第一章 誘拐 ①

       1


 はっと息を吹き返した。

 あたりはとっぷりと日が暮れていて草のあおい匂いがする。

 雨の後なのだろうか、しっとりと地面は濡れていた。

 りんはその中でうつ伏せに横たわっていた。静かに虫が鳴いているのを遠くに聞き、不思議に思う。

 ――ここはどこ?

 どれぐらいそこにいたのだろうか。

 起き上がろうとして、硬い体をゆっくりと動かせば、頭が割れそうに痛かった。そっと手をやるとびっしょりと濡れた。

 血だ。

 自分が倒れていた理由が分かった。頭を打ったのだ。

 ――でも、なんでわたしはこんなところに?

 ウエディングドレスを見て家路についていたはずだ。そこで悠人と咲良を見て――。

 思考をめぐらそうとして激しい頭痛に襲われる。

 ――っつ。

 凜は頭を抱えた。

「たしかあの時、事故に遭った気が……」

 それでもスマホを捜そうとあたりを見回す。山中なのか、背後には雑木林が広がり、手前はがけだ。

 凜は呆然ぼうぜんと空を仰ぐ。

 すると、そこには満天の星が瞬く夜空があった。

 見たことがないほど星々が皎々こうこうとし、手が届きそうなほど近い。地平線の向こうまで見渡す限り星が瞬いていて、夜空が半球になっているのが見て分かる。

 凜は、その美しさに痛みも忘れて大きく息を吸った。

 ――いったい……ここは、どこ?

 全く状況が分からない。とりあえずここがどこかだけでも知りたくてスマホを捜す。すると、遠くに獣のいななく声がした。凜は後ずさりして――なにかが手に触れた。

 振り返れば、男がすぐ側で倒れているではないか。急いで近寄り、しろい月明かりの下、助け起こそうとしたが、背中に何か突き刺さっているのが見えた。剣だ。

 血が海のように広がっている。

 ――死んでいる……?

 凜は思わず腰を抜かした。

「ど、ど、どうしよう!」

 救急車を呼ばないとならないのに、凜は気が動転するばかりだった。辺りを見渡しても人家らしきものすらない。

 気を取り直してスマホを捜そうと立ち上がった時、何やら炎のような灯りが近づいて来るのが見えた。

「助けて!」

 凜は両手を広げて助けを呼んだ。

「こっちよ! 助けて!」

 しかし、凜は現れた男たちを見て絶句した。

 薄汚れた着物のような恰好かつこうをしている彼らは、腰に剣、手にはやりを持っているではないか。しかも、凜にその切っ先を向けている。眉間みけんしわをよせ、その中の一人、四十くらいの男が凜を指さした。

「こいつは人殺しだ。捕らえろ!」

「はっ?」

 意味がわからず凜は頓狂とんきような声を上げるが、男たちはゆっくりと距離を詰めてくる。

 それで凜はようやくこれが夢であると気づいた。

 見るからに、華流の時代ドラマで見たような衣を着、黒い頭巾ずきんで頭を覆う人たちは現実ではあり得ない。しかも先ほどの灯りは松明たいまつのようだ。凜は頬を叩いてみるも血を流している頭の方が痛くて夢から目覚めない。

「捕まえろ!」

 両手を上げて降参を表す凜を、男たちは容赦なく強い力で押し倒し、後ろ手に縛り上げる。

 凜は必死に叫んだ。

「痛い、痛い! やめて!」

 助けを求めるも男たちは聞く耳を持たずに、凜の頬を殴る。大きな音と共に鈍い痛みが駆ける。

「止めて、痛い! 助けて!」

 抵抗すると、男たちは彼女の両脇をつかんで引きずり始めた。

 凜は渾身こんしんの力で立ち上がり、男たちを突き飛ばす。

 そして全力で走り出した。

「追え! 逃がすな!」

 男たちが叫んだ。

 凜は草の上を転がるように逃げる。

 靴は脱げてしまった。それでも止まることはない。

「追え!」

 凜は一点の灯りもない中を月光のみを頼りに逃げるが、男たちは執拗しつようだった。彼女はなんども振り返った。

 それなのに、槍を持った男たちは、しっかりと彼女についてくる。

 ――逃げないと。

 でもどこへ?

 誰から逃げているのか。

 なぜ、逃げなければならないのか。

 分からないことだらけだった。

 しかし、今は逃げる以外の選択肢はない。

 木と木の間をすり抜け、狩られるウサギのように必死になるほかないのだ。草はひざほどの丈があり、夜露に濡れてつるつると滑る。それでも凜は走った。

「あっ!」

 しかし、木の根に足を取られて派手に転んでしまった。

 両手をついてなんとか顔を守ることはできた。振り返れば、あの奇妙な男たちがにやにやと嫌な笑みを浮かべながら近づいてくるではないか。

「近づかないで! こっちに来ないで」

「連れて行け」

 ボスと思われる男がたんを吐きながら命じた。頬に大きな痣があり、黄色い前歯のいくつかは抜け落ちている。全く下品で清潔感というものがない。鋭いひとみは利にさとそうでもあった。

「逃げられると思うなよ」

 男はそう言うと剣の鞘で凜を殴った。

 鈍い音とともに激痛が頭に走り、男たちに両腕を掴まれる。

 もがくも、視界が白くかすんで思うようにならない。

 頭が割れそうに痛い。

 血が額を伝って地べたに落ちた時、凜は意識が遠のくのを感じた。

 ――目が覚めたら、きっと家のベッドの上のはず。

 悠人のことも、車にひかれたこともきっと夢に違いない。現実に戻った時には、ふかふかのダウンの布団と低反発マットレスの間で目覚め、この変な夢を笑うことだろう。

 そう思うと人心地に似たものが体中にゆっくりとめぐり、凜はたゆたう意識を手放した。


 どれぐらい時が経っただろうか。

 ほんの瞬きの間ほどかもしれない。

「起きろ!」

 うっすらと目が覚めた。冷たい。先ほどの頭巾の男が、凜の顔に水をかけたのだ。その冷たさときたらまるで氷のようで、体全体があっという間に冷えてしまう。

 顔を袖でこうとするも、手が自由にならない。見れば体は十字に張り付けられ、手足にかせがかけられている。

 ――マジ!? なにこれ……。

 凜はすぐに米国の猟奇的殺人犯を描いた映画を思い出した。殺人鬼によって密室に閉じ込められた二人の男たちのサバイバルを描いた物語だ。

 なにしろ、凜の前にいる三人の口髭の男たちは拷問のためと思われる道具ワンセットをテーブルの上に広げていたのだから、そう思っても当然だ。

 その一人、痣のある男が、楽しそうにコテを火鉢の中に入れてあぶっている。

 ――まさか、あれを当てないよね?

 そのまさかであったことは、近づいてくる男がニヤニヤとしていることから分かる。あたふたとするも、体は張り付けられ、どうあっても逃げることができない。

 地下なのだろうか、窓一つなく助けは来なかった。

 ――この人たち、正気じゃない!

 昔の中国人のような恰好をして、さらに若い女を捕まえて拷問をしようとしている。どう考えても危ない殺人鬼集団だ。凜は頭の痛みなど忘れて、「助けて!」と何度も叫んだ。しかし、痣の男はコテを持ったまま薄らわらっていた。

「殺しを白状したら許してやろう」

「殺し?」

 先ほどの男のことなら気づいた時にはもう死んでいた。

 刺さっていた剣は凜のものではないし、後ろから一突きにして人を殺せるほど力も強くない。

 普通に考えればすぐに分かりそうなものなのに、どうして凜を犯人だと思うのか。

「なにかの間違いです」

「あの場にいたのはお前だけだ」

「あの人が誰かもわたしは知らないのに、どうして殺すんですか。刃物が刺さっていましたけど、あれはわたしのものじゃありません」

「嘘を吐くな。お前が犯人であるのは間違いない」

 いくら言っても聞き入れそうな相手ではなかったが、凜は諦めない。

「わたしは人殺しなんかしていません」

「黙れ!」

 平手が凜の頬にしたたかに入れられた。

 涙目になって痣の男を睨むも、相手は唇の端を持ち上げて笑った。

 凜はそれで悟る。

 彼らは真の犯人など求めていないのだ。凜をいたぶることが目的なのだ。ぞっとして、身を震わせた。

 男が熱したコテをこちらに近づけた。あんなものを顔に当てられたら大火傷やけどをして、一生残る痕ができるに違いない。

 凜は身をきゅっと縮ませた。

 ――だめ……。絶対に嫌だ。

 そう、凜が思った時――。

 急に部屋の外が騒がしくなった。

「どけ!」だとか「邪魔だ!」などと怒鳴る声が聞こえた。

 次の瞬間、木戸が大きく蹴り破られたかと思うと、濃紺の絹の衣を着た男が灯りを背に現れた。頭にはまげを包む翡翠ひすいの小さな冠。彼の仲間と思われる十数人が剣を抜いて中に入ってくる。彼は凜と目が合うと叫んだ。

「凜!」

 男は彼女に駆け寄った。その肩に手を置いて顔を覗き込む。案じてくれているのがその目で分かる。吸い込まれそうなほどの漆黒の瞳で、凜は彼の突然の登場と、その整った容貌に驚いて言葉が出なかった。

「大丈夫か」

 ――この人は……誰?

 知らない人だが、相手は凜を知っているらしい。鼻筋が通っていて眉が太い。髭は綺麗に剃ってあり品がいい美男だ。体幹が強そうなすらりとした長躯は頼もしく、総じて爽やかである。

 ――この人はもしかすると味方かもしれない。

 だが、着ているものは艶のある絹とはいえ、やはり中国時代劇の恰好である。

 ――一体、どうなっているのよ。

 不安で一杯になる。しかも彼が持っているのも明らかに真剣だ。刃は白光りするほど研ぎ澄まされているではないか。

 ――この人は味方? それとも悪い人?

「行こう」

 答えを得る前に、美男は凜の枷を外した。そして痣のある誘拐犯がコテをまだ持っているのを見つけると奪ってその膝に押しつける。

 じゅっという嫌な音がして、痣の男は地面に這いつくばった。

「あの、あんなことしていいんですか……あの人、火傷を――」

「馬鹿か。人がいいのも大概にしろ。殺されかけたんだぞ」

 彼は不機嫌に凜をにらみ、吐き捨てるように誘拐した男たちに言った。

皇城司こうじようしを舐めるなよ!」

 すると、それを合図とばかりに、彼が連れて来た部下たちが凜を拷問していた男たちを蹴る、殴る、蹴る、棒で叩く――。うめき声さえ三人からはもう聞こえてこなくなった。凜はその暴力を、身を縮めて見ているしかなかった。

「あの……」

「行こう」

 美男に疲れた微笑みを向けられ、凜は頷くしかなかった。一秒でも早くここから出たい――ただそれだけだった。

 彼に連れられて汚い石の階段を上がると、建物の外に出た。

 まだ夜だった。

 とがった屋根の大きな建物がいくつもあり、あたりは塀で囲まれている。拷問室から逃れさえすれば、見慣れたビル群が目の前に現れるかと思ったのに、三百六十度空を見回しても、ビルの上にある赤い高光度航空障害灯もない。

 ――ここはどこ?

 そして気づいたのは、この汗ばむような湿気だ。

「暑い……なんで」

 二月だったはずなのにどういうことだろう。キャメルのノーカラーコートを着ていたはずが、いつの間にか自分も薄紅色の大きい袖の衣と橙色のスカート姿になっていることに気づく。

 ――どういうことだろう?

 凜は空を望んだ。

 そこには、山中で見たのと同じ、美しい満天の星々と細雲から顔を出す白い月があった。キャンプに行った地方でもここまで天が近く鮮やかに見えはしなかった。

 ――ここは東京ではない?

「あっ!」

 思わず、凜は声を上げた。

 半球の天を、燃え上がるように赤い彗星すいせいが駆けたのだ。流れ星のようにすぐには消えてしまわない。尾を夜空に斜めに広げる。それは禍禍まがまがしいまでに美しく、静寂の中の目印のようだった――。

 ――綺麗……。

 凜の胸が急に鼓動を速めて息が苦しくなった。

 彼女は彗星に気づく様子もなく前を歩く美男の袖を掴む。

「あの、ところでここはどこですか」

「おかしな奴だと思っていたが、まったくどうしたんだ。行在きんざいに決まっているだろう」

 命の恩人は馬鹿なことを聞くなと鼻を鳴らす。

「行在って……あの?」

臨安りんあんだよ」

 凜は首を傾げる。

杭州こうしゆうだ」

 ――杭州といえば東坡肉トンポーローで有名なところだよね? でも地図だとどこ? 中国の海岸に近い南部だっていうのは分かるけれど。

 地理には自信がないのに、杭州名物が小籠包しようろんぽうであることは追加で思い出す。そんな自分に腹を立てながら、凜は焦りとともに思考をぐるぐるとめぐらした。

 ――やっぱりここは中国なんだ……。

 現代ではあり得ないものばかりだ。

 ――ここはきっと現代じゃない。過去よ。

 夢なのかと思ったが、こんなにクリアーな夢は見たことがない。

 ――夢じゃないわ。

 門を出たところに馬車があり、普通に馬が繋がれている。道ゆく人は皆、昔の中国の衣を着て提灯ちようちんを持ち、道は舗装されていない。こんな夜遅くに半分裸の幼子がおしりを出してよちよちしたまま放置されていて、歯のないあめ売りが凜の前に買え買えと品を押しつけてくる。物乞ものごいが鉢を持って近づいて来たかと思えば、ざんばら髪の子供たちが集団で凜の帯から垂れていた飾り紐を盗んで走り去って行った。

「な、なにこれ――」

 愕然がくぜんとして、足が地にくっついたように動かなくなった。右を見ても左を見ても目につくのは現代ではあり得ないものばかりだ。

「ど、どうしよう。わたし幻覚を見てるの?」

 輿こしを担いだ男四人が横を通りすぎ、驢馬ろばふんをしながら鳴いている。

 これは明らかに凜のいた世界とは違う。

 ――落ち着かなくっちゃ。落ち着くのよ、凜。落ち着くの。

 いくつもの可能性を彼女は考えた。これは夢かもしれないとか、中国の歴史テーマパークに連れ去られたのかもしれないとか、飲み過ぎて幻覚を見ているのかもしれないとか。

 ――例えば、タイムスリップしたとしても――なぜわたしはこの世界の言葉を話し、理解することができるの? そんなのおかしいじゃない。

 結局、答えは一つしか思いつかなかった。どう考えてもそうとしか考えられない。

「もしかして――わたし、異世界転生した?」

 歩んでいた足を止めてつぶやくと、全身から血の気がなくなり、鳥肌が立った。

 ――そんなはずない!?

 異世界転生など物語の中だけの話だ。しかし、中国語をしゃべれないはずの凜が、なぜかこの世界の言葉が分かり、話している。普通では、説明できないことが起こっている。

 ――とにかく事情を聞かないと。

 凜は気を取り直した。そこでふと、先に礼を言わなければならないことを思い出す。彼女は前を行く美男に深々と頭を下げた。

「あの、助けてくださってありがとうございます。後日、お礼をしたいので、ぜひ名前をお聞かせください」

「は?」

 美男が大きく目を見開き、りん睫毛まつげをしばたたく。

「なにを言っている?」

「なにかおかしなことを言いましたか」

「俺が誰だか分からないのか」

「え? ええ。初めてお会いするので」

「凜、ふざけるな。どれだけ心配して捜したと思っているんだ」

「あの……」

 美男は困惑している凜を見て初めこそ怒っていたが、だんだん凜の様子がおかしいことに気づき始めたようだった。

 うかがうように凜の顔をじっくりと見て、その頭からぽたりぽたりと出血していることに気づくとはっと息をのむ。

「まずい、頭に怪我をしている。凜は記憶喪失だ!」

 彼は勝手にそう決めつけると、後ろに控えていた部下とおぼしき若者を呼んだ。

「医者を呼んでこい。普通の医者じゃない。宮廷に仕える太医を呼ぶんだ。父上の具合が悪いと言って急がせろ」

「かしこまりました」

 よくわからないが、医者を呼んでもらえるのはありがたい。

 頭を手で押さえていると、美男が白い絹の高そうなハンカチを手渡してくれた。こんないいものを血で汚してしまっていいのだろうか。返すあてがないが、頭を抱えて「なんてことだ。記憶喪失だと?」と何度もぼやいている彼に、凜は声をかけづらくて大人しくそれを使わせてもらうことにした。

「しっかり押さえろ」

 言葉は横柄だが、性格は良さそうだ。真っ白な絹で血を拭くと、少しは気持ちが楽になった。凜は恐る恐る訊ねた。

「あの、それであなたは……」

「俺はちよう子陣しじん郡王ぐんおうでお前の義理の兄だ」

 凜は首を傾げた。

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