋茜の姉妹三人、頭を寄せ合ってフジツボアルミケースを開けた。
『
海水に浸って色落ちしたラベルはそう読めた。
それはコルク栓の口が蜜蝋でコーティングされたワインだった。アルミケースと緩衝材が守っててくれたのか、海水に濡れているだけで貝や藻が付着することもなくとても綺麗なボトルだ。
「お酒か。婆さまらしいわ」
露骨にがっかりする夏空。ボトルを手に取って太陽の光に透かす。
「金とかダイヤモンドとか想像してたのに」
あたしはアルミケースの中を確かめてみた。残念ながら、ボトルを守る緩衝材しか入っていない。その緩衝材も88年間という長い時間海水に浸かっていたからズダボロだ。
「はい、残念賞でしたー」
秋茜がスマホを取り出してがっつり項垂れる夏空とあたしを撮る。
「冬知華、あんたもっかい潜りな」
「いやだ。冷たいし暗いし怖いし」
これ以上夏空と喋ってると喧嘩しちゃいそうだ。あたしは甲板の端っこに項垂れるように寄り掛かり、海中でにっこり微笑む酔っ払い王様を見つめた。
グラスを傾けてほろ酔いな顔をしているお髭のおじさま。夏空は王様と言ったが、なるほど、たしかにトランプのキングみたいな顔付きしていらっしゃる。
「ねえねえ、冬姉ちゃん、これ見て」
秋茜がスマホを差し出した。
「古いワインって高いの?」
「古いにも限度があるの。これは88年間ってさすがに古過ぎて価値はな、い……」
思わず秋茜のスマホを奪い取る。その小さな画面に刻まれた文字列。
『秋保ワイナリー記念ボトル。100本限定醸造。秋保ビヨンド2023』
海中熟成ワインとしても消費期限はとっくにぶっちぎっているだろうけど、これはこれでコレクターが飛び付く超レアモノなんじゃないか。いや、絶対神レアクラスの代物だ。
「夏空、それオークションにかけ、よう?」
悔しいが夏空はスタイルがいい。あたしはまだ発達途中の女子高生だし、秋茜に至ってはお子様な女子中学生だ。さすが二十歳の女子大生ってスタイルしてる。ワンピース水着にパーカー姿がよく似合うし。
腰に手をやって、空を仰ぐようにすると胸が強調されてますますプロポーションがエロくなる。そんなエロいポーズで、夏空は超レアワインをぐびぐびラッパ飲みしていた。
「うん、悪くない。まだ飲める」
ぺろっと赤紫色に染まった舌で唇を舐め回す。
「あんたたちも飲む?」
「アカネも飲むー!」
「おまえはまだ中学生だろ。お酒はあたしくらいの女子高生になってからだ」
「おい。それはダメだろ。これは責任持って私が処理する」
「アカネにも味見させてー!」
「せめてラベルだけ破かないでよ、夏空姉貴様!」
婆さま、ごめん。88年越しの宝の地図、夏空姉貴が飲み干しちゃった。
海中に没したビルの合間を爽やかな風が吹き抜けた。明日もビルが突き出た海は凪ぐだろう。
ビヨンド・アンタークティカ 鳥辺野九 @toribeno9
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