第一章 誘拐 ②

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 凜はどうやら同じ名前の南凜なんりんという少女と間違えられているらしかった。

 いや、鏡の中を見れば、南凜こそが自分であることに気づく。鏡に映っているのは、小柄な黒髪の美少女だった。

 卵形の顔にまっすぐな鼻、ひとみは二重で大きく、唇は口紅を塗らなくてもぷっくりと赤い。どうやら、この南凜の身体に転生してしまったらしい。

「本当に心配いたしましたわ。ご無事でなによりです、お嬢さま」

 そう言いながら凜の髪を赤い房のついた木櫛きぐしかしてくれるのは、小葉しようようという二十代後半くらいの侍女である。少しふっくらとした彼女は、優しそうな頬をしている。南凜の支度には抜かりはないのに、自分の眉は手入れする暇がないのかぼうぼうだ。

「凜、凜、凜や」

 そして現れたのは、初老のグレーヘアーの紳士。体格がよく美食に甘んじていることが見てとれる大きな腹を持つ。よく似た体形のマダムも一緒だ。

 凜の手を握る二人の顔は、本当に凜のことを心配していたのだろう、かなり疲れた様子だった。

「凜や、わが娘よ、無事であったか」

 両手を握られ、凜はわけが分からず、小葉に助けを求める目を向ける。

成王せいおうさまです。義理のお父上の……横におられるのが正妻の周妃しゆうひさまです」

 小声で教えられて凜は子陣の話を思い出す。

「俺の父上は皇帝の同母弟で成王。皇帝にやしきを賜って暮らしている。お前の父君が辺境で戦死したため、親友だった父上が凜を引き取ったのだ」

 つまり成王は育ての父、養父ということになる。

「よかった。無事で本当によかった」

 涙ながらに安堵あんどする初老の男は悪い人に見えなかった。丸顔で、目尻の落ちた優しい瞳をしている。

 ほうじ茶色の絹の衣に少しそれより濃い色の糸でえり刺繍ししゆうが施され、親指には太い翡翠ひすいの指輪がある。一見、地味な装いだが、かなり高価なものであることはこの世界に疎い凜にも分かった。さすが皇帝の弟。

「あの、わたし――」

 凜はなにか言おうとした。が、それを成王が制止する。

「頭を打ったばかりじゃ。太医も寝ていなければならないと言っていたであろう? 座っていないで、さあ、横になるのじゃ」

 なんと優しい人だろう。

 凜は助けられながら、天蓋てんがい付きのお姫様ベッドに腰を下ろす。

 ベッドの周りには桃色の薄物がめぐらされ、布団も紅の絹で羽のように軽い。

 ――痛っ!

 しかし、横たわって分かったことがある。枕が陶器製であるということだ。裸のふくよかな子どもの絵が描いてある枕は傷口に直撃して激痛が走った。

「これでは傷に悪いですわ」

 周妃が慌てて取り除いて、ざぶとんを丸めて頭を乗せてくれる。凜は自分が南凜ではなく、長峰凜という未来から来た者だと言おうと口を開きかけた。だが、礼を言われると思った成王が手を振った。

「ゆっくり休むのじゃよ」

 成王は凜の布団を首まで引き寄せると、周妃と二人で来た時と同じようにたるのような腹を左右に揺らして部屋を出て行った。

 残ったのは、小葉。

 彼女は凜のことが心配で今日はこの部屋で休むつもりのようだ。凜のベッドの横に自分のせんべい布団を敷き始める。

「お嬢さま、そろそろお休みください」

「眠れそうにないです」

「お嬢さま、お忘れかもしれませんが、使用人に丁寧な言葉で話してはなりません」

「え、そうなんですか?」

 慌てた様子の凜に小葉は優しい笑みを向けた。

「そのうち、いろいろ思いだしますわ」

 その励ましに胸が痛む。

 自分は南凜ではない。

 転生してこの世界に飛ばされ、彼女の体に入り込んでしまった一般人だ。どうやっても南凜の過去を思い出すとは思えなかった。誤解があると言いたいのに、それを上手く説明する言葉が見つからない。自分ですら、事実を受け止められずにいるのだから。

「なにもかも忘れてしまったのですか」

 小葉は遠慮がちに訊ねる。

「ええ。ここがどこかもわからないんです」

 灯りは蝋燭ろうそく、置物は翡翠でできた牡丹ぼたん。薬が入っているのは、鮮やかな青磁の器で、さじは金。部屋を区切るのは、白い玉で作られた珠簾たますだれうすぎぬとばり。香炉から、芳しい煙が立ち上り、房のついた琴がテーブルの上にある。

 四畳半のワンルームの汚部屋に住んでいた自分には縁遠い場所だ。飲みかけのペットボトルが部屋の中にいくつもあったというのに、今は自分専属の侍女までいて、飲んだものをすぐに片付けてくれる。つまりセレブに転生したのだ。なんとも居心地が悪い。

「みなで必死にお嬢さまをお捜ししたのですよ」

 小葉が灯りを一つ吹き消しながら言う。凜はすかさず訊ねる。

「いつからわたしは、行方不明だったんですか?」

「昨日の昼からです。お一人で邸の外に出てから行方が分からなくなりました。どうやら、手紙で誰かに呼び出されたようです」

 凜は白い寝間着の衿の前で腕を組んだ。

 どうしてそんなことになったのだろうか。

 子陣が言うには、凜を犯人扱いし、拷問しようとしていたやから巡検じゆんけんとよばれる者たちらしい。現代でいうと警察のようなものだと知り驚いた。

 警察があれでは、ここでの犯罪者は相当ひどいはずだ。

 誘拐など、日常茶飯事なのかもしれない。

 ――元の世界に戻れるのかなぁ……。

 どこにも行くあてがないし、外は危険だらけだ。

 唯一、幸運なことは、転生したのが、皇弟の養い子で絶世の美女だったことだ。顔は卵形だし、すっとしたまっすぐな眉は憧れだ。宝石箱には翡翠の腕輪や、金のかんざし瑪瑙めのうの耳飾りなどで溢れている。これ以上の贅沢ぜいたくはない。

 ――本当、なにがなんだかわかんない。セレブに生まれ変われるほどの善行を積んだわけでもないし。落ち着かない。

 とはいえ、婚約破棄とか浮気とかの現実に向き合いたくはない。怒りを静める時間も必要だ。もしスマホのある世界に戻ったら、怒りにまかせて悠人と咲良を罵倒ばとうしてしまうだろう。感情的になりたくなかった。

 凜は今の自分の気持ちを整理すると少し眠くなった。

 ――カレーが食べたい。

 うとうととし、薬が効いてきたのか、ゆっくりと夢の中に落ちそうになる。電気のない世界で蝋燭の火が消え、闇がすっと広がった。

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