第一章 誘拐 ②
2
凜はどうやら同じ名前の
いや、鏡の中を見れば、南凜こそが自分であることに気づく。鏡に映っているのは、小柄な黒髪の美少女だった。
卵形の顔にまっすぐな鼻、
「本当に心配いたしましたわ。ご無事でなによりです、お嬢さま」
そう言いながら凜の髪を赤い房のついた
「凜、凜、凜や」
そして現れたのは、初老のグレーヘアーの紳士。体格がよく美食に甘んじていることが見てとれる大きな腹を持つ。よく似た体形のマダムも一緒だ。
凜の手を握る二人の顔は、本当に凜のことを心配していたのだろう、かなり疲れた様子だった。
「凜や、わが娘よ、無事であったか」
両手を握られ、凜はわけが分からず、小葉に助けを求める目を向ける。
「
小声で教えられて凜は子陣の話を思い出す。
「俺の父上は皇帝の同母弟で成王。皇帝に
つまり成王は育ての父、養父ということになる。
「よかった。無事で本当によかった」
涙ながらに
ほうじ茶色の絹の衣に少しそれより濃い色の糸で
「あの、わたし――」
凜はなにか言おうとした。が、それを成王が制止する。
「頭を打ったばかりじゃ。太医も寝ていなければならないと言っていたであろう? 座っていないで、さあ、横になるのじゃ」
なんと優しい人だろう。
凜は助けられながら、
ベッドの周りには桃色の薄物がめぐらされ、布団も紅の絹で羽のように軽い。
――痛っ!
しかし、横たわって分かったことがある。枕が陶器製であるということだ。裸のふくよかな子どもの絵が描いてある枕は傷口に直撃して激痛が走った。
「これでは傷に悪いですわ」
周妃が慌てて取り除いて、
「ゆっくり休むのじゃよ」
成王は凜の布団を首まで引き寄せると、周妃と二人で来た時と同じように
残ったのは、小葉。
彼女は凜のことが心配で今日はこの部屋で休むつもりのようだ。凜のベッドの横に自分のせんべい布団を敷き始める。
「お嬢さま、そろそろお休みください」
「眠れそうにないです」
「お嬢さま、お忘れかもしれませんが、使用人に丁寧な言葉で話してはなりません」
「え、そうなんですか?」
慌てた様子の凜に小葉は優しい笑みを向けた。
「そのうち、いろいろ思いだしますわ」
その励ましに胸が痛む。
自分は南凜ではない。
転生してこの世界に飛ばされ、彼女の体に入り込んでしまった一般人だ。どうやっても南凜の過去を思い出すとは思えなかった。誤解があると言いたいのに、それを上手く説明する言葉が見つからない。自分ですら、事実を受け止められずにいるのだから。
「なにもかも忘れてしまったのですか」
小葉は遠慮がちに訊ねる。
「ええ。ここがどこかもわからないんです」
灯りは
四畳半のワンルームの汚部屋に住んでいた自分には縁遠い場所だ。飲みかけのペットボトルが部屋の中にいくつもあったというのに、今は自分専属の侍女までいて、飲んだものをすぐに片付けてくれる。つまりセレブに転生したのだ。なんとも居心地が悪い。
「みなで必死にお嬢さまをお捜ししたのですよ」
小葉が灯りを一つ吹き消しながら言う。凜はすかさず訊ねる。
「いつからわたしは、行方不明だったんですか?」
「昨日の昼からです。お一人で邸の外に出てから行方が分からなくなりました。どうやら、手紙で誰かに呼び出されたようです」
凜は白い寝間着の衿の前で腕を組んだ。
どうしてそんなことになったのだろうか。
子陣が言うには、凜を犯人扱いし、拷問しようとしていた
警察があれでは、ここでの犯罪者は相当
誘拐など、日常茶飯事なのかもしれない。
――元の世界に戻れるのかなぁ……。
どこにも行くあてがないし、外は危険だらけだ。
唯一、幸運なことは、転生したのが、皇弟の養い子で絶世の美女だったことだ。顔は卵形だし、すっとしたまっすぐな眉は憧れだ。宝石箱には翡翠の腕輪や、金の
――本当、なにがなんだかわかんない。セレブに生まれ変われるほどの善行を積んだわけでもないし。落ち着かない。
とはいえ、婚約破棄とか浮気とかの現実に向き合いたくはない。怒りを静める時間も必要だ。もしスマホのある世界に戻ったら、怒りにまかせて悠人と咲良を
凜は今の自分の気持ちを整理すると少し眠くなった。
――カレーが食べたい。
うとうととし、薬が効いてきたのか、ゆっくりと夢の中に落ちそうになる。電気のない世界で蝋燭の火が消え、闇がすっと広がった。
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