約束やぶり

尾八原ジュージ

誕生日

 魔法使いは「七十年後に魔法は解ける」と言った。わたしの十八歳の誕生日。それからわたしはずっと十八歳のままだった。人生でいちばん綺麗な見た目のまんま、七十年が過ぎていった。

 その朝、目が覚めた途端にひどく体がだるくて、目がかすんでいた。手で顔をぺたぺたと触り、昨日まですべすべだった肌がガサガサになっていることを確かめたわたしは(ああ七十年が経ったんだ)ということを改めて悟る。

 今日はわたしの八十八歳の誕生日だ。

 とにかく体が重い。急に七十年分も年をとったのだから、うまく動けなくて当たり前かもしれない。声を出そうとすると、信じられないくらいかすれてしゃがれた声しか出なかった。わたしは枕元の電話をようやく手にとって、同じ屋根の下にいるはずの恋人を呼んだ。

 七十年の間、何度も恋人を変えてきた。魔法使いの言葉はちゃんと覚えていたから、今の恋人が最後だろうと覚悟もしていた。だから彼には魔法のことも教えてあったし、それに伴う約束も交わしていた。

 姿を現した恋人は、本当にしわくちゃのおばあさんになったわたしを見て驚いたみたいだったけれど、取り乱したりはしなかった。わたしに向かって発せられた声は、いつもどおり低くて落ち着いていた。

「ごめん、聞き取れないの」

 わたしがそう言うと、彼はゆっくりと、大きな声で言い直した。「誕生日おめでとう! 朝ごはん食べられる?」

 恋人はわたしがベッドから下りるのを手伝って、食卓に連れて行った。普段通りの朝食だった。サンドイッチとコーヒー。「無理して食べなくていいよ」と彼が言った。

「一度に加齢がきたら絶対しんどいからね」

「優しいね」と言ったわたしに「まぁね」と彼は返した。このひとはいつだってこうだったな、と考えながら、わたしは席についた。

 サンドイッチはいつもどおり美味しかったけれど、咀嚼するだけで顎が疲れた。コーヒーは胃がむかむかしてしまって一口でやめた。でも香りはとてもいい。

 顔を洗い、歯を磨いて身支度をすませ、それだけでぐったりとなってリビングのソファに沈み込んでいると、いつのまにか出かけていた恋人が戻ってきた。

「近くのデパートが開店したから、ありあわせの老眼鏡を買ってみた」

 どうかな、というからかけてみると、視界がかなりマシになった。わたしは彼に、鏡を持ってきてもらった。

 初めて見る自分の顔が映っていた。おばあさんだけど、確かにわたしだ。

「ふふふ」

 思わず笑ってしまった。

 さて、ちょっとずつこの体に慣れていかなければならない。このままでは、こうしてトイレに立つにも、いちいち支えてもらわなければならない。

 いきなり八十八歳か。なんとかひとりでトイレを済ませて、わたしはため息をついた。いきなりなんてなるもんじゃないな。みんなゆっくり老けていくわけだよ、ほんと。

「あっ。ねえ、約束」

 ふいに思い出して、わたしは恋人に大切なことを問う。彼は意外にわたしを支えて歩くのが上手い。ゆっくりと歩きながら「約束?」と聞き返す。

「約束したでしょ。わたしが八十八歳になったら」

「それより、ちょっと外に出てみようか」

 わたしの言葉を遮って恋人が言った。「いい天気だし、春だし、誕生日だし」

 わたしは恋人に手伝ってもらって、ゆっくりと靴を履く。玄関を開けると、暖かい風がわたしの頬を撫でる。彼を杖の代わりにしながら、わたしはおそるおそる地面を踏みしめた。

 街ゆくひとびとがみんな足早に見える。公園の花壇を埋めるチューリップ。散歩する犬。子どもを連れた若い夫婦。わたしたちの住む街からは、遠くに海が見える。青い水面が輝いている。

「わたしたち、おばあちゃんと孫にでも見えるかしら」

「そうかも」

「恋人同士には見えないでしょうね」

「どうだろう」

 花壇に沿って、広い遊歩道をのんびり歩いた。

「むかし実家にいた頃、祖母が転んで足を折って、それから寝たきりになった。性格もひどい癇癪もちになって」

 彼が急に話しだした。

「ちょうどぼくの両親の会社が傾きかけて、おやじもおふくろも必死に駆けずり回っていたころだったから、ぼくが大学を一年休学して、ばあさんの世話をすることになった。ばあさんがようやく老人ホームに入所して、ぼくも大学に戻って、そしたら両親の会社が潰れちゃって、結局中退する羽目になった」

「そんな話初めて聞いた」

「あんまり愉快な話じゃないと思って。もう今はばあさんも亡くなって、両親はどっか行っちゃって、それっきり」

「そう。で、いつわたしの家から出ていくの?」

 わたしの恋人はなにも答えない。

「ねぇ。約束したでしょ。わたしが八十八歳になったら別れるって。覚えてるくせに」

「したねぇ。でも急にそんな気分になれないから、ちょっと待って」

「ちょっとって、どれくらい?」

 彼はちょっと考え込んだ。「うーん、十年くらい」

「呆れた。あんた、どうすんのよ。その十年」

「どうするって」

「若い時の十年って普通は一度きりなのよ。戻ってこないの。そんなきれいな顔でいられるの、今だけなのよ」

「そうだね」

「だから、今日をわたしたちの最後の日にしましょう。それとも、血縁でも夫婦でもないばあさんのお世話に、貴重な十年費やすつもりなの? 財産なんかそんなに遺さないわよ」

 恋人はなにも言わない。

 わたしは、どうして魔法使いに魔法なんてかけてもらったのか、今になって思い出していた。怖かったのだ。年をとって醜くなるのが、わたしには死ぬより怖かった。なのにいざこうなってしまうと、なんだかそのことが馬鹿馬鹿しかった。

「海がきれいだね」と恋人が言った。

「きれいね。ねぇ、約束」

「あのねぇ、たぶんきみが心配してるほど、きみの寿命は長くないと思うよ」恋人はまたわたしの言葉を遮って言う。「ぼくだって急にきみのことが嫌いになるわけじゃないし、別れるんならちゃんと嫌いになってから別れたいわけだよ。それに、年とったきみをひとりぼっちにするのは後生が悪いし、引っ越しするのは面倒だし」

「約束やぶりめ。ああ、もうしんどくなってきた」

「じゃあ、帰ろうか」

 もときた道を歩きながら、わたしはふと思いついて尋ねた。

「もしかして、あんたも魔法かけてもらったクチなの? わたしみたいに」

 恋人は驚いたような顔でわたしを見たけれど、すぐにくしゃくしゃっと笑って「違うよ」と言った。

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