第二章 玄永家の一族 ⑦

 文机の上には、他にも様々な体裁の書物やら、何かの帳面やらが載っている。まるで書庫内のあちこちから引っ張り出してきて、最近までここで調べ物をしていた人物がいた形跡であるかのように。

 ──雨月家譜。

 ──玄永家譜。

 読んではならないと思うのに、智世の目は勝手に帳面の表紙に書かれた文字を追ってしまう。

 ──もうりよう譜。

(魍魎……物のとか、ようかいのこと?)

 こんな非現実的な空想本も交じっているのが何だか妙だった。

(魍魎録ってことは、もしかして譜なんてものもあるのかしら)

 視線を少しずらすとすぐに見つかった。

 ──魑魅譜。

 山に川に、日本中あちこちに古来よりみつくとされているあやかしたちの記録。当然、作り話だ。元は川のはんらんや日照りなどの、昔の人間にとっては不可解な自然災害が起こったり、正体不明の疫病がまんえんしたりした際、偶像のようにその元凶に仕立て上げられたもの。あるいは小さな子どもへの教訓として作り上げられたもの──それが物の怪や妖怪だと、智世は思っている。世間一般の認識だってそうだ。ちまたではやれ妖怪だの幽霊だのが原因の事件が雑誌に面白おかしく取りされることもあるが、それを本気で他人に話そうものなら笑われるに違いない。あれは娯楽の一種だ、そんなものが実在するはずがない、と誰もがそう思っている。

 ──不意に、智世の脳裏に、黄昏たそがれ時の見間違いの記憶がよみがえった。

 存在しないはずの異形の影。視界の端でうごめく何か。

 ごくり、とつばを吞む。

(……まさかね)

 智世はどうしてもあらがえず、手近にあった魑魅譜のほうを手に取った。恐る恐る開いてみる。しかしそこに描かれた絵を見て、智世は小さく悲鳴を上げて、危うく本を放り投げかけた。

(む、虫!?)

 すぐに視線を外したからちゃんとは見なかったが、何だか脚がうじゃうじゃ生えた虫の絵が描かれていた。魑魅とは山に棲む妖怪だ。虫の形をしているのは理にかなってはいる。智世はすぐに本を文机に戻した。ばくばくと音を立てる心臓をなだめながら、視線を脇へと外す。

 ──雨月家譜。

 見ないようにしてもどうしても視界に入るし、何より非常に気になる。何せ智世が生まれ育った家名が書かれた書物なのだ。

(……少しくらいなら)

 ちくちくとした罪悪感はありつつも、興味が勝ってしまって、智世はその書物を手に取った。ぱらぱらとめくってみると、濃い墨の匂いがする。そこには智世も知らなかったような雨月家の家系図や、それぞれの生年月日に没年月日、生前の勤務先まで書かれている。もしかすると父親の情報も書かれているのかも、と気付いて智世は慌ててそれらの頁を飛ばした。父親の勤務先が詳細に書かれているのは見たくはあるけれども、知るならばやはり堂々と知れるほうがいい。こんな盗み見のような形ではなく。

 だが頁を飛ばす直前、飛び込んできた文字が引っかかった。

 ──なかつかさしよう

 見慣れない言葉だ。だがどこかで見たような気もする。その言葉が書かれているのは、家系図の随分と初めのほうだ。智世の遠い祖先。

 智世は何だか胸がそわそわと落ち着かなくなるのを感じた。雨月家のことが詳しく書かれているのはわかった。ひょっとすると今回の縁組みにあたって、父親が玄永家にした書物なのかもしれない。

 ──玄永家譜。

 こんな盗み見はもうやめよう、良くない、と脳内で智世自身が叫んでいる。

(この本にも……雨月家譜と同じように)

 考えるより先に、手が本を拾い上げてしまっている。勢いのままに本を開くが、予想に反して家系図の頁よりも先に何かが書かれている。家系図まで頁を飛ばそうとした手が止まった。不穏な文言が目に飛び込んできたのだ。

 ──娘を、にえ──

(……え?)

 手跡は達筆で、智世からすると読みづらいが、必死に目を凝らす。

 必死に読まずにいられたら、知らずにいられたらよかったのに。

 ──もうりようどもの勢力をはつり、たおすべく、玄永の当主は雨月家の娘を、贄として迎えることを定める──

 ばさ、と書物が音を立てて足もとに落ちた。だが智世はそれを気にすることができなかった。

 文机の上には、作り物の空想本であるところの魑魅譜も、魍魎譜もある。それと同じように机に載っかっていた書物に、一体どれほどのしんぴようせいがあるものか。死に物狂いで自分にそう言い聞かせる。

 だが──頭の中で、あの異形の影どもの記憶が迫ってくる。

(……贄)

 嫁に来てくれて本当に嬉しい、と──心から喜んでくれていた、あの日の宵江の顔が浮かんでは消えた。

 何か──恐ろしい獣のような姿をした物の怪が、差し出された生け贄を前に残酷な笑みを浮かべているような、そんな幻が頭の中を駆け巡る。

 宵江は婚礼の日からずっと、智世に好意を向けてくれていた。初対面だというのに不可解なほどにだ。その部下であり、一族の仲間である茨斗たちも、出会ったその日から智世に対していやに親切だった。

(私が……生け贄だから……?)

 手が震える。呼吸が浅く、速くなる。

 早く──書庫から立ち去らなくては。

 玄永家譜を文机の上に戻し、扉を閉めて、何事もなかった顔をして宵江のもとへ戻らなくては。

 ──何のために?

(……生け贄になるために? 何の?)

 ──魑魅魍魎どもの勢力をはつり、斃すため。

(そんなものが……実在するわけ)

 黄昏時の──かれ時の、あの異形の黒い影ども。

 駄目だ。考えてはいけない。とにかくこの薄暗い部屋の扉を閉めて、陽の光の下に戻らなくては。でないと恐ろしいものが追いかけてくる。誰かが、何かが──

「──そこで何をしている」

 不意に背後から声を掛けられて、智世は驚きのあまり腰を抜かしてしまった。

 ずるずると座り込み、振り返る。異形の何かがそこにいるのだと覚悟して。

 だが──仏間の入り口に立っていたのは、一人の青年だった。

 目をみはるような美しい銀色の髪をした、宵江よりもいくらか年上に見える青年だ。

 そう、宵江にとてもよく似ている。そして同時に、まるで似ていなかった。目鼻立ちの美しさはそっくりなのに、浮かべている表情でこんなにも人の印象が変わるものなのかと驚くほどに。

 青年は不愉快そうに顔をしかめて、智世を見下ろしているのだった。

「そこで何をしているといているんだ。聞こえなかったのか?」

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