第二章 玄永家の一族 ⑥

 一騒動あったものの朝食は無事に終わり、宵江が屋敷を案内してくれた。

 玄永家の敷地は外から見ても広い。敷地をぐるりと囲む武家屋敷然とした塀は歴史を感じさせる。智世は何度も、玄永家は華族ではないのかと確認したが、そのたびに否定された。華族であればあったで、官僚の娘とはいえ血筋的には一般家庭の出である智世に白羽の矢が立てられた意味がわからないし、華族でなければないで、こんな立派な屋敷に暮らしているからには、実は代々豪商か何かでなければ説明がつかない。しかし豪商ならば、こうも当主の仕事の内容をはぐらかされるのもおかしな話だ。

(まさか、世間様に言えないようなものを売りさばいて巨万の富を……!?)

 だがその悪党の親玉が宵江のような人物とはどうしても思えないし、その悪党の手下どもが茨斗たちのような人物だとも思えない。しかし、

「屋敷の西の奥にある書庫は立ち入り禁止だ」

 と宵江に念を押されたのがいささか気になる。書庫に、見られたらまずい帳簿や取引の記録でも隠されているのだろうか。とはいえ書庫の場所も知らないし、わざわざ探そうという気もないのだが。

 気になることはまだあった。

 広大な玄永家の屋敷には茨斗たち使用人の部屋が、そして敷地内には一族の者たちが暮らす離れがある。離れで暮らす女性たちは流里の下で女中として働いており、交代で屋敷の家政に当たっているらしい。

 だが敷地内ですれ違う男性たちは皆、揃いの黒い制服を着ているのだ。ちょうど茨斗が連れていた部下たちと同じ、宵江たちのものよりもやや簡素な制服である。彼らの話し声に耳をそばだてていたわけではないが、彼らの行き先の話題から、屯所、という文言が漏れ聞こえてきたときには、智世はさすがに首を傾げた。屯所とは要は警察官や軍人の詰所だ。一族の男性たちが全員、内務省の同じ部署に勤めていて、玄永の屋敷から屯所とやらに通っている──果たしてそんなことが普通、あり得るのだろうか。

 それに──気になるといえば、使用人頭だと名乗った茨斗が、宵江と似たような制服を着ていたことも、部下を引き連れて恐らく屯所とやらに出かけていったこともそうだ。女中がいるのに智世の世話係が十咬であることも。流里は女中頭だから、奥方の世話係などしている場合ではないのかもしれないが、女中たちの誰かではどうしてだめだったのか、その説明もまだきちんとされてはいない。

 案内を受けながら、智世は婚礼の日のことを思い出していた。

 智世は宵江の父親にまだ直接会っていない。婚礼の日、あの料亭には来てくれていたものの、ついたてを挟んで声だけであいさつをすることしかできなかったのだ。まるで越しに貴人と会うような具合だった。何でも宵江の父親は重篤な病で、新婦とその親族に姿を見せるに忍びないと言っていたのだそうだ。いつかお見舞いに行けるといいのだけれど、と智世は思う。こればかりは病人本人が嫌と言うなら、こちらの無理を押し通すわけにもいかない。

 そして先代の奥方、つまり宵江の母親は、宵江が幼い頃に亡くなっているらしい。両親に守られてこの歳まで育ってきた智世には、家の中に親がいないというのはどこか心細かった。

 屋敷の中、智世が居住する範囲は和洋折衷という印象が強かったが、客間や倉庫に至るまでもそれは同様だった。もともとは見た目にたがわぬ純和風の武家屋敷だったのが、そもそもは先代の奥方が舶来趣味で、彼女の影響を受けた先代もまた屋敷に少しずつ手を入れ、今の内装になったらしい。

 一通り案内を受けたところで、宵江が黒い制服の部下に呼び止められた。非番であろうが一族の当主である以上、仕事からは逃れられないらしい。智世はさりげなく席を外すことにした。妻とはいえ第三者、聞いてはならないこともあるだろう。智世の去り際、宵江は申し訳なさそうにこちらに視線を向けた。それに微笑み返し、智世は彼らのもとから立ち去る。

 宵江はまだ智世に、自分の──玄永一族の仕事のことを話す気はないらしい。だが智世とて箱入りのお嬢さんではないのだ。今置かれた状況や見聞きしたものから、ある程度推測するぐらいはできる。

(でも、今考えたって仕方がないわよね)

 智世は縁側から中庭に目をやった。立派な枝振りの松に、小さな石橋の架かった池まで続く飛び石、池の側にはいしどうろうが置かれた、武家屋敷に似合いの見事な庭園だ。

 だがその端に、どこか不釣り合いな赤い花が咲いている場所があった。

 縁側を進み、その一角に近づいてみる。緑がかった黒のてつさくに、とげのある美しい花が絡みついている。

(これは……薔薇ばら?)

 まるでこの小さな一角だけ、英吉利イギリス式の庭園のようだ。きっと亡くなった先代の奥方が世話していたのだろう。そういえばさっき宵江に屋敷を案内してもらっていたとき、仏間があると言っていたが、場所までは聞けていなかった。宵江の母親にまだ嫁入りの挨拶もきちんとできていないから、後で場所を確認しようと思っていたのだ。

 と──薔薇が植わった一角に一番近い縁側から、細い廊下が続いていることに気付いた。まだ案内されていない場所だ。ひょっとして、とその廊下をのぞき込む。仏間はこの廊下の先にあるのだろうか。仏間に眠る宵江の母親からよく見える位置に薔薇を植え替えた、ということもあり得ると思ったのだ。もし自分が先代や宵江の立場だったら、きっとそうするだろうから。

 智世はそこが、宵江が言っていた『西の奥』に続く廊下だとは気付かないまま歩を進めた。廊下の先に扉があり、おずおずと開くと、果たしてそこにはやはり仏壇があった。遺影はない。が、よく手入れされていて、思った通り薔薇の切り花が──ややしおれかけてはいるが──飾られている。きっとお義母かあ様のご在所であろうと当たりをつけて、線香を上げ、丁寧に手を合わせた。

 せっかくの慶事の挨拶の相手が物言わぬ仏壇の中というのは、やはり切ないものがあった。宵江に寄り添ってあげたい、という気持ちがいや増す。

 智世は一礼して立ち上がり、部屋を出ようとした。

 そのとき──仏間の奥に、もうひとつ扉があることに気付いた。

 それがもしふすまなら、押し入れだと思っただろう。だが重厚な色味の、洋風建築のような金属製の取っ手のついた、木製の扉なのである。

(もしかして、ここから外に出られるのかしら?)

 別段、外に出たいわけでもなく、ただ単にどこに続いている扉なのかを確かめたいだけだった。もし外に出られるなら、中庭のように美しい庭があったらうれしいなと思ったのだ。智世は軽い気持ちで取っ手を回し、扉を開いてみた。

 扉の向こうを覗いた瞬間、智世は自分の過ちに──ここが立ち入り禁止の『西の奥』であることに気付いた。

 宵江は書庫と言っていたが、どちらかというと女学校時代、研究熱心な教師の教務室がこんなふうだったと智世は思い出した。大半は書物だが、何かの記録であろう紙の山や、きちんと製本されていないものもうずたかく積み上げられている。

 部屋自体はさほど広くない。仏間が六畳ほどで、書庫も同じぐらいの広さに見える。だが紙の山に埋め尽くされていて、比べるべくもないほどに圧迫感があった。

 積み上げられた本の間に申し訳程度の隙間があり、そこに小さなづくえが置かれている。ここで書き物などもできるようになっているようだ。

 宵江が立ち入り禁止とわざわざ念を押したということは、ここに智世が見てはならないものがあるということだ。それが仮にあくどい商売の記録であろうと、今ここで盗み見るのは礼儀にもとる。智世は慌てて扉を閉めようとした。

 だが──文机の上に、表紙に『雨月家』と書かれたじ本が載っているのを見つけてしまった。

(──どうして)

 智世は息をんだ。

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