第二章 玄永家の一族 ⑧

 智世は答えることができなかった。入るなと言われた場所に入ってしまったこと、そこで見てはいけなかったのであろう書物を手にしてしまったこと。書庫の扉は開いたままだ。青年の冷たいそうぼうは、恐らくすべてを見通してしまっている。

 青年は、すん、と鼻を鳴らした。あざわらうような仕草にも、なぜだか──獣が匂いを辿たどるような仕草にも見えた。

「君が弟の嫁御か」

 辛うじて智世はうなずく。今、声を発しないと何も言えない気がして、何かに追い立てられるように口を開いた。

「雨月家から参りました。智世と申します」

 青年は──宵江の兄というその青年は、口の端をゆがめるようにして笑った。その左右対称でない奇妙さには逆に不思議な魅力があり、目を引きつけられる。恐ろしいとわかっているものをつい見てしまう心境に似ている。

「玄永らいこうだ。普段は離れに住んでいる」

 智世はぐらつく両足を𠮟しつして立ち上がり、頭を下げた。

「勝手に入ってしまった非礼をおびいたします。お義母かあ様にごあいさつをしたくて仏間に入ったら、この扉が気になって思わず開いてしまいました」

 正直に告げる。来光と名乗ったこの青年の鋭くくようなまなしの前では、どんなごまかしも利かない気がした。

 来光は智世の足もとに目をやった。そこにはまだ、玄永家譜が落ちている。

「君、それを読んだのか?」

 智世はとつに首を横に振る。

「いいえ──」

 ──あれはきっと知ってはいけない情報だった。

「──手に取っただけで、中は見ておりません」

 智世は震える声でそう答えた。

 来光は気付いているだろうか。智世の噓に。

 きっと気付かれている。次に彼は何を言うだろう。宵江によく似た、でもまったく似ていないその鋭利な視線で何を。

「……なるほど。まあいいさ。私は別に弟に告げ口しようなんて考えちゃいない。何せ弟とは一月も顔を合わせていないんだ。私はただ」

 一呼吸置いて、告げられた言葉に、智世は頭を強く殴られたような心地がした。

「君が今すぐここから出て行って、その目障りな姿を私の前に見せないでいてくれたら、それでいいんだよ」

 その強い言葉に、一瞬呼吸が止まりかけた。

 固まりそうになる両足を再び𠮟咤して、仏間の扉のほうへ向かう。

 書物に書かれていたことと、来光の言葉とに両側から挟まれて、頭がひどく混乱している。退室する前、一度振り返って来光に一礼することができたのは、我ながら奇跡と言っていい。息がとても苦しかった。

 顔を上げると、来光がその手に花を持っていることに気付いた。中庭に咲いていた薔薇ばらの、みずみずしい切り花だ。仏壇に供えられているものと同じ。

 立て続けに受けた衝撃のせいでもうろうとしていた頭が、急にめいりようになった。

 この仏壇に眠る人は、宵江の母であるのなら、それは同時に来光の母でもあるということだ。

 母親の仏壇の花を取り替えに来た青年の姿が、一瞬、宵江ととてもよく似て見えた。

 だがすぐにその鋭い双眸ににらまれ、その姿はまた全く別のものに見えてしまう。

 智世はきびすを返し、逃げるように仏間を後にした。


 中庭に面した縁側を駆け戻り、居間に入ると、そこに宵江がいた。

 仕事の話し合いは終わったのだろうか。長椅子に腰掛け、一人で茶を飲んでいる。智世の姿を認めるや、その無表情な美しい顔を、明らかにうれしそうに輝かせた。

 それを見た瞬間──不思議なことに、胸の中に渦巻いていた黒いもやのようなものの半分が吹き飛んだ。あの書庫で見たものの分だ。智世は宵江に駆け寄る。宵江が立ち上がってくれたので、勢いのままその胸の中に飛び込んだ。

「智世さん?」

 まさか智世が抱きつくとは思わなかったのだろう、頭の上から宵江の戸惑ったような声がする。だがその腕は、躊躇ためらいがちに、優しく智世を抱きしめ返してくれた。まるで壊れ物を扱うような手つきだ。腕の中の温かさに、智世はあんの息を吐いた。

 ──贄、という言葉は確かに智世にとって衝撃だった。あの書物に書かれていたことが事実であれ創作であれ、ひどく動揺したことは確かだ。

 だが、もし仮にあれが事実なのであろうとも、こんなふうに優しく抱擁してくれる相手のことこそを信じよう。仮に今後、宵江の口から──お前は生け贄になるためにここに連れてこられたのだと告げられるのだとしても。

 それに、腕のぬくもりの中で落ち着いてみれば、贄なんていかにも時代錯誤だ。つじ斬りにしろ何にしろ、時代錯誤なことが多すぎる。そんなものにいちいち心を乱されて振り回されるのは、何だかばかばかしいようにも思えてくる。

 智世は自分がそんなふうに考えられていることが不思議だった。

 さっきはあれほど──まるで世界の終わりであるかのように動揺したというのに。

 宵江の胸に手を置いて、智世はちらりと彼の顔を見上げてみた。黒曜石のひとみが、柔らかい眼差しで智世を見下ろしてくれている。こんなふうに優しい目ができる人が、もし智世を害そうなどと考えているのだとしたら、そのときはもう仕方ないという気がした。何だかあきらめがつくような、それでいて勇気が湧いてくるような、不思議な気分だ。

(ああ──私、本当に宵江さんのことが好きになってるんだ)

 だからこんなにも、宵江の抱擁が智世に力を与えてくれる。

 宵江が智世の前髪をくように優しくでてくれる。その指先がこめかみを伝って頰まで降りてきて、くすぐったさに思わず笑った。

「よかった。笑ってくれて」

 宵江の言葉にどきりとした。

「……どうして?」

「少し暗い顔をしている気がしたから、何かあったのかと」

 智世は目をしばたたかせた。居間に入ってから宵江に抱きつくまで、ほんの数秒だったはずだ。そんな短い間に智世の顔色を正確に見分けられるほど、熱心に見つめてくれていたということだろうか。

 照れくささに耐えかねてうつむきつつも、智世は思案した。書庫の件はともかく、もう一方の──胸の中にいまだ黒く渦巻いているもうひとつの靄のほうについては、隠さないほうがいいような気がする。

「……お義兄にい様に会ったの。中庭の薔薇の植え込みの辺りで。あれ、亡くなられたお義母様のお花よね? れいで思わず見とれてたら、来光さんが声を掛けてくれて」

 噓を吐くのは心が痛んだが、それよりも宵江の言いつけを破って書庫に入ったことや、玄永家譜の冒頭を読んでしまったことへの後ろめたさのほうが勝った。

 抱きしめ返してくれている宵江の腕がこわばった。

「来光に会ったのか」

 緊迫した声音だ。両肩をつかまれ、顔をのぞき込まれる。というより、智世の顔や身体のあちこちを検分している。

「宵江さん?」

「何か言われたか? 何もされてないか?」

 智世は来光の、こちらを憎んでいるかのように強い拒絶の言葉を思い出した。

 ──言わないほうがいい。

 咄嗟にそう思った。

 智世は笑顔を浮かべて見せる。

「何もないわよ。ご挨拶しただけ。あなたにお兄さんがいるなんて知らなかったわ」

 その言葉に、宵江はばつが悪そうに視線をらした。

「……折を見て紹介しようとは思っていたんだ」

 その声音にも、表情にも、できれば智世を来光から遠ざけておきたかった、という内心がありありと見て取れた。それはどう考えても、会ってしまったら嫌われるのは避けられないと言われているのと同じだった。

 智世は宵江の胸板に頰を押しつけた。彼の心臓の鼓動を聞いて、無理に気持ちを落ち着ける。

 ──宵江と仲の良い夫婦になりたい。それはひつきよう、宵江と良き家族になりたいということだ。

 その家族の中にはもちろん茨斗たち使用人も、──宵江の家族も含まれている。それなのに。

 泣きたいわけではないのに、涙が勝手ににじんできた。それを宵江に知られたくなくて、何度もまばたきをした。でも、彼には気付かれているだろう。頭を撫でてくれる手つきが、あまりに優しすぎる。

 なぜ来光は初めて会った智世のことをあんなにも、憎むような目で見てきたのだろう。なぜあんなにも、自分は来光に嫌われてしまっていたのだろう。智世が書庫に勝手に入ってしまったからだろうか。それだけであんなにも憎まれてしまうものだろうか。

 鋭い視線で刺すように睨んできた来光が、宵江とよく似た顔立ちであったことが、余計に智世の傷をえぐった。

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